読書録/99年12月
12月9日 イマニュエル・カント『視霊者の夢』(カント全集第3巻)川戸好武訳・理想社
(初版昭和40年11月)
哲学者として有名なカントが、霊の存在について考察した論文。第一章では、霊が空間を占めると考えると矛盾するとしながらも、別の形態としての存在可能性は否定しきれないとする。第二章では、同時代人の有名な霊能者・スウェーデンボリを取り上げて考察。彼が、別の場所での火事を予知したとか、王女のなくしものがある場所を、話を聞いただけで当てたとする評判が紹介されて、カントはその評判を検討し、証人は信用に足るから、スウェーデンボリの能力も信用できるとする。で、天界を霊視したというスウェーデンボリの著作に関する記述があるが、これについては、判断を保留しているようだ。最後の節では、死後も魂が存続するかという宗教的な問いを検討し、どちらの説が正しいとも言えないが、人間を道徳的にするためには、魂が死後も存続する説の方が望ましいと述べて終わる。
『純粋理性批判』で打ち出された有名な概念──「物自体」というのは、案外、スウェーデンボリに触発されたものかもしれないとふっと思った。
12月11日 辻真先『マンガで育った60年──現代コミック私史』(東京新聞出版局)
昭和マンガ史の通史を、総覧できる立場にいる人は、世の中になかなかいないのではなかろうか。半世紀以上もずっとリアルタイムでマンガを読み続けて、その歴史に深く参与してきた著者ならではの一大通史である。目次を見ると、あげられた漫画家(漫画原作者も含む)の数は145名におよぶ。私が読んだ漫画は、著者の読んだ部分集合になってしまいそうである。未読の漫画家の項はさっと流し、よく読んだことのある漫画家の章は比較的丹念に読んだけれども、
この中で私が単行本一冊以上読んだことがある漫画家は、以下です。
年代順で、長谷川町子・手塚治虫・赤塚不二夫・藤子不二雄(A&F)・横山光輝・ちばてつや・つげ義春・水木しげる・松本零士・サトウサンペイ・梶原一騎・さいとうたかを・楳図かずお・青池保子・里中満智子・竹宮恵子・萩尾望都・水島新司・モンキー・パンチ・永井豪・本宮ひろ志・山上たつひこ・望月三起也・池田理代子・山岸涼子・高橋留美子・江口寿史・いしいひさいち・かわぐちかいじ・宮崎駿・能條純一・秋元治・鳥山明・石川賢・魔夜峰央・寺沢武一・野間美由紀・藤田和日郎・長谷川裕一・浦沢直樹。
ああ、ビッグネームなのに、石森章太郎って一冊も読んだことないし、白土三平や大島弓子も読んでないや……。
12月11日 筒井康隆『狂気の沙汰も金次第』(サンケイ出版)
うちからひと駅いったところのそばにある、とある喫茶店のオーナーは筒井康隆の大ファンらしい。テーブルの棚に、筒井の本がずらりと、初刊の単行本で並べられていて、中には著者サイン本まである。今日はそこに行っていたものだから、筒井康隆の本を思わず読みふけってしまった。
今日通読したのは『日日不穏』(中央公論社)と、上記の本。前者は日記だが、読書感想や文壇交遊が面白くて読ませる。後者は、夕刊フジに連載したエッセー、毎回きっちり同じ枚数で、ちゃんと面白く読ませる。ときどき笑いどころがあって、飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになってしまった。この中の、「ヒロイン」の項の「少女小説」のあらすじとか、新田次郎「八甲田山死の彷徨」を読んで思いついた「六甲山死の彷徨」のあらすじとか、ドタバタ版聖書のあらすじなどもおかしい。考えてみれば、これらはみな、後でちゃんと小説化されたアイディアではないかな。
12月 17日 ツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』三好郁朗訳・東京創元社
「序説」と題される本は、大体が「本説(本論)」は書かれないままで終わるようだ。
この本もそうだし、笠井潔の「観念論批判序説」とか、蓮実重彦の「物語批判序説」とか、渋澤龍彦の「少女コレクション序説」とか見田宗介の現代社会理論もそうなりそうだし。学者の書く文学論は、特に主流文学(純文学)以外を論じたものは、ハズレが多く(『推理小説はなぜ人を殺すのか』)は特にひどかった)この本はどうかなと身構えて読んだのだけれど、少なくとも時間を割いて読むに値する評論書であり、特に学術的に、(いわゆる)非正統派文学を論じたいときには、大変役に立つ本である。七章と八章の「私」の作品群と「あなた」の作品群の対比は、マルティン・ブーバーの言う「我と汝」でいう、「我−それ」と「我−汝」との関係でとらえると理解しやすくなる。「汝」の原語はDuで、フランス語訳すればtuになり、ここでトドロフの言う「あなた」と同じである。
超自然的な不思議な出来事が、理にかなって解消されるときには「怪奇(l'etrange)」そのまま超自然であるときには「驚異」、幻想文学の幻想はその中間地帯にあるとする。日本語で「怪奇」というと少し語感が違うが、訳語の選択としてはやむをえないところか。「異と奇」という風に両者を訳しているものもあるそうだ。幻想文学の本質は「ためらい」であるとしているが、これも原語のニュアンスがつたわらないと、ややわかりづらいところ。
12月21日 バートランド・ラッセル『神秘主義と論理』江森巳之助訳・みすず書房
主に1910年代に書かれた、バートランド・ラッセルの短い哲学・エッセーを集成した一冊。題名は巻頭の一篇の題でもあり、その後には「自由教育における科学の地位」「自由人の信仰」「数学の研究」「数学と形而上学者たち」など、十のエッセーが並ぶ。巻頭の論文では、神秘主義思想を論じつつも、ラッセルはあくまで徹底した合理主義の立場である。「透徹した洞察への信念」「統一への信」「時間の非実在」「善悪の超越」と、神秘主義の四大特徴を抽出し、一つ一つ吟味していく。ラッセルの結論としてはそれらは倫理として有用な面もあるものの、科学に必要な検証がなされえず、その信念をそのまま受け入れることはできないと説く。我々は合理性と科学をよりどころとすべきであるというのが結論のようである。
170頁あたりにある、「感覚与件とセンシビリアの違い」の説明は、今までよく区別がわからなかったものを、目からうろこがおちるほど、明快に解説している。哲学の立場として、観念論では、感覚与件とセンシビリアは区別せず、同一であるとするが、実在論は、両者それぞれに実在を認めているようだ。
12月23日 前田樹子『エニアグラム進化論』(春秋社)
最近(といってもここ数年)エニアグラムは、ちょっとしたブームである。『九つの性格』とか『エニアグラムなんとか』で、鈴木秀子氏らが旺盛な著作活動を続けている。しかし、そういう性格分析本が、エニアグラムの創始者であり本家本元であるグルジェフのことを忘却しているのは、異義を唱えたいところ。性格類型にエニアグラムを使うのは、あるいは可能かもしれないが、それでも、「本質」と「人格」は峻別されることはわきまえておかねばならないはずなのに、性格分類と相性判断に用いられているのは、本末転倒な気がする。
この本は、長年グルジェフワークをやってきた著者ならではの、完全なグルジェフサイドにたったエニアグラム本である。最後の章などは、何度読み返してもよくわからない、水素論、食物論を著者なりにかなり明快に解説している。キリスト教の秘教・グノーシス派の復権を奉じるムラヴィエフの『グノーシス』を重視して大きく取り上げているのが、一つの特徴である。ムラヴィエフがそんなに大きな存在とは思わなかったので、これまで調べずにきたが、これを読むと、主著の『グノーシス』は抑えておきたくなった。ムラヴィエフは、ウスペンスキーと親交があったらしい。
最近ウェブの『ハーモニアス・サークル』を読んでいたら、ウェブはその本の刊行後ひと月して自殺したというのを、本書で初めて知った。ウェブの本は、他とは比べ物にならないくらい、評伝として厚みがあり迫力があって、とにかく読ませる。笠井潔さんのおたくにお邪魔したときに、『サマー・アポカリプス』のナチズムとオカルトの結びつきに関する記述は、同じウェブの『オカルト・エスタブリュッシュメント』をタネ本に使っていたと教わった。ウェブは、オカルト研究者と評伝者しては、もっともすぐれた書き手だったような気がしてならない。
12月27日 筒井康隆『革命のふたつの夜』(角川文庫)
最近、某掲示板で小林泰三さんが、初心者にSFを勧めるとしたらどの作家がよいかという問いに対して「筒井康隆さん」と回答していたのを見た。この回答は、私としては、適切でもあり不適切でもあると思う。適切だというのは、やはり、日本SFにおける筒井康隆の存在は大きいので、SF界の代表作家をあげるのは妥当だと思うからである。不適切だと思うのは、筒井康隆の作風はあまりにも彼独自のものであるから、筒井を読んでファンになっても、他の日本SFに読書が広がるかどうかは疑問である。筒井が好きになっても、似たような作家を読み広げていく、という風には広がらないと思うからである。大学時代に私は筒井康隆のファンにはなったけれども、日本SFのファンにはならなかったという実例があることだし。読みのがしていた、初期作品の短編集。アポロの月着陸とか(「巷談アポロ芸者」)万国博覧会とか(「深夜の万国博」)学生運動とか(「革命のふたつの夜」)そのときどきの時事ネタを取り入れつつも、作品はあくまで筒井ワールドである。カミュの『ペスト』は、真剣に読んだのに、なんのことはない話で失望したことがあるので、そのパロディの「コレラ」は爆笑と同時に大賛同。集中の中でも、ホラーに属する「母子像」と「くさり」この二篇は、一読忘れがたい名篇。
12月25日 筒井康隆『着想の技術』(新潮文庫)
タイトルからすると、小説の発想のしかたを教えてくれそうな本なので、一読してみたが、ちゃんと冒頭のエッセーでは、そういう発想法は教えられるものではないと予防線をはっている。その上で、精神分析は、役に立つから読むように勧めている。
星新一に追随した、筒井流「できそこない博物館」に書かれていた、「酔っぱらい大突撃」は、面白そうだから是非読みたい気がした。
12月25日 中島梓『マンガ青春記』(集英社文庫)
今月は、辻真先のに続いて、マンガを通した自伝というものを読んだ。笠井潔の『スキー的思考』とかコリン・ウィルソンの『発端への旅』と性格は似ていて、自己発見の旅を内省と洞察をこめて語っている。ウィルソンは読書と女性遍歴、笠井はスキー他そのときどきに凝ったものと絡めた自伝なので、どうやら、評論家の自伝というのは、本人にとって愛着あるものとからめて書くものらしい。それが中島梓=栗本薫にとっては、マンガであったというわけだ。ウィルソン、笠井、筒井康隆、栗本薫(中島梓)とならべると、評論家・小説家両面で大きな仕事をしている、尊敬している著作家なのだけれど、中島梓の評論は他の三人より、切れ味・鋭敏さが一段落ちるように思う。自己愛の要素があまりに強く前面に出すぎていて、評論が他者との対決なく自己完結的になっているとも言えるか。
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