『ニーチェの教説』序文(1915年)
       ウィラード・ハンチントン・ライト(ヴァン・ダイン)著
                小森健太朗・訳

 今日、もはやフリードリッヒ・ニーチェの教説を無視することはできない。今日の思潮に重要な貢献をなしている、超人を説いたこの哲学者に、ふさわしいだけの特権的な地位を与えなければ、現代の思想の潮流を考察することさえ不可能である。力強く容赦のないニーチェの精神は、今日でも最先端の思想に影響を与え続けている。学界ではニーチェを評価する書物はたくさん出ているが、それでもまだニーチェは過少にしか評価されていない。カント以降、ニーチェほど現代思想に否定できない刻印を与えた思想家はいない。ヨーロッパに広範な影響をおよぼしたショーペンハウアーでさえ、ニーチェのもたらした影響には遠く及ばない。ニーチェは特にイギリスとアメリカで喝采を受けつつある。この二国は、これまで奇妙にも厳密な哲学的な観念が浸透しなかったのだが。ニーチェの著作の薫陶によって活性化され強化されているのは、倫理学や文学の分野のみではない。教育学、美術、政治思想、そして宗教の分野で、ニーチェの教説の影響は受け容れられなければならない。ドイツでは、ニーチェの著作を読解し解読した著書や論文だけで、小さな図書館が形成されるほどだ。フランスでもそれと同じくらいのニーチェに関する本や小論が現れ、その著者名を列挙すれば、フランスの著名な知識人がかなりカバーされるほどである。スペインとイタリアでも同様に、ニーチェの教えを研究するさまざまな仕事がなされている。イギリスとアメリカでも最近、超人哲学を扱った本が大量に刊行されている。M.A.ミュッゲの『フリードリッヒ・ニーチェ──その生涯と著作』という素晴らしい伝記の巻末には、参考文献として八五〇冊もの関連書があげられている。もちろんそのリストさえも、ニーチェの哲学を扱った書物と記事のすべてを尽くすものではないことは言うまでもない。
 この点に関して、ニーチェ思想が一時的な人気を獲得しただけの、単なる流行思想の一種だとみなしてはならない。アンリ・ベルグソンの思想に関しては、それがあてはまるのだが。ベルグソンとは違って、ニーチェの名声は、高い知性をもつ学者や知識人の間で獲得されつつあり、ニーチェを賛嘆する者だけで小隊をつくれるほどになっている。しかし、これほど名声を得つつあるのに、ニーチェの教えに関しては、いまだに多くの誤解がまとわりついている。ニーチェの書くスタイル自体が、その誤解をもたらした。漫然と拾い読みしたり、流し読みするだけでは、ニーチェの書物は多くの矛盾をはらんでいるように見える。凝縮されたニーチェの箴言は、たやすく引用される。驚くべき革命的な言明があることにより、ニーチェの初期著作からの抜き出しは、多くの雑誌や新聞で広汎に流通するようになっている。元の本から切り離された、これらの引用は、しばしば未熟で誤った判断をもたらす。その結果、ニーチェ哲学の真意が歪められて誤解されてしまう。もっともよく知られたニーチェの箴言は、しばしば奇妙な、常識外れの意味を帯びさせられる。ニーチェの言いたいことと正反対の内容が、彼の教えとして流通しまかり通っている。
 ある程度までこの誤解は避けようがない。哲学体系を都合よく用いたがっている者たちは、ニーチェの著作に、自分たちの要求に合う多くの材料を見いだす。それらを著作から取り出せば、都合よく自分たちの思想にはめこむことができる。その一方、キリスト教のモラリストたちは、ニーチェが強く影響力のある敵対者であると感じ、ニーチェがキリスト教を攻撃している箇所だけを、価値と示唆に富んだ背景から切り離してつかみ出し、ニーチェの倫理思想をおとしめようとする。しかしながら、ニーチェの教説のどれ一つとして、全体の教えから切り離しては、全く理解できないのだ。
 一般的な信念とは違って、ニーチェは破壊的な批判家ではないし、不可能でロマンチックな夢想の構築家でもない。ニーチェの超人の教説は、一見彼の哲学を合理的に解釈するための大きな躓きの石となるように見えるが、決してそれは、現在の人類と無関係な漠たる夢などというものではない。ニーチェが心を砕いていたのが未来の人類だけというわけでは決してない。重要なのは、その教えによってニーチェが、非常に建設的で一貫した倫理体系を残したということだ。今日の必要に応じた、完全に包括的な、実行可能な体系だ。この体系は疑いなく、ニーチェが輪郭を描いただけの計画が完成していたら賦与されたはずの、精密な完成形態は持っていない。しかし、ニーチェの倫理コードの中には、その主著の中で、明確に思索され明瞭に表現されなかった諸点はごく少ない──それらは重要度は低いのだが──。ニーチェの倫理コードは、社会のあらゆる諸状態を包含する。今日の支配階級──ニーチェは彼らに直接語りかけているのだが──の外面的な行動の方法を示し、現代の状況に適合する一連の理想(観念)を提示する。ニーチェが提示した倫理の枠組は、抽象的な理論や思弁的な結論に基づくものではない。それは、有機的・非有機的な世界を支配しようとする衝動にその基盤をもつ、実践的で実際的な体系である。ニーチェの倫理コードは、現在支配的な倫理コードとは対立する。その理想は、充溢した生そのものだ。最高度にまで強烈に拡張された生。美、力、熱狂、高揚、富裕、陶酔によって最大限豊かにされた生。それは勇気と力のコードである。力、確信、充溢、肯定の徳を有する種族が、その目標となる。
 この理想が、多くの誤解の温床となった。この著作で私が意図したのは、有害でばかげたニーチェ思想の誤解の流布を正すことである。ニーチェ哲学の全体像を可能なかぎり、彼の原意に則して伝えることを私は目指した。これはさほど難しくない。ニーチェの著作は、他の近代哲学者の誰よりもたくさん訳され刊行されて、読者に読む機会が提供されているからである。ニーチェの思想の全貌を短く要約したり、簡単な引用で代用することはばかげている。その上、ニーチェの思想は一貫してまっすぐ論理的に発展しているから、その著作を年代順にたどることで、彼の思想の道筋をたどることができるのである。『人間的な、あまりに人間的な』から始まり、ニーチェの教説は、だんだんとピラミッドの石を積み上げるように発展していく。彼の思想の頂点は、最後の『力への意志』の後半の二部である。その間に位置する本はどれも、なんらかの新しい思想をもたらして発展に寄与している。彼の生涯にわたる著作は、一つの偉大な建築として互いに協和してそびえ立っている。ニーチェの諸著作は互いに重なり合い、以前の本で扱った論点を再び取り上げて発展させ、有機的に全体を形成している。ときには循環しつつ、壮麗な思想の殿堂をうちたてている。
 多くのニーチェの批評家は、ニーチェの教説を体系化するにあたって、諸作から共通する概念(たとえば「宗教」「国家」「教育」といった概念)を取り出し、それらを結びつけて個別に論じようとする。異なる論述にまきちらされた諸点を抽出してまとめあげようとする。しかしニーチェの教説は、そのような人工的な抽出と再構成には本質的にそぐわない。なぜなら、彼の考察対象となった諸々の社会的な論点の背後には、彼の思想を束ねる、二、三の重要な主導的モチーフがあるからだ。ニーチェは、近代的な意味での直観によって思索しなかった。しかしそういった直観が育った条件を分析して、後に一つの新しい思索の方法を確立することになる方法論を獲得するにいたった。古代と現代では、条件と必要が変化したように、直観もまた古代と現代で大きく変化した。言い換えれば、現代の事象に取り組むニーチェの方法論は、流行している方法論の起源と歴史を探索することから導かれ、発展した。たとえば、宗教、社会、国家、個人等へのニーチェの考察は、人間の本能(衝動)の観点から記述され解明される、根本的な前提から生じた結果(生産物)なのである。それゆえ、彼が適用した方法からくる彼の哲学の根本教義を解明しようとする試みは、無意識に過ちをもたらす。真剣な批評家は、その過ちを克服しようと努力してきた。この方法論は、教義そのものよりはむしろ、教義がどう適用されるかに焦点を合わせるのである。
 したがって私は、ニーチェの著作を年代順に配置した。彼の最初の哲学的著作『人間的な、あまりに人間的な』から始まる諸作のもっとも重要な結論を述べている箇所を、各章の後半に配置した。このようにして、読者はニーチェの思想の発展を順を追ってたどることができる。抽象的な理論だけでなく、その実践的な適用をも含めて。もちろんその結論にいたらせた議論を私が提示することはできない。引用したのは、結論が明確に述べられている範囲の限定的なものにとどまるからだ。その結論にいたる思索の過程を知るためには、その引用の出典となるニーチェの元の著作を繙かなければならない。私はまた、ニーチェの卓抜な比喩も省いた。それらは、ニーチェ哲学の主幹でなく、批評家、文学者、芸術家たちにしばしば誤導的に用いられている。この本では、彼の思想の主幹をなす建設的な箇所を、むきだしの、論の過程を省いた形で抽出した。このようにしてニーチェ自身の言葉で語らせることによって、この書物を注意深く読んでさえもらえれば、現在誤解の雲に覆われているニーチェの思想は、正しい理解へと導かれるだろう。
 さらにニーチェ理解を深めたい読者のために、私は各章の初めにニーチェ著作の簡単な紹介と解説を付した。その小論で私は、各作品に関して、それが書かれたときの状況を説明し、他の著作との関連性を指摘し、その個別の重要性を論じた。一部の教説については、引用箇所だけでは説明が不十分なので、簡単な説明を付した。ニーチェが詳細に論じているところ、たとえば、ある動機(欲求)の起源を追求しているところや、ある教義を確立するまでの議論の過程に関しては、略式とは言え、かなりの長文の引用を盛り込んだ。要するに、各章で、ニーチェの各作品の内容の概観と、位置づけと意義(重要性)を、読者が明確に把握できるだけのものが得られるように心がけた。
 この書物は率直に言って初学者向けである。まだニーチェの著作になじんでいない読者が、彼の著作にわけいって綿密な精読を行なうように促すための準備的著作である。この観点では、この書物は手引き書である。すべての引用に関して、明確に出典を併記したので、読者はじかにニーチェの著作を繙いて、ここで引用された結論にいたる論の過程や前提を実際に確かめてみられるとよい。
 第一章の、ニーチェの伝記に関しては、私はニーチェ個人の人格や性格に立ち入ることは控えた。純粋に彼の人生の外面的な出来事の記述にとどめた。ニーチェの人格は、私がこの本で引用した、彼自身のきびきびした、的確で刺激的な言葉から窺い知ることができる。私が何をコメントしたところで、その言葉から受ける印象に付け加えられるものなどないだろう。ニーチェをその著作から切り離して論じることは難しい。ニーチェと彼の教えは不可分である。ニーチェの哲学と同様、その文体もまた、彼の人格からじかに生育したものである。だからこそ、ニーチェの福音は、個的で親しみがもてるものであり、人類全体の本能(衝動)と密接に結びついているのだ。ニーチェの伝記は、英語でもいくつか素晴らしいものが書かれており、その中でも最良と思われるものは、巻末にあげた参考文献リストで参照できる。
 言うまでもないが、この書物は決して、ニーチェの教説を完全に解読した決定版を意図したものではない。ニーチェ研究の入口を用意することを目的としたものである。したがってその観点から、私は本書で、純粋な哲学用語、専門用語の使用を控えた。この本の目的は、読者にさらなるニーチェ研究をうながすことにある。もしこの本を読んだ方が、ニーチェ自身の著作に取り組もうという気に全然ならなかったとしたら、この著作を書いた私の意図はまったく果たされなかったことになる。
 この書物で引用されたニーチェの引用文は、英語で初めて刊行された、綿密な校訂を経た、完全版ニーチェ全集によるものである。オスカー・レヴィ博士の精力的な訳業によって、われわれはニーチェ著作の全貌を英語で読むことができるようになった。その全集の翻訳は、いずれも有能な研究者によってなされ、各巻に啓発的な序文がついている。今やこの全集は、英語圏で刊行された、外国の哲学者の著作集の中では、最も完全な、最も巻数の多いものになっている。この全集は、全十八巻で、イギリスではファウリス社、アメリカではマクミラン商会より刊行されている。その各巻の目次構成は以下のとおりである。(以下、各巻の目次が紹介される)。

 この書物では、『この人を見よ』と、ワーグナーを扱った短い書物からの引用はない。前者はニーチェの自伝で、ニーチェの人格と著作に光をあてるものではあるが、純粋な哲学著作とはいえないものである。ワーグナーに関する本は、もちろん興味深いが、一部を除いて、ニーチェ哲学の教説とはほとんど無関係である。したがって、本書の入門的役割を鑑みて、それらの著作への言及は割愛した。

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