読書録−−99年2月
2月1日 ジョージ・バーナード・ショー『聖女ジョウン』(白水社、『ショー名作集』所収)
中川龍一・小田島雄志訳
ショーというと、名前は結構有名だが、日本ではほとんど読まれていない。邦訳を探しても、数年前に岩波文庫で復刻された『人と超人』くらいしか見つからないだろう。コリン・ウィルソンがひどく称揚しているので、岩波文庫版で『人と超人』と『メトセラへ還れ(邦訳題「思想の達しうるかぎり」)を読んでみたが、読後感はぱっとしなかった。でも、訳文があまりよくないせいで、作品世界に入りづらかったというのがあるのかもしれない。後者の本は、戦前に刊行されたものの復刻で、旧かなづかいで印刷が悪くてひどく読みづらかった。
この『聖女ジョウン』は訳文もよく、大変読み応えがある内容だった。臆病なフランス王シャルルの尻をたたき、イギリス軍をフランス国土から追い払うことに最大に貢献した勇敢な女性、ジャンヌ・ダルクを主人公とした、長編劇である。キリスト教を痛烈に批判しているショーの教会批判が随所にちりばめられ、奇蹟を一番信じていない教会の人々は、また、奇蹟を利用して、民衆を都合よく操作しようとする。魔女として処刑されておよそ二十五年後、ジャンヌは名誉回復され、聖者の名に列せられる。最後のエピローグでは、ジャンヌの霊が、自分にかかわった人たちと会話する場面で、処刑に賛同した人たちまでもが、ジャンヌを聖女として崇めるのだが、「今から復活しようかしら」とジャンヌの霊が口走ると、一斉にみな「それはやめてくれ」と懇願して、逃げだしていく。末尾のセリフはジャンヌが「この地上はいつになったら、死者でなく生きている聖者を受け入れることができるのかしら?」という内容の含蓄のある内容である。
2月7日 アン・モア/デビッド・ジェセル『犯罪に向かう脳』藤井留美訳・原書房
犯罪者の脳を分析した結果、多くの犯罪者には一般人と異なる脳内の障害やホルモン異常があったと主張している。セロトニンというホルモンが少ないと、衝動が抑制できなくなり、感情が激発しやすく、犯罪をおかしやすいらしい。さらに進んで子ども時代から、犯罪者の素質があるのを、脳の検査でかなりつかめるという。この立場を敷衍すると、ナチスみたいに、犯罪者の素質がある人間をあらかじめ隔離・抹殺せよという危険思想にも結びつきかねないが、著者はあくまで科学的データに立脚して論を進めているので、傾聴すべき主張も多い。今後の犯罪対策として、日本政府も、この観点からの対策も今後進めていくべきではないだろうか。
2月8日 東野圭吾『私か彼を殺した』(講談社ノベルス)
前作『どちらかが彼女を殺した』と同じ趣向で、犯人の指摘を探偵役の加賀がする結末だが、犯人は文中では明示されない。手がかりはすべて与えられているから、読者に、自分で推理させる趣向である。『どちらかが−−』の場合は、二つの手がかりを拾えば、その二つから論理的にどちらが犯人であるかは、決定する。未読の方で自分の推理力を試したい方は、是非ご一読を。
今度の作品は、容疑者は三人。誰かが彼を殺したに違いないのだが、「犯人はあなたです」という加賀警部補の言葉で物語は終わり、その名前、推理は明かされない。しかし、作者は、推理の手がかりをすべて提示している。今回の作品は、毒殺なので誰が毒をいれるチャンスをもっていたか、ということ、および被害者が常用していたカプセル錠の行方を追うことが、推理の道筋となるだろう。
でもって、犯人は××であることが決定するわけである。
2月9日 フリードリッヒ・デュレンマット『約束』前川道介訳・ハヤカワポケットミステリ
昭和35年10月初刊
デュレンマットの名が気になるようになったのは、コリン・ウィルソン『新時代の文学』(福村出版)や『小説のために』で、現存する唯一の、注目に値する実存主義小説家と、ウィルソンが評していたからである。『夢見る力』(竹内出版)にも言及があったよう気がする。かてて加えて、一昨年、ハヤカワ文庫で復刊された、ミステリ評論集『深夜の散歩』(ハヤカワ文庫)で、丸谷才市氏が、一章をデュレンマットにさき、称揚していたとなるとなおさらである。作風としては、ミステリでなく純文学の人だが、犯罪を扱っている小説が多いので、日本で翻訳されたのは、私の知るかぎり、ハヤカワのポケミスの二冊のみである(他もあるかな?
よく調べてないけど)。スイスの作家は、あまり翻訳紹介される機会に恵まれないようだ。
しかし、何せ『約束』と『嫌疑』は昭和35年と昭和37年に刊行された本なので、古書店を捜し回っても、ずっと見つけられずにいたのだ。それが最近、神田の古書店で割に安価で二冊とも発見したので早速読んだ次第。
本書の冒頭で推理小説談義、登場人物が、現実があんなにうまくいくわけがないという推理小説批判を展開する。その例証として、この地方であった過去の殺人事件が語られ始める。ノックス『陸橋殺人事件』、シムノン『ベルの死』、中井英夫『虚無への供物』あるいは去年出た浦賀和宏『記憶の果て』まで連なる、推理小説否定論の系譜につらなる作品である。しかし、本書の解決はいかにもショボいものである。グリトリ・モーゼルという少女が強姦されて殺害された事件で、フォン・グルテンという、やや知能の鈍い行商人が、少女に猥褻行為をした前科があったので、民衆から告発され、あわやリンチにかけられそうになるのを、警察に保護・逮捕される。グルテンは犯行を否認し続けるが、何日もの厳しい取り調べを受けた末、とうとう自分がやったと認め、首を吊って自殺する。しかし、マテイ警部は、グルテンの犯行と信じることができず、上司の反対をおしきり、独自に捜査を続け、職をやめてもなおも犯人を追う。スイスの別の地方でも、似たような少女の強姦・殺害事件が起きているので、マテイはまだ逮捕されていない同一犯がいるとにらむが、なかなか手がかりをえられない。その被害者の少女たちの顔つきが共通性があることに気づいたマテイは、彼女たちとそっくりの顔だちをした少女を発見し、犯人がいつか彼女を狙うだろうと予想し、ずっと彼女の周囲を見張り続ける。ある日、その少女が、学校から帰って来るのが遅れる。あとで少女に会って事情をきくと、チョコレートとプレゼントをくれた男の人がいたという。そのチョコレートの銘柄は、死んだモーゼルがもっていたものと同じものだった……。
2月9日 フリードリッヒ・デュレンマット『嫌疑』前川道介訳・ハヤカワポケットミステリ
昭和37年1月初刊
デュレンマットの処女作「裁判官と死刑執行人」と第二作「嫌疑」の二中編を収めた翻訳書。推理文壇を利用して文壇デビューしようとしたのか、「裁判官と死刑執行人」は最もミステリ味が濃い。若い頃に、善と悪、犯罪を行なうことの是非で、対立し論議した二人の若者は、一方は警察官に、もう一方は、自らは手を汚さない悪の黒幕となっていた。余命幾許もなくなった老警官は、彼と最後の対決に乗り出す。
『嫌疑』は、読んだデュレンマットの三篇の中で一番面白いと思った。戦争中のドイツの強制収容所で、多くのユダヤ人に人体実験を施したネーレという医師が、いまスイスで活躍しているエメンベルガー医師とそっくりであることに、強制収容所を経験したユダヤ人が気づく。ネーレは、終戦直後に自殺したことになっているが、その死を調べてみると、替え玉自殺である疑いが濃いことがわかってくる。「裁判官と死刑執行人」と同じく、余命いくばくもない退職したベールラッハ元警部が本篇の主人公で、エメンベルガーの追求に乗り出す。ラスト近く、エメンベルガーの愛人となっている、元・共産党員の女性が、延々と語る、悪の哲学が、迫力があって圧倒される。これは傑作。
2月15日 笠井潔『テロルの現象学』(筑摩書房・ちくま学芸文庫)
評論家・笠井潔の出発点となった、記念すべき長篇評論。笠井潔の思考の原点であり総論とも言うべき性格の書物なので、笠井潔の小説世界を理解する上でも、見落とせない重要な書物である。
キリスト教の聖書には、どこにも「三位一体」のことが書かれていないのに、キリスト教の神学の上でもっとも重要な教義にまで祭り上げられるのは、その教えが、外部を隠蔽し取り込む上での恰好の思想的な装置だったせいだろう。ヘーゲルの正反合の弁証法もまた、外部を取り込む強力無比な、抑圧的な思想の装置であり、その機能を最大限に生かしたのが、マルクス=レーニン主義となっていくわけである。笠井のこの書物はその観念の発生、発展形態を丹念に追い、それがテロリズムへと転化する過程を容赦なくあばきたてている。
2月16日 笠井潔『機械じかけの夢』(筑摩書房・ちくま学芸文庫)
11章にわたってSF作家・SF作品を論じた評論集。序説で総覧、第一章で起源作品を論じた後、第二章から第十一章までは、一章ごとに一人の作家を取り上げて論じている。ヴァン・ヴォークト、クラーク、小松左京、コリン・ウィルソン、アシモフ、ハリイ・ハリスン、シルヴァーバーグ、ゼラズニイ、ル=グイン、ギブスン。各章で代表作品を一〜三作ほど取り上げて、主に進化と社会の観点から批評している。単行本版が十年近く前に刊行されたとき、この本を手に取りはしたのだが、よく読んでいる作家が、コリン・ウィルソン以外になかったので、その章だけしか読まなかった覚えがある。この度9年ぶりに文庫化されたのを機に、初めて全体を通読した次第。しかしやはり、SFの基本的な作品さえ読んでないのはいかんなあと思い、この評論で取りあげられている作品を少しは読んでみようと思った。本文中で気にいった一節。
「……始めから私は、なにやら評判の悪いこの学問(『形而上学』のこと)に対してかなりの好感を抱いていたのである。そもそも、ピンの頭の上で天使が何人踊れるかなどという問いを提出し、それを大真面目で論じるような精神に対して、どうして好意以外の気持を抱きうるだろうか。もともと私は、そういう種類の話が大好きなのだ」(114頁)
2月18日 アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』福島正実訳・ハヤカワSF文庫
というわけで、非常に有名なこの作品を読んでみた。『2001年宇宙の旅』に通じる人類の進化を宇宙史的観点にとらえようとしている。オーバーロードが代表するのが合理的精神、知的自我なら、オーバーマインドが象徴するのは、ニーチェの言う、ディオニュソス的なもの、イド等であろう。読んでみると、割に普通の作品で、呈示される進化の姿もとりたてて目新しいとは思わなかった。
2月18日 小松左京『果しなき流れの果に』(ハルキ文庫)
『幼年期の終り』もそうだが、SF作品を読んでいて、人類全体あるいは宇宙を俯瞰するような巨視的な視点が出てくることには、ときどき戸惑いを覚える。巨大な宇宙から見れば微細な人間の物語を描いているのに、ときどき巨視になるのが、SFを読み慣れない読み手として不適応を起こすところなのである。小松左京の長編を読んだのは、刊行直後に読んだ『日本沈没』以来、これが二作め。数えてみると、四半世紀ぶりに読んだことになる。この作品中で未来世界の分岐の一つで、日本が沈没する光景が描かれていたから、ここで描かれた壮大な宇宙史の中に、小松作品がすべて位置づけられるということかもしれない。終章のパラレルワールドの論議は、ウスペンスキーの『奇蹟を求めて』に出てくるパラレルワールドとそっくりである。ウスペンスキーの師のグルジェフの大作『ベルゼバブの孫への話』は、SFとしても読める作品だが、そこでは、人間の進化を妨げる力は、クンダーバッファーとして結晶化されていた。小松のこの作品は、構造において、『幼年期の終り』と通底しているが、管理と抑圧の葛藤と対立がある分、クラークのより物語が動的である。
2月18日 H.G.ウェルズ『モロー博士の島』橋本槇矩・鈴木万里訳、岩波文庫
『機械じかけの神』には、SFの起源となる作品が、ポオの「ハンス・プファルの無類の冒険」か、シェリーの『フランケンシュタイン』かという議論があったが、私などは素朴に、『宇宙戦争』『タイムマシン』『透明人間』といった、SFの基本的パターンを確立したウェルズこそが、SFの始祖ではないかと思ってしまう。
スタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」という映画は、このモロー博士をベースにしていると聞いたことがあるのだが、読んでみると、マッドサイエンティストが出てくる以外は、特に共通性は見当たらない気がした。
シェリーの「フランケンシュタイン」を継ぎ、乱歩の『孤島の鬼』や、コリン・ウィルソンの『賢者の石』へと発想を受け継がせている、古典的・路標的作品である。
2月20日 コリン・ウィルソン『夢見る力』(竹内書店新社)中村保男訳
1968年6月初刊
去年『スクールガール殺人事件』と『殺人者』を読んでしまったので、邦訳されたウィルソンの小説で未読がなくなってしまった。犯罪関係の本などは読んでないのもまだ色々あるのだが、総計で60冊以上の本を読んだ作家というと、そうはいない。
これはおよそ二十年ぶりに再読した。当時ウィルソンの『賢者の石』に感動した私は、さっそく姉妹篇の『ロイガーの復活』(ハヤカワ文庫)を読み、続けて小説でない評論書である『至高体験』(河出書房)『アウトサイダー』(紀伊国屋書店)と、この『夢見る力』を読んだものである。しかし、読んだ当時は、この文芸書で私が読んだことのある作家はラヴクラフトくらいしかいなかったので、あまり理解したとは言えなかった。いま二十年ぶりに繙いてみると、扱われている作家の大半が、一冊以上は読んだことのあるものばかりになっていたので、より内容が把握しやすかった。
以下、本書で扱われている作家のリスト。
一章「合理性への挑戦」ラヴクラフト/イェイツ/オスカー・ワイルド/ストリンドベルィ
二章「リアリズムについて」ゾラ/ナサニエル・ウェスト/フォークナー/イヴリン・ウォー/グレアム・グリーン/サルトル/ロブ=グリエ/ナタリー・サロート
三章「完全なるペシミズムについて」アンドレーエフ/サミュエル・ベケット/
四章「科学のヴィジョン」H.G.ウェルズ/ザミャーチン/ラヴクラフト/E.T.ベル/
五章「闇の力」E.T.A.ホフマン/ゴーゴリ/ル・ファニュ/M.R.ジェイムズ/J.R.R.トールキン/サド
六章「性と想像力」モーパッサン/ヴェデキント/アルツイバーシェフ/D.H.ロレンス
七章「両極性の必要」(ハックスレー/ゴンチャロフ)……総論なので、主題となる作家は特にない章。
「補論」ハックスレー/カザンザキス/デュレンマット
ニーチェ、ドストエフスキー、トルストイ、ヘッセなどの超大物作家は『アウトサイダー』で扱われているために、本書で扱われているのは、それらに次ぐ一線級の文学者たちである。といっても、サルトルは、『アウトサイダー』に続いて取り上げられているが。サロート、ウェスト等はよく知らないが、ほとんどの作家がいずれも日本語に訳されている大物揃いである。アンドレーエフのように、現在ではすっかり省みられなくなった作家も含まれているとは言え。
この冒頭でとりあげられるラヴクラフト、ウィルソンの評価はさんざんである。「二十世紀で最悪の、最もけばけばしい文章家」(28頁)。大滝啓裕や荒俣宏がこの評価に反発していたし、初読のときはラヴクラフトの熱烈愛読者であった私も反発を感じたものである。しかし、ウィルソンの評価は、サルトルやドストエフスキーやロレンスといった、文学史上の最高水準の作家が基準になっているので、今となってはこのラヴクラフト評価はかなり妥当な気がする。江戸川乱歩が、本格推理小説をめちゃくちゃにけなしたエドマンド・ウィルソンの「誰がアクロイドを殺そうが」というエッセーに対して、「私は別に異論はない。普通文学の基準でミステリを論じればそうなるに決まっている」とこたえたのに似た心境である。その割には、ラヴクラフトのクトゥルー神話に依拠した作品を、後にコリン・ウィルソンが書いているのは謎であるが(『精神寄生体』『賢者の石』『ロイガーの復活』)。しかし、ラヴクラフトに限らず、なみいる上述の大作家たちに対して、ウィルソンは随分辛口である。上述の作家の作品で、比較的好意をもって評価されているのは『サーニン』『指輪物語』『われら』くらいのもので、作家として
も、留保つきでサルトルを誉めているくらいである。補論は別で、ハックスレーをずいぶん低く評価した後は、カザンザキスとデュレンマットに関しては、手放しといってもいいくらいの賛辞を送っている。
2月21日 アイザック・アシモフ『銀河帝国の興亡1』厚木淳訳・創元推理文庫
笠井潔氏が、最近の本格ミステリの危機を、「セルダン危機」にたとえていましたが、その出典となるこの有名な作品を私は未読でした。行動主義心理学派による心理的決定論は、大学の心理学講座でも受け容れがたいものを感じていたが、この作中の「歴史心理学」は、かなり行動主義心理学に依拠したものである。
セルダン危機の比喩から連想したのは、江戸川乱歩の『幻影城』をはじめとする評論集は、セルダンが残した予言書みたいなものかもということ。「このまま放置すれば、日本の本格ミステリの暗黒時代が100年は続くだろう。しかし、この『幻影城』を後世にのこせば、暗黒時代を20年に縮めることができる」。そうすると、第一次セルダン危機に直面している現在、打開する道を示してくれるのは、やはり予言者、乱歩先生の言葉ではないでしょうか。
2月27日 J.L.ボルヘス『伝奇集』(岩波文庫)鼓直訳
ボルヘスというと、十数年前に話題になったときに、『不死の人』を買って読んだ。あっけらかんと突拍子もない短い話を語る人だが、ストーリーテラーではないな、というのがそのときの印象だった。ひさかたぶりにボルヘスの本を読んでみて、やはりその感想は変わらなかったが、『不死の人』よりこちらの方が、名篇が多く含まれた短編集だと思った。感性として、チェスタトン、ピーター・ディキンソン、麻耶雄嵩氏に似ている気がした。ファリド・ウッディン・アッタールの『イスラム神秘主義聖者列伝』は、このパティオで読書感想をアップしたし、「活字倶楽部」の去年の本ベスト3の一冊にもあげた本だが、よほど特殊な興味で、その方面に関心がないと著者も名前も聞いたことがないはずで、めったに知る人もいなさそうな本だと思っていたら、本書の41頁にしっかりその本への言及があった。
この中の短編でベスト3をあげるなら、まず「八岐の園」。野崎六助さんが、複雑系ミステリの源流に名指している作品です。それから「バビロニアのくじ」「陰暦一年のあいだ、私は姿を見えぬ者と宣告された」という冒頭近くの一文にSF作家のシルヴァーバーグが触発されて「見えない人」を書いたという有名な短編です。それから「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」。『ドン・キホーテ』とまったく同文を書く偉業をなしとげるにいたる男の伝記である。