富野由悠季とヴァン・ダイン
タイトルを見て奇異に感じられた方も多いだろう。富野由悠季とヴァン・ダイン−−一
見両者はまったく関係がないように思われる。しかし、私の見るところ、両者には深い関
わりがある。「聖戦士ダンバイン」がヴァン・ダインと同じ文字から成っている(つまり
アナグラムになっている)などという表層的な事柄だけではない。両者のこれまでの作品
を、その達成度として眺めた場合、その折れ線グラフはきわめて似通った形を描くのであ
る。ヴァン・ダインの「ベンスン」から「ウィンター」までの12作、富野由悠季作品は
サンライズ作品の総監督として「ザンボット3」から「Vガンダム」までの12作を通覧
した場合、両者とも3、4作めでその絶頂に達し、前半6作はよいけれども後半6作は評
価が芳しくなく、後期の作品は下降の一途をたどったという意味で両者には著しい共通性
がみられるのである。
両者ともずっと全作品をおいかけてきた作家であるし、ことに十代の私にとっては、富
野由悠季はアニメ界の、ヴァン・ダインは推理小説の、もっとも傾倒していた作家であっ
た。今となってはそれほど傾倒することはなくなったけれども、愛着深い作家であること
に変わりはない。ここで紙面を与えられたのを機会に、私なりに簡単に両者の12作の作
品批評と、その作風の推移を順を追手たどってみたいと思う。
(1)ベンスン殺人事件/無敵超人ザンボット3
富野由悠季は、アニメの演出家としては虫プロ時代の「鉄腕アトム」までさかのぼるこ
とができるが、やはり作家としての彼を論じるならば、そのオリジナル作品に限定して論
をすすめるべきだろう。彼が総監督をした記念すべき第一作は、「無敵超人ザンボット3
」ということになる。
ただし、それ以前にも富野由悠季は、「勇者ライディーン」の総監督をつとめている。
しかしこの作品は、彼の演出が不評だったため、2クールめが終わったところで長浜忠男
と交替させられている。したがって「ライディーン」は、純粋な富野作品と言えないから
ここでは除外するが、もう一つ無視できない作品として「海のトリトン」がある。これは
、日本サンライズの作品ではなく、ロボットアニメでもないけれども、富野オリジナルの
アニメ作品としては第一号ということになる。
この作品は、手塚治虫原作ということになっているが、手塚の漫画(もともとの題は「
青いトリトン」)とテレビを見比べてみた方は周知のとおり、両者はまったく別物である
。テレビ版の「海のトリトン」は、後にヤマトをけがけた西崎義展が制作しているが、実
質的に富野由悠季がストーリー構成をてがけた第一作と言ってよい作品である。そして「
ザンボット3」もまた、ラストの悲劇的な結末にいたるまで、「トリトン」ときわめて似
たテーマをもった作品として描かれているのである。したがって、「ザンボット」と「ト
リトン」とは、ひとくくりにして論じることが可能であろう。
両作品とも主人公は、自分たちの仲間が絶滅し周囲からは排除される異邦人である。そ
れでも主人公は、正義のためと信じて孤独に戦い続けるが、ラストにおいてその戦いの意
味−−自分たちの正義の崩壊をつきつけられてしまうという苛酷なまでに悲しいドラマな
のである。物語が破局的な決末を迎えた後、主人公がどうなったか−−それは「トリトン
」においても「ザンボット3」においても明確には描かれていないけれども、おそらく彼
らのたどった道は、「Zガンダム」のカミーユと大差ないだろうと思われる。戦いの集結
とともに彼らの精神は崩壊するのである。
この「ザンボット3」という作品は、ストーリーとして見るならば、後の富野アニメの
傑作と比較しても遜色ないのだが、いかんせん絵があまりよくなく、動きにも乏しい。人
手不足のあまり監督自らが原画を担当したというエピソードまであるらしい。当時のテレ
ビアニメとしてはある程度仕方がないところがあるし、サンライズのロボットアニメでも
、当時は「コンバトラーV」や「ボルテスV」を監督している長浜忠男の方が表舞台で活
躍し、富野由悠季はまだ裏方的な存在にすぎなかった。彼が脚光が浴びるには「ガンダム
」のヒットを待たなければならないのである。
ところでヴァン・ダインの第一作は「ベンスン殺人事件」である。ミステリーとしての
仕立てはごく平凡ながら、ファイロ・ヴァンスの描写が凄まじく長々しい。意味なきペダ
ントリー全開という感じで、こんな素人っぽい小説がどうして当時のアメリカで大ヒット
したのか、今となっては理解に苦しむところである。
(2) カナリア殺人事件/無敵鋼人ダイターン3
「カナリア殺人事件」は、私がはじめて読んだヴァン・ダインの作品である。たしかそ
のとき小学5年生だったと思うが、当時の私の目からみても、この作品はなっちゃいない
と思った。心理学的推理と称しながら、やることといったら容疑者を一同に集めてポーカ
ーをして、そこから犯人を推理するというものである。しかし、作中でファイロ・ヴァン
スが推理することといったら、もっとも危険な賭を平気でする者が、殺人という危険な賭
もしたに違いないという、呆れるほど杜撰な推理である。ギャンブルで大胆になれる者が
実生活では臆病者であるという人だってたくさんいるだろうし、追いつめられて普段の性
格に反して犯罪をおかす者もいるだろう。人間の心理の綾がこんな単純な連結で説明でき
るはずがないのである。ラストで明かされるアリバイトリックも、蓄音機を使ったもので
、非常につまらなく、個人的にはヴァン・ダイン一番の駄作であるとしたいくらいである
。
それでもこの作品は、後期作品に比べると創意工夫がなされているので、やはり後期の
作品よりはマシかなと思うようになった。この作品の密室トリックはそれなりに面白いの
だが、真犯人がつくったものではなく、脇役のやった別の事件に使われている構成になっ
ているのが惜しまれるところである。
富野作品の第二作は「無敵鋼人ダイターン3」である。この作品と次の「ガンダム」で
、割に暗くない作品として連続している以外は、富野アニメは、明るい作品と暗い作品が
交互になっている。すなわち、「ザンボット3」−−暗い、「ダイターン3」−−明るい
、「ガンダム」−−明るい、「イデオン」−−暗い、「ザブングル」−−明るい、「ダン
バイン」−−暗い、「エルガイム」−−明るい、「Zガンダム」−−暗い、「ガンダムZ
Z」−−明るい−−といった具合である。
しかし、普通の観点でみれば、充分暗いアニメと言える「エルガイム」や「ガンダムZZ
」のような作品でも、富野作品の中では明るい方に入ってしまうのだから、本当に富野作
品には暗いものが多いということである。それはたぶん彼個人の気質からくるところなの
だろうが、それ自体は富野アニメの一つの大きな魅力だと思っている。
「ダイターン3」は、「ザンボット3」と同じく、作画水準があまり高くないが、スト
ーリーはかなり面白い。なんといっても破嵐万丈という主人公の破天荒さがよい。彼は、
全富野アニメ中、最強の主人公であろう。人によっては「ダイターン」を富野アニメの最
高傑作とする人もいるようだ。
ところで、スーパーファミコンの「第三次スーパーロボット大戦」というゲームでは、
「ライディーン」や「コンバトラーV」や「マジンガーZ」や「グレートマジンガー」や
「グレンダイザー」などのなみいる主役ロボットを圧して、「ダイターン3」は理不尽な
までの強さを誇っている。たしかに、これらの主役ロボットを一堂に集めてみたら、ダイ
ターン3が最も強そうであるという気がするのは私だけではあるまい。コンバトラーVな
どは、武器の数が多いだけで、ちっとも強そうではない。「第三次スーパーロボット大戦
」の製作者は、そのあたりのことをよくわきまえていたに違いない。そういうわけであの
ゲームでは、知名度でははるかに劣るダイターン3が、数あるスーパーロボットの中で最
強を誇っているのである。
(3) グリーン家殺人事件/機動戦士ガンダム
いよいよ両者のもっとも有名な作品の登場である。
ヴァン・ダインの最高傑作を選ぶなら「グリーン」ではなく、次の「僧正」を推すこと
にしているが、富野アニメだと「ガンダム」にするか「イデオン」にするかは迷うところ
である。しかし、その二作品が代表傑作であるのは、衆目の一致するところであろう。
「ガンダム」と「イデオン」を比べた場合、ストーリー展開のうまさということでは「
ガンダム」の方に軍配があがる。「イデオン」は、2クールめでソロシップが宇宙を逃げ
回っているだけの話になると、少し緊張感が低まるからである。しかし、テーマ的な深化
という点では、「ガンダム」より「イデオン」の方が上だろう。両者甲乙つけかねる所以
である。
「ガンダム」が爆発的ブームを呼んだとき、私も渦中に巻き込まれた一人である。その
とき、「ガンダム」をめぐる論考も(「アニメック」誌上などに)さまざまなものが書か
れたが、今でも印象に残っているものの一つに、41話「光る宇宙」でアムロが言った「守
るべきものがなくて、戦ってはいけないのか? 」という台詞をもとに、ニュータイプの本
質は、「守る」という概念から自由になった人であると説きあかした小論文であった。な
かなか洞察に富んだすぐれたガンダム研究論文だったと思うのだが、残念ながら私の手元
には資料として残っていない。どなたかこの文章が掲載された雑誌か同人誌をおもちの方
がいたら、連絡してほしい。
「ガンダム」がその後に輩出した多くのロボットアニメの範となっているように、「グ
リーン家殺人事件」もまた、その後に出た多くの本格ミステリの範となっている。
新保博久言うところの「田舎屋敷ミステリ」は、「トレント最後の事件」や「矢の家」
にその起源をもとめることができるが、陰鬱な大屋敷で次々と連続殺人が起きるというパ
ターンをつくりだしたのが「グリーン家殺人事件」であることは言うまでもない。エラリ
イ・クイーンが「Yの悲劇」でさらに発展させたこのパターンが、最ももてはやされてい
るのは今や本国アメリカではなくむしろ日本かもしれないが。連続殺人をみすみす許して
しまう無能な名探偵というのも、この「グリーン家」がその元祖と言えるだろう。
(4) 僧正殺人事件/伝説巨神イデオン
「マザーグース」どおりに殺人が起こっていくというあまりにも有名なパターン−−「
童謡殺人」とも「見立て殺人」とも呼ばれるが−−を創出したヴァン・ダインの最高傑作
、「僧正殺人事件」。ラストで明らかになる犯人の殺人動機の描写もすさまじく、推理小
説の教科書と呼ばれてよい作品である。
一方の「イデオン」も、富野アニメの頂点に立つ傑作である。「トリトン」、「ザンボ
ット」と破滅にいたるアニメの中で描かれてきたテーマがここに集大成されている。後に
「ダンバイン」で富野はもう一度同じテーマを描こうとするが、そちらはもはや焼き直し
にすぎず、完全な失敗作である。
このころの富野アニメはかなり冴えている。オープニングテーマ「復活のイデオン」、
エンディングテーマ「コスモスに君と」が、ちゃんと話の第一話と最終話の題名にふさわ
しいものになっている(ただし最終話は打ち切られたので映画「発動篇」にあたるが)。
また、「コスモスに君と」の歌詞の出だしのところ「たった一つの星に捨てられ 終わり
ない旅君と歩むと」というのは、最初はバッフ・クランを飛び出してきたカララ・アジバ
のことを指しているのかとも思ったが、話の後半ソロシップのクルーたちは、母星・地球
から完全に捨てられてしまうのである。ちゃんと歌詞の中に後々のストーリー展開の伏線
が張られ、細かい気配りがなされているあたり、後期富野アニメとは大違いである。
映画版「イデオン」について一言。これは上映時間が3時間を越え、アニメ映画として
はギネスブックにも載っている、最長のものだったが、ファンとしては時間が短すぎたと
いう印象が強い。
まずテレビアニメを再編集した「接触篇」だが、これは編集の仕方が中途半端なのが大
きな欠点である。たいていのロボットアニメなら、一話完結方式のものならずとも、1時
間半も時間があればストーリーの流れを要約し、楽に再編集できるであろう。ところが「
イデオン」の場合はそういうわけにはいかず、三十九話分まるまるちゃんとした話がつま
っているのだ。到底1時間半にはまとまらない。話をまとめるにしても、テレビ版四十三
話を3本の映画にし、7時間近くにまとめた「ガンダム」と同じくらいの時間はどうして
も必要となる。だから、1時間半にまとめられなかったのは無理もないのだが、しかし、
この編集の仕方には問題があった。
最初から話をまとめることが無理な場合、ちゃんとしたストーリーにはならずとも名場
面だけを羅列したグラフィティのような方式にする(「ザブングル・グラフィティ」のよ
うに)か、三十九話全部をカバーするのはあきらめて、たとえばソロシップがソロ星を脱
出する9話あたりまでをきちんとしたストーリーで追って、中間はぬかしてラストの「発
動篇」に突入するか−−そのどちらかの方針に徹底すべきであった。ところが実際の「接
触篇」は、話はあまりに駆け足でちゃんとしたストーリーにはなっていないくせに、元の
テレビアニメでは二十六話のあたりまでしかいっていないので、やはり中間はぶっとんで
いるというどっちつかずのものになってしまっているのだ。
しかし、映画版「イデオン」のメインはあくまで、テレビ版打切りで見られなかった「
発動篇」なので、「接触篇」の出来ばえが悪いことはあまり気にする必要はない。その部
分はテレビ版で見ればよいのである。「発動篇」の方は、テレビで見られなかったラスト
を、美しい作画で大画面で見せてくれたから大満足である。
しかし、「発動篇」の方も、時間の削りすぎが気になった。テレビアニメで削られたの
は4話分だから、そのまま時間にすると八十八分くらいはあるはずであるが、実際に公開
された映画版「発動篇」は、テレビ版の三九話「コスモスに君と」もいれてほぼ一時間半
だから、ラスト4話からおよそ十五分近くは元のコンテより減らされている計算となる。
他の部分は削っても、未公開のラスト4話に関しては、もっとちゃんと時間をとってほし
かったものである。
(5) カブト虫殺人事件/戦闘メカ・ザブングル
「カブト虫殺人事件」は、ヴァン・ダインの中で、最も犯人の意外性に驚いた覚えがあ
る。最近の推理小説を読み慣れている人がこの作品を読んでも、少しも驚かないだろうか
ら、古い作品から順に読んでいった私はある意味で幸運とも言える。クリスティの「アク
ロイド殺害事件」やこの作品といった古典的なやりかたに、当時はちゃんと驚くことがで
きたのだから。
「カブト虫」と次の「ケンネル」は、初期二作よりは描写はミステリ作りが進歩してい
るし、後期の作品ほど熱意が薄れてもいないから、ほどよくバランスのとれた佳作品と言
えると思う。ヴァン・ダインの十二作の中でも、「グリーン家」と「僧正」につぐものだ
と思う。
「ザブングル」もまた、「ガンダム」「イデオン」には及ばないが、富野アニメの中で
は佳品である。「惑星ゾラと呼ばれている地球」という冒頭のナレーションがラストのド
ンデン返しに連結するあたりはなかなかのものである。
ちなみに映画版の「ザブングル・グラフィティ」は、あまり有名ではないが、大変よく
出来た再編集版で、テレビでは描かれなかったその後が付け加えられいる(テレビ版では
死んだことになっていたアーサー・ランクが実は生きていたことが判明する)ので、ファ
ンは必見である。
(6)ケンネル殺人事件/聖戦士ダンバイン
私が密室ものの魅力にとりつかれるきっかけとなったのは、カーター・ディクスンの「
ユダの窓」と、この「ケンネル殺人事件」に負うところが大きい。はじめて読んだときに
結構興奮したものである。ヴァン・ダインは他にも「カナリア」と(広い意味では)「ド
ラゴン」で密室を扱っているが、「ケンネル」に出てくる密室トリックがもっともすぐれ
、力がこもっている。
乱歩の作中などでしばしばお目にかかる「例の針と糸のトリック」とは、この「ケンネ
ル」の密室トリックを指すものだから、今となっては古典的なトリックである。このトリ
ックが、エドガー・ウォーレスの作品の焼き直しであるから感心しない、という評論をど
こかで読んだことがあるが、私はそうは思わない。エドガー・ウォーレスの作中に、類似
トリックがあるというのは、そもそもヴァン・ダインの作中でファイロ・ヴァンスが言及
しているところである。しかし、読み比べてみれば、両者のトリックは大きく異なり別物
と言ってよく、ヴァン・ダインのトリックの方がはるかに工夫が凝らされているのである
。
しかし、前半のものものしい謎の提示の割には、それに見合うだけのカタルシスがなく
、後半腰くだけの感は否めない。
富野アニメの第6作「聖戦士ダンバイン」もまた、前半の展開に比べて、後半は腰くだ
けになった作品てある。この作品はまた、富野アニメのプラキストンラインが引かれるべ
き作品として注目に値する。つまり、富野アニメは「聖戦士ダンバイン」の3クールめの
開始を以て没落するのである。
この作品の前半2クールは非常に面白い。ところどころゴチャゴチャしているが、大傑
作になる予感を孕んでいる。しかし、後半2クール、特に地上に出たあたりからは、ただ
ずっと戦闘をしているだけで、登場人物たちのやることに目標も意味もなんにもなくなっ
てしまう。どうしてこんなに前半と後半で不格好になってしまったのだろうか。
しかし、外部的にやむをえない事情がこの作品には介在している。ダンバインのスポン
サーで、オーラバトラーのオモチャをつくっていたタカトクがこの作品を放映中に倒産
し、かわってスポンサーについたバンダイは、売れない(視聴率が稼げない)異世界もの
をやめて、話の舞台を地上に移すこと要求したからである。「ダンバイン」のもともとの
予定ではラスト2〜3話だけ地上に出る予定だったのが、スポンサー・バンダイの意向で
無理やり早々に地上に出させられてしまったのである。当初の予定どおりに話をつくって
いればもっと傑作になっていたであろう、残念な作品である。
この「ダンバイン」もまたラストで登場人物たちが全滅するのであるが、「イデオン」
の焼き直しという感じでさっぱり感動がわかなかった覚えである。ただ、バイストン・ウ
ェルという素材は魅力的なので、富野由悠季は、その後もう一度やれなかったことを小説
でやり直そうとしているようである。
(7) ドラゴン殺人事件/重戦機エルガイム
「ドラゴン殺人事件」は、発端から、ドラゴンの爪痕を残し、不可能状況で死体が発見
されるという魅力的な謎を提示している。ヴァン・ダインの作品の中では、島田荘司流の
本格ミステリーに最も適った作品であると言えるのだが、形式だけがそうでもいかんせん
内容が伴わず不出来な作品に終わっている。
「エルガイム」に関しても、形式だけはこれまでの富野アニメの枠組がもちこまれてい
るのだが、それに見合うだけの内容がない。多視点の複合的なドラマを描くという富野監
督の手腕は発揮されているのだが、結局不出来な作品に終わっている。特に後半は13人
衆やらポセイダルらの単なる政治ドラマになってしまっている。ひるがえって「ガンダム
」や「イデオン」には、多視点的なドラマでも、それに加える何か情熱のようなものがあ
った。「エルガイム」にはそれがなく、形骸化した多視点ドラマは単なる政治劇になると
いう見本である。
(8) カジノ殺人事件/機動戦士Zガンダム
「Zガンダム」に関しても、形骸化した多視点ドラマという欠点はあてはまるだろう。
この頃になってくると富野アニメの登場人物たちの神経症的な性格が強まり、傲慢な割に
馬鹿な人物がやたら増えてくる。富野監督のストーリーメイキングの欠点が最も拡大され
た形で反復されているのもこの作品であり、新しいキャラをつくっては残酷に殺すだけと
いう強迫観念的なストーリーが、この「Zガンダム」で極点に達する。
にもかかわらず、私はある程度は「Zガンダム」という作品を評価している。これは、
「絶望」というテーマを描こうとしているのだとするなら、その目論見はある程度成功を
収めたと言ってよいからである。
前作の「ガンダム」は、ニュータイプというものを描き、未来に希望をもたせることで
終わっていた。その希望に満ちていたはずの未来が、この「Zガンダム」の世界だとした
ら−−そこにあるのは絶望でしかない。相変わらず戦争は続き、腐敗した官僚組織がすく
う地球連邦と、それに反乱の旗を掲げたジオン軍、もはやそのどちらにも希望の光を見い
だすことはできない。主人公のカミーユ・ビダンが発狂することでこの物語は終結を迎え
る。それはある意味で、これまで描かれてきたニュータイプの最も相応しい末路なのかも
しれない。
そういうわけで、富野アニメの後期6作の中で私はこの「Zガンダム」を最も高く買う
が、ヴァン・ダインについても、後期6作の中では8作めの「カジノ」を最も高く評価し
ている。
「推理百貨店」の中で新保博久が、創元推理文庫のヴァン・ダインの紹介文の中では、
「グリーン家」や「僧正」よりも、「カジノ」の方が面白くみえる、と書いているが、私
も同感で、どういうわけか「カジノ」の紹介文は、他作を圧して最も力が入っている。話
としても、「これがH2OならぬD2Oの化学式だ」と勿体ぶって深刻そうにフ
ァイロ・ヴァンスが言うあたり、「おお」と思ってしまう。ヴァン・ダインの後期6作の
中では、この「カジノ」が最もサスペンスフルだったように記憶している。前半の話のひ
っぱりはなかなか強力なのだが、結局尻しぼみに終わってしまった。
(9) ガーデン殺人事件/機動戦士ガンダムZZ
ヴァン・ダインの作風を評する言葉として「ユーモアがない陰鬱な雰囲気」という言葉
がある。それは初期作品にあてはまるかもしれないが、後期の「ガーデン」くらいになっ
てくると、ファルスというか不気味なユーモアが全篇に横溢してくる。たとえば、マーカ
ムやヒース部長刑事ほどは目立っていないが、シリーズキャラクターであるドアマス検死
官は、毎回事件が起こるたびに「なんという時に呼びつけてくれたのだ」と腹を立て、か
ならずいろいろな理由をあげて文句を言っている。それがこの「ガーデン」になってはじ
めて、「はじめてちょうど都合のよいときに呼んでくれた。ありがたい」と言って歓喜す
るのである。ヴァン・ダインの全作を通読すると、毎回ドアマスのあげる理由が変わって
いて、思わず笑ってしまう。
それから、作者が意図せざる笑いがこの作品には充溢している。というのは、この作中
でファイロ・ヴァンスは、容疑者の一人である女性に恋をしてしまうのである。それの書
き方がこんな調子なのである。「あの冷静な推理機械ともいうべきヴァンスが−−ああ、
なんということであろうか」と語り手のヴァン・ダインは、まるで世の終わりのように大
袈裟に嘆くのである。ヴァン・ダインの筆使いといったら、まったく情緒や細やかさに欠
けているものだから、爆笑に値するのである。
ヴァン・ダインの「推理小説二十則」の中で「推理小説に恋愛的興味をもちこんではな
らない」と言っているのは有名な話だが、こんな規則が推理小説に妥当すると受け止めた
人は、現在でも当時でも、作家にも読者にもほとんどいなかったに違いない。しかし、こ
とヴァン・ダイン本人が書くものに関するかぎり、この規則が妥当することは、この「ガ
ーデン」をみればよくわかるのである。自分のつくった規則を自ら破って探偵に恋をさせ
る話を書いてみると、それは悲惨きわまりない失敗作になってしまっているのである。「
探偵作家は6作以上よいアイディアを持ち合わせているかどうか疑わしい」という言葉も
そうだが、他人のことを語るつもりで人はしばしば自分のことを語るのである。
まっとうな小説としては評価できないが、「ガーデン」は以上のような不気味なユーモ
アが横溢している作品である。ヴァン・ダインの後期の作品は読まれることが少ないけれ
ども、最も笑える作品として本作の右に出るものはない。もし「ゲテモノ」ミステリベス
ト一〇を選ぶという企画があるなら、是非とも加えたい作品である。
「ゲテモノ」という点では、「ガンダムZZ」も「ゲテモノ」作品である。富野アニメ
は、まだ「エルガイム」や「Zガンダム」では、一応骨格をもったストーリーを備えてい
たのに、それがこの「ZZ」においてまったく崩壊してしまうのである。
この「ZZ」の物語では、地球連邦軍自体はもはや戦いにノータッチである。主人公の
乗るネェル・アーガマはただ逃げ回るだけである。「ZZ」のストーリーの大枠は要する
に、ハマーン率いるネオジオン軍が、ハマーンに叛旗を翻したグレミーとの内紛で互いに
共倒れになりました、ということである。ネェル・アーガマは、グレミーの反乱後はハマ
ーン軍に加担するが、それまではずっと、ネオジオン軍の本気でない攻撃を受けてふらふ
らしていたにすきない。といって、グレミーが反乱を起こすのは、全五十話中、四七話だ
から、それ以前の四六回の話というのは、大筋から言うとなんの関係も意味もなかったこ
とになってしまうのである。
エルピー・プルが出てくる話として私としては思い出深いシリーズであるが、話の出来
としてはもう滅茶苦茶にひどいものであった。
(10) 誘拐殺人事件/逆襲のシャア
「誘拐殺人事件」は、私の読んだかぎりでは、ヴァン・ダインの十二作中最も印象の薄
い作品である。この作品ではまたヴァン・ダインは、自分のつくった二十則に忠実にした
がっているから、それに応じて犯人を消去していくと、誰が犯人であるかは容易にわかっ
てしまう。岡嶋二人の作品のように、誘拐方法に工夫が凝らされているわけでもないから
、とりたてて見所のあるところはなかったようである。
「逆襲のシャア」もまたあまり見所のある作品ではない。この次の「F−91」にして
もそうだが、映画版のくせにテレビシリーズの再編集のようなゴチャゴチャしたつくりに
なっているのはいただけない。映画には映画で別のつくり方・見せ方があるはずなのだが
、富野監督の話づくりは、すっかりテレビシリーズづいてしまっているようだ。
(11) グレーシー・アレン殺人事件/ガンダムF−91
「グレーシー・アレン」と「F−91」の作品評価を一言で言ってしまえば、「映画に
しようとして失敗した」ということであろう。「グレーシー・アレン殺人事件」でヴァン
・ダインははじめて、六文字の殺人事件というタイトルの規則を破っているが、それは映
画会社から映画女優のグレーシー・アレンを活躍させる話をファイロ・ヴァンスシリーズ
でやってほしい、ということでそれをタイトルにも取り入れたからである。にもかかわら
ず、「グレーシー・アレン殺人事件」でグレーシー・アレンは、映画の主演女優にふさわ
しいような活躍の場は与えられていない。ヴァン・ダインは作家として、そういう種類の
話を書くのが苦手だったのだろう。ただ、この作品は「ガーデン」と同じく、不気味なユ
ーモアが充溢していて、ヴァン・ダイン自身書いていてかなり開き直ったように見受けら
れる。その開き直りが、陰惨な殺人事件に妙な明るさをもたらしている。推理小説として
は大したものではないが、妙に味わい深い一作ではあった。
(12) ウィンター殺人事件/Vガンダム
「Vガンダム」については私は見ていないので、語ることは何もない。
ヴァン・ダインの最後の作品である「ウィンター」について少しだけ。
この作品は、長編と言うだけの分量をもっていない。ほとんど中編小説である。あるい
はもう少し書き足すつもりでいた草稿の段階でヴァン・ダインがなくなったのかもしれな
い。これは、このままとして見るとやはり大したことのない作品ではあるが、これを元に
発展させるなら、堂々たる本格ミステリになる可能性を孕んでいた作品だと思う。その意
味でこの「ウィンター殺人事件」は、ヴァン・ダインの再起の一作となる可能性をふくん
でいた。しかし、ヴァン・ダインは長寿に恵まれず、五十一歳の若さで、この作品を遺作
として世を去ってしまうのである。
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