読書録/99年4月
4月10日 笠井潔『〈戯れ〉という制度』(作品社)
大阪・梅田界隈の大書店といえば、紀伊國屋書店と旭屋書店と、私が子どもの頃から相場が決まっていたが、去年だかにそれを凌ぐ店舗の本屋が出現したと聞いた。今までよくその場所がわからなかったのだが、今日ようやく発見した。ジュンク堂書店。たしかに置いてある冊数が凄い。そこで、この笠井潔の本を発見した。初刊の1985年のままの本で、定価には3%の消費税がつく前の本である。増刷しないまま、今でも在庫のある本らしいが、東京の大きな書店でも見かけたことはなかった。
ちょうど今月号の「小説推理」(双葉社)で、笠井潔の『天啓の虚』の連載の第一回を読んだところである。この評論集の冒頭にある蓮見重彦批判とほぼ同じ内容のことが、たしかそちらの連載にも出ていた。蓮見重彦の「物語批判序説」は、ポストモダンな学生には受けていた書物で、私も在学中に読んでいる。笠井潔の蓮見批判の要点の一つは「物語批判もまた物語批判という物語に容易に回収されてしまう」こと、つまり、「消費社会を蓮見がなめていたこと」に帰着するということか。
私は東大にいたときに、蓮見重彦のフランス文学の講義を受けたことがある。講演にきた浅田彰と、中沢新一の対談も聞きに行った。浅田の擁護者である立場のはずの蓮見が、別の場面で浅田思想のことを問われて、特有のもってまわった言い回しながらも、間接的に背面から批判するような口ぶりでいたのを思い出す。といっても、笠井は、蓮見が批判した「物語」にくみするわけでもなく、むしろ凡庸な正論であると評価しているらしい。やはり批判されるべき「物語」を撃つという点では実は笠井と蓮見は同意しているようだ。それでいて、一方で物語を紡ぐ作家でいるということは、「観念による観念批判」というモチーフと同じく、「物語による物語批判」をしようとしているのであろうか。
4月10日 コリン・ウィルソン『エイリアンの夜明け』南山宏訳・角川春樹事務所・1999年刊
邦訳書としては、コリン・ウィルソンの最新刊。『ポルターガイスト』もそうだが、近年のコリン・ウィルソンは、超常現象の証拠や証言に、真を認めすぎではないかという気がする。『オカルト』(平河出版社、河出文庫)のときは、本物と認めるか認めないかという微妙なせめぎ合いがあって、それが論に緊張感を与えていた。霊媒師の事例を研究するときも、しばしば本物の能力をもちながらもペテンもやったという両義的な結論にいたっていた。UFOに軽く触れておきながらも、目撃証言をまともに本物とは扱わないという態度だった。ところが本書になると、UFO証言をかなりまじめに受け取るようになってきているのである。色々と信じがたい事例がたくさん紹介されているが、これらをまともに受け取ったとして、そこから合理的な論がつくれるかどうか、きわめて怪しいところである。
4月11日 清涼院流水『カーニバル・イヴ』(講談社ノベルス)
『ジョーカー』でも、本格ミステリとして、結構使えるアイディアはいろいろとちりばめられていた。普通の推理作家なら、そのアイディアに応じた作品を構成しようと考えるところだが、清涼院は、無造作にアイディアをまきちらす、短い一発芸のような、極小志向の、いってみれば、ショートショートタイプの作家であると同時に、延々と書きつらねていく、極大肥大志向の作家である。この二つの資質が共存することは、一見珍しいようで、実はさほど驚くことでもない。本書も、その清涼院の志向は遺憾なく発揮されている。中盤の作中作の短篇「アナザー・ジョーカー」のくだり、解決案のところがおかしくて笑ってしまう。「うま」と「しか」の、いれかえと、人をくったトリック……。もったいない、私なら、このトリックあれば、それで長編書くのに。と濃縮性を感じさせる一方で、幼い内面の悩みとか心の状態を延々と書きつづって、物語がひきのばされている印象。
4月12日 清涼院流水『カーニバル』(講談社ノベルス)
「世界七不思議の犯罪」というのが、出てきます。祥伝社で私が書いている古代文明ミステリーファイル、情けないことにまだ二作しか書けてませんが、最初時には七不思議をいっこずつ扱おうかというコンセプトもあったのに、もたもたしているうちに、流水に先を越されたかと思って読んでいると──作中人物が、小森健太朗の『バビロン 空中庭園の殺人』を読み始めて、そこで紹介されている、世界七不思議の紹介をそのままひきうつしてるところがあります。アララ(^_^;)。で、その読んだ感想も作中に書かれていて、でもそのトリックは、この事件には該当しないね、と論議したりしてます。
『カーニバル』中の ロシアの話(「シベリア鉄道の犯罪」)になると、二階堂黎人さんの「ロシア館の謎」と有栖川有栖さんの「ロシア紅茶の謎」が出てきて、やっぱり、作中人物がそれらの作品を読んでいて、題名・書名は実在のものがそのまま登場し、同じように、議論されてます。
新本格派は、先行作品を援用することに特徴があるとはよく聞きますが、援用のしかたも、ここまできたかと思った次第でした。
4月18日 貴志祐介『クリムゾンの迷宮』(角川ホラー文庫)
目覚めたら、サバイバルゲームのRPGの世界に放り込まれた主人公。漫画家の女性とパートナーになって、九人がサバイバルを目指すゲーム空間。割合、岡嶋二人の『クラインの壺』の作中作のゲームに似た設定と筋立て。冒頭から強いひきで、読者を作品世界に引き込む。与えられた九つのメッセージを受信する機械のうち、一台が壊れてしまい、ゲームの目的がはっきりしないという点が、謎として吸引力が強いけれども、その点に強い反転や、あっと驚く真相が隠されているというわけではなかった。ついミステリ的な強力などんでん返しを期待したわりにはさほどではなかったが、サスペンスに富む、いい作品である。不満としては、ゲーム内で選ばされる選択肢のもたらす帰結に、あまり論理的な必然性が感じられないこと。岡嶋二人の『ツァラトゥストラの翼』は、分岐がもたらす帰結に論理性が強く感じられた。 最も賢明な選択をしたために主人公が生き残れたという、知恵の感動を与えてくれる要素が大きければ、傑作たりえたのに、残念。
4月20日 佐藤亜有子『東京大学殺人事件』(河出書房新社)
奥泉光さんは例外だが、純文学出身の作家が書いたミステリは、大体ハズレが多い。本書もその一つ。文芸賞出身の作家にしては、文章力がまずまずある人のようだけれどミステリとしては見所のない作品であった。気取った文体の中に、学食のメニューの妙にリアルな描写がベタな文章で挟まっているあたり、ちぐはぐだし、ハイブラウな東大卒業者の世界を描いている割に、古典的な、超美形の名探偵と、図式通りの人のよいワトスン役が動き回るのが、時代錯誤的で、現代にそぐわない。何より、ミステリとしての体裁をとろうとしつつ、謎と解明の構成がなされてない。
4月26日 ディクスン・カー『グラン・ギニョール』白須清美・森英俊訳(翔泳社)
これまで未訳だった作品を集めた、カー・ファン待望の一冊。
「地上最高のゲーム」はこれまで部分的な翻訳で断片的に読めたのだが、ようやく全貌を知ることができて感動的である。これ以外にカーが書いたまとまったミステリ評論に相当する文章を知らないので、それだけでも貴重だけれど、内容自体、ミステリファンにとっては興味津々のものであるはず。カーのミステリ観とミステリ論、ミステリ小説を創造するうえでの方法論などが語られ、舞台裏を覗く興味もある。
「グラン・ギニョール」は、カーのデビュー長篇『夜歩く』の原型となる中編。最後の解決の派手な趣向では、この原型の方に軍配をあげたい気がする。
4月27日 安原顯『編集者の仕事』(マガジンハウス)
編集者としての安原顯の軌跡をたどる上での恰好の一冊。蓮見重彦のことを「蓮見的存在」と呼んでいるのには笑ってしまった。いい編集者の条件として、「月に二十万円は、本や映画などの文化的享受に費やすこと」をあげている。月に20万円を書籍代につぎこむというのは、かなりの情熱と熱意がないとできないことである。しかし、大手の出版社の編集者をみていて、車やゴルフには大金使う人はいても、そんなに本にお金を使っている人は少ないのではないかという気がする。溝畑さんなんかは、安原氏の基準では、編集者合格ということになりそうであるが。
4月30日 高見広春『バトル・ロワイヤル』(太田出版)
最近出た話題作の二つ、本書と『クリムゾンの迷宮』(貴志祐介)が、同じような設定のホラーのエンターテメイントになっている。他の者を殺さないと生き残れないゲーム空間に放り込まれた主人公。生死を賭けた極限状況で主人公の男女は、助け合いながら必死に生き残りの道を探すという大枠は、両作とも同じである。先行作として『クリムゾン』が『クラインの壺』を想起させたのに対し、『バトル・ロワイヤル』の方は、『死のロングウォーク』(スティーヴン・キング)である。最後の一人しか生き残れないというルールの中でも、生き延びられるのは、他人を助け、協力しようとする者であるという、キングのあの小説に書かれていた教訓めいた洞察を、拡大して展開させたような作品であった。筆致は荒くとも力がみなぎるいい作品でした。