島田荘司『本格ミステリー宣言』をめぐる断想
『本格ミステリー宣言』という著作は、これまで正面だって なされたことの少なかった本格ミステリー論に一石を投じるも のであり、刺激的で啓発的な議論であることは確かながら、論 としてはやや混乱し一貫していないところがあることに気づく (注1)。 特に看過できないのは、「本格」という語を、ジャンル分け の用語としての「本格」と、これからミステリーを書くにあた って範とすべき理想形としての「本格」の二様に用いていると ころだ。前者の「本格」は、既存の作品を区分けするためであ るから過去志向であるのに対し、後者はこれからミステリーを 書くときの心構えみたいなものだから、未来志向の「本格」と 呼ぶことができよう。「ポーの原点にかえって」とうたうのは いいにしても、「ポーの創設した形式に則る」ことと、「ポー のようなクリエイトする精神で創作する」のとでは、まったく 意味合いが異なってしまう。この両方の用法が混在しているた めに、島田の議論に首尾一貫していないところが出てきている 。 「僕が本格という言葉を使う時は、単に突き放したジャンル というか形式、読者のための便宜をはかるだけの意味しかない 」という我孫子武丸の発言(同書129頁)に対して島田が不 満を表明しているのも、島田自身が、「本格」という語に上述 の未来志向の意味を持たせたいためであろう。もちろん、我孫 子のように「本格」をとらえた方が、島田より一貫していると 言えるのだが、「本格ミステリー」をめぐって生産的な議論を 喚起するためには、あるいは、島田流に「本格」という語に二 様の意味を含ませることに意義があるかもしれない。 しかしそうすると、島田が『本格ミステリー館にて』で示し たような「ミステリーマップ」は成立しなくなってしまう。「 本格」の意味が限定的でなければ、座標の基準としては使えな いからだ。このような座標軸を持つマップを作るのなら、やは り「本格」の語は過去志向の意味に限定されるべきであろう。 本格ミステリーにはクリエーションの要素が必要であるとする 島田に対し、「『パターンにはまらない志』といった問題は、 このグラフの二つの座標軸では表わせない要素でしょう」と反 論した綾辻行人の方が筋が通っていると言えよう(『本格ミス テリー館にて』33頁)。
『本格ミステリー宣言』中の「本格ミステリー論」において は、「本格」という言葉をめぐる日本独特の事情から筆が起こ されている。日本の推理文壇の特殊事情を歴史的に考察するな ら、伝統的な日本文学の影響などに関しても、少しは視座に取 り入れる方がよかったような気がする。 たとえば、芭蕉の「幽霊の正体見たり枯尾花」という句に、 本格ミステリーの源流を見ることができる、というような論の 立て方が可能だろう。かつて極限にまで圧縮されたミステリと して、400字詰め原稿用紙1枚の長さのものが試みられたり したが、この句はそれを越えて、僅か17文字の極短のミステ リーであるとも言えるだろう。 この句の冒頭において、「幽霊」という謎が提示される。あ りきたりの日常的な謎ではなく、冒頭に現れるのは「幽霊」で あるから、幻想的で詩美性のある魅力的な謎の提示と言えよう 。その謎の正体が下の句で暴かれて、「枯尾花」という「意外 な真相」が明らかになるあたり、まさに本格ミステリーではな いか。 しかも、真相の暴露の前に「見たり」という切れ字が入るこ とも注目に値する。「幽霊の正体を枯尾花と見たり」というよ うな順序にならず、通常の文における目的語と動詞の位置関係 が倒置されていることが指摘できる。ここの切れ字は、謎と真 相の断層を示し、クイーンの国名シリーズなら読者への挑戦が 入るところだろう。ここの切れ目で探偵は、真相を見抜いたと 称しつつも、その内容をあかさずに一服するのである。 そして、「幽霊」という幻想的な謎に対して、それを謎のま まとして放置せず、あるいは「幽霊」の存在をそのまま信じる こともなく、その謎の背後にあるべき「正体」を探り出そうと する近代合理主義的な考えが背景にあることも指摘できよう。 したがって、「幽霊」の「正体」を探ろうとし、その「正体」 を見抜いたのは、近代的な「主体」に他ならないのだ。 このような近代合理主義的な枠組は、本格ミステリーが成立 するためには必要不可欠なものであり、前近代的な非合理的な 社会では、謎とその解明を主軸とするミステリーは成り立ちえ ないのだ。
・・・というような芭蕉の句の解釈は無論、牽強付会の産物 であり、恣意的な我田引水にすぎない。もちろん、こんな風に 芭蕉の句を解釈して、芭蕉を近代人の意識を持った先駆者と位 置づけることもできようが、そのような理解の図式は、あくま で今日の我々から見たものであり、近代社会のものの見方を過 去に強引にあてはめたものに過ぎない。 「現実」と「幻想」が、はっきり二分されてしまうのも、そ ういう近代社会の生み出した一つの価値観であり、ものの見方 の枠組である。 しかし、島田の「本格ミステリー論」は、「幻想」を確固た る自存的な「現実」との対立概念として把握している以上、そ のような近代的な図式に完全に依拠したものであることになる 。『奇想の森』巻末に島田が書いた解説を見れば、『ドグラ・ マグラ』や『虚無への供物』のような作品を、「作者の意識が 奇想の側に大きくのめり込んだ」「『主観小説』とでも呼ぶべ き作例」と捉えていることがわかる(同書468頁)。「現実 」と「幻想」を明確に分かつ近代的な図式のもとでは、「主観 」と「客観」も明確に分かたれることになり、いわゆる「現実 」を著しく逸脱した(ように見える)『ドグラ・マグラ』のよ うな作品世界は、「主観」の「奇想」へと還元されてしまう。 こういう理解の枠組においては島田自身が、日本社会の近代的 な枠組を批判し超克しようとしているにもかかわらず、実はそ の枠組に依存し、その価値観を引きずっている点が指摘できる 。 このような島田の「幻想/現実」理解は、竹本健治、綾辻行 人、笠井潔といった本格寄りの推理作家たちからも、反論が加 えられているようだ。 綾辻行人は、『本格ミステリー館にて』における島田荘司と の対談の中で、「どうも島田さんとぼくとでは、『幻想』とい う言葉の捉え方そのものが違っているようですね」と明言し( 66頁)、巻末あとがきにおいて、「幻想」というものの捉え 方の違いに問題の所在があると指摘している。 「EQ」に掲載された「アンチ・ミステリー宣言」において 、笠井潔も、島田の「本格ミステリー論」に(部分的にせよ) 反論している。笠井の反論のポイントの一つは、「幻想/現実 」の二分法は、近代社会の枠内でしか用いるべきではないとい うことである。要するに、「幻想/現実」の二分法は近代社会 の生み出したものの見方に過ぎず、そのような見方を近代以前 の人類文化の解釈にそのまま持ち込むことは許されないという ことになろうか。 この点に関しては、綾辻・笠井らの反論の方に分があると思 う(注2)し、「本格(ミステリー)」を「つねに、そして現 に、絶えることなく危機を強いられている稀有なジャンル」と する笠井の「本格」理解の方がより的確であると思える。 笠井の言う、「本格ミステリー」が常に危機にあるというこ とは、それが、およそ異質なるものの危ういバランスの上にの み成立する、綱渡り的な体質を持っているということであろう 。しかし、笠井の「本格」論も、よく読むとちょっとした矛盾 があることに気づく。『物語のウロボロス』の小栗虫太郎論で 笠井は、次のように述べている。 「・・・ポオによる探偵小説は、その後、ジャンル的繁栄と成 熟の陰で不可避に二つの方向に頽落していくことになる。・・ ・頽落の一方の極を、たとえばクロフツの『樽』において象徴 することができる。・・・クロフツは主題性においてというわ けではないが、その手法において疑いなく、後の社会派ミステ リを準備したといえるだろう。 他方の極は、アガサ・クリスティによって集大成されていく ゲーム小説、パズル小説の系列である。一九二〇年代までのイ ギリス・ミステリの主流をなすこの系列には、『アクロイド殺 害事件』を始めとしてアノー『矢の家』、ブッシュ『完全殺人 事件』、シェリンガム『毒入りチョコレート事件』、ハル『伯 母殺人事件』、フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』など探偵 小説史において無視しえない傑作が含まれている」(筑摩書房 刊『物語のウロボロス』145頁) 『矢の家』の作者はアノーではなくメースン、『毒入りチョ コレート事件』の作者はシェリンガムでなくバークリーなのだ が、その点はおくとして、要するに、本来の「本格」は、社会 派とゲーム派のどちらにも頽落しない、危ういバランスの上に 成り立つということだろう。 ところが、竹本健治著『ゲーム殺人事件』(ピンポイント刊 )所収の「トランプ殺人事件解説」で笠井は次のように述べて いる。 「明晰(分析)の極限で狂気(謎)を露わにするというミステ リ形式にはらまれた逆説は、作者と読者に絶えざる緊張を強い るものだ。そしてこの緊張こそが、ミステリの快楽の源でもあ る。だがこの緊張に耐えられなくなった時、ミステリは両極に わたる頽落形態を強いられる。ひとつは、正当派イギリス・ミ ステリのように、過剰なものを作品世界から削除し、ゲーム小 説、パズル小説の方向に純化すること。ふたつは、明晰という 枷を取り外し、謎を謎として、過剰なものを過剰なものとして 、そのまま読者の前に投げ出すこと、この両極である。後者の 場合が、いわゆる変格ものの諸ジャンルをなすわけだが、これ が伝奇小説、怪奇小説、オカルト小説といった別ジャンルに無 限接近していかざるをえないのは必然的である」(511頁)
この二つの記述をみると、イギリス流ゲーム小説を一方の極 におくのはいいとして、他方の極が前者の論では、社会派、リ アリズム派、後者の論では変格、怪奇小説などとされている。 対立する極が社会派と怪奇小説では大きく異なるので、読んだ 当初は、笠井の論における重大な矛盾点ではないかと考えたの だが、次のように考えれば、矛盾ではないような気もしてきた 。 すなわち、「本格ミステリー」とは、およそ異なる要素(リ アル志向/ゲーム志向、論理/幻想……等々)が出会う衝撃と 驚愕においてのみ成立すること。たとえば、およそパズル小説 的な資質を持たない夢野久作やウィリアム・アイリッシュの小 説の中で、その最高傑作(『ドグラ・マグラ』、『幻の女』) のみが本格たりえているのは、そこに犯人探しや謎解きの要素 が加わったためではなく、その作家本来の資質とはまったく異 なる何かがそこに侵入してきているためではなかろうか。幻想 的・ロマン的な作風に本領を持つ中井英夫が、唯一論理性・リ アリズム志向を持った『虚無への供物』。 この笠井の議論とつなぎ合わせて島田の「本格ミステリー論 」をとらえるならば、島田が提示した「幻想」と「論理」の対 立は、「本格」を支える重要な緊張関係の一つであると言えよ う。しかし、その「幻想・論理」の把握内容は、いま一度再検 討を要する点があるように思えるのである。
私は、島田が提出した「本格ミステリー論」そのものに、 大筋においては異議を唱えるつもりはない。リアルであればあ るほど小説としての価値も高くなるとする風潮に対する重要な アンチテーゼとして、島田の論の意義を強調してもしすぎるこ とはないくらいだと考えている。 ただ島田は、「現実」を自存的で自明で安定的なものと把握 している傾向があり、それに応じて、「幻想」も、「現実世界 」に対立する夢物語っぽい要素としてとらえているように思わ れる。この点に、島田の論は修正される余地があると思う。 もし「現実」と「幻想」の対立がそれほど自明なものでない ならば、島田の提示した「本格ミステリー」と「本格推理小説 」の区分も無効となるのであろうか。そうではないと筆者は考 える。ただ、その区分基準を、少しずらしたところに置きたい と考える。 いわゆるミステリーに、謎は不可欠だと言われるが、謎とい う要素は、本格ものに限らず、警察小説、ハードボイルド、冒 険小説などでも必須である。そういった小説群と、いわゆる「 本格」を分かつものは何だろうか。島田の唱えた「推理小説」 と「ミステリー」の区分にしたがって、この「謎」という要素 を鑑みた場合、その質そのものに違いが表れているような気が するのである。 路上に死体が一つ転がっていただけでも、そこには謎がある 。この死体の身元は? なぜ死んだのか? 他殺だとしたら、 その犯人は? 動機は?−−等々。このような謎を警察が地道 に捜査し追及していく過程を描いただけでは、警察小説にはな りえても、「本格」ミステリーにはなりえない。なぜだろうか 。 ここで筆者は、「垂直的な謎」と「水平的な謎」という呼称 を提唱したい。目の前に転がっている死体に対して、警察が手 順にしたがって、捜査に乗り出したとしても、それは「水平的 な謎」であって「垂直的な謎」ではない。なぜかというと、そ の「謎」そのものは、現場にいるだけでは解明できなくとも、 手掛かりを追い、捜査を進めることによって解明されうるタイ プのものだからだ。言ってみればこの手の「謎」は、情報不足 から来る謎なのであって、その「謎」を解くためには、不足し ている情報を補えばいいことになる。そのためには、「謎」の 発生現場から動いていかなければならず、その動きが「水平的 」であるために、「水平的な謎」と名付ける次第である。 それに対し、「垂直的な謎」こそが、まさに「本格ミステリ ー」にみられるタイプの謎である。「密室」や「クローズド・ サークル(閉鎖的状況)」が、「本格ミステリー」に特徴的な 道具立て・舞台装置になっているのはなぜか。なぜなら、「密 室」や「クローズド・サークル」は、謎を解くためにその場か ら離れることを許さないからだ。「密室」は、その謎の現場に とどまることを要求する。人は、その戦慄とともに「密室」の 前にただずまなけれはならない。不足した情報を補うために現 場を離れることを、それは許さないのだ。前項で述べた「異物 の混入」も、人がその「現場」にたたずむからこそ、生じるの だ。 そういう意味で、いわゆる「本格」ものに分類される作風で も、「アリバイ崩し」ものは、「垂直的な謎」ではなく「水平 的な謎」を扱っているために、筆者の感じでは、「本格ミステ リー」とは異なっている。クロフツや、鮎川哲也の鬼貫ものは 、謎のタイプからすれば、ハードボイルドや警察小説と同じく 、「水平的な謎」を扱っている(注3)。 そして、「謎」の前に戦慄してたたずむとき、人はおのれの 意識へと−−「現実」を成立させているおのれの「意識」へと 立ち戻らざるをえない。やがて、「現実」は「幻想」へと、「 幻想」は「現実」へと鮮やかに反転する瞬間が訪れる。あるい は、「現実」をつくり出していたのがおのれの「意識」が生み 出していた「幻想」だと気づく瞬間が。もはや「現実」と「幻 想」の区別が無意味化される地平が開かれてくる。自明のこと と思われていた「現実」が、根こそぎ覆される瞬間。それを予 感しつつ、足元の「現実」を掘り下げていくのが、「垂直的な 謎」の効用であり、そこにこそ「本格ミステリー」の本領があ るのではなかろうか(注4)。(文中敬称略)
(注1)細かいことながら、『本格ミステリー宣言』における ガボリオーの位置づけには、ガボリオーを愛読する者としては 納得できないものがある。島田は、「誰が栄えある世最初の長 編ミステリーの作家であるかといえば、これには諸説が生じて 」しまい、ディケンズとも、ガボリオーとも、ドストエフスキ ーとも言われているが、「一般には『月長石』とされる」とし ている(講談社文庫45頁)。しかし、「ガボリオの『ルルー ジュ事件』は最初の長篇ミステリと万人に認められている」と する新保博久の記述の方がより正確である(『ミステリ・ハン ドブック』早川書房、237頁)。『ルルージュ事件』は、出 生時の赤ん坊の入れ換えと、人間のすりかわりトリックを中心 に据え、犯人探しと謎解きを主眼とする混じり気なしのミステ リ(探偵小説)である。それに比べて、ディケンズの『バーナ ビー・ラッジ』、『荒涼館』、コリンズの『白衣の女』等同時 期にイギリスで書かれた長編は、ミステリの要素が占める割合 はごく一部にすぎず、一番探偵小説に近い『月長石』でさえも 、ガボリオーに比べれば謎解きの興味ははるかに薄味である。 世界最初の長編ミステリーがガボリオーの『ルルージュ事件』 であるのは動かせないところで、『月長石』は英語圏での最初 の長編ミステリーとするのが妥当なところだろう。 (注2)だからといって、彼らの小説が、島田よりすぐれてい ることになるわけではないのは言うまでもない。論の正誤と小 説の出来ばえは、まったく別次元の問題だからである。 (注3)ただし、ある場所にいたはずの人間が、その時刻に別 の場所にいたという戦慄すべき謎の前に、ただずまなければな らなくなったとき、それは「本格ミステリー」にも転化しうる とは思うが。 (注4)島田荘司自身の作品がどのように「本格ミステリー」 と「本格推理小説」に区分されるかは、議論の分かれるところ だが、筆者は大雑把に言って、御手洗ものは「本格ミステリー 」、吉敷ものは「本格推理小説」であると考えている。ただし 、『北の夕鶴2/3の殺人』や『奇想、天を動かす』のような 作品においては、吉敷が事件を捜査するためにあれこれと動き 回っている段では本格推理小説、不可能犯罪を前にして動きが とれなくなっているところは本格ミステリーであると考えてい る。
* 手塚隆幸編集『御手洗潔研究』に寄稿したもの。 再録です。