笠井潔『バイバイ、エンジェル』をめぐる断想
(1) 現象学的推理法で真相を見抜けるか?
探偵としての矢吹駆を論じるには、その現象学的推理法を避けて通るわけにはいか ないでしょう。新保博久は、『世紀末日本推理小説事情』の中で笠井潔を扱った「ア ンドロギュヌスの末裔」の章で、「本質直観推理ここに始まる」という見出しのもと に、矢吹駆の推理方法を論じていますが、その内容は、矢吹駆によるクイーン批判の 紹介と、その現象学的推理方法が、ポアロや金田一耕介といった従来の紙上名探偵の 弱点を克服する巧みな理由づけであるといった位置づけです(同書、95頁) 。その指 摘の妥当性はともかく、矢吹駆の推理法の評論としては、現象学的推理法そのものに 踏み込んでいないのが、なんとも言えず物足りない気がします。
本誌「矢吹駆研究」の誌上でも、新保の笠井論の弱点を指摘する論がいくつか見受 けられましたが、現象学的推理法そのものを扱った考察があるかどうかみてみますと 、「第2集」でEQIII氏が「現象学的推理法で真相を見抜けるだろうか、という 疑問を持っている」と述べ、以下その理由を解説しておられます。この点は私もかね がね疑問に感じていたところなので、同じ考えの人がいるのを知って意を強くしまし たが、EQIII氏の論も、現象学の方法そのものにまで踏み込んでいないのがちょ っと物足りないので、その点を補うような形でこの小文を書いてみることにしました 。
(2) 現象学的推理の消極的側面
矢吹駆が用いる現象学的推理法は、大きく次の二つの部分に分けることができると 思います。すなわち、2,一般常識、探偵小説的臆見(ドクサ)等の臆見を括弧に入れ 、還元する−−フッサールの言う「判断中止」あるいは「現象学的還元」に相当する 部分と、2,「本質直観」によって事態の真相を見抜く部分です。
2,の作業の方が建設的で本来的な部分で、1,の部分は、その前提となる前段階的な 作業で、「本質直観」遂行の障害となるものを除去するための作業であると言えまし ょう。言ってみれば、1,は解体的・批判的な営みであり、2,は建設的で創造的な営み と言えるでしょう。この小論では、1,を消極的側面、2,を積極的側面と呼ぶことにし ます。
フッサールが創始した現象学そのものにも、そのような二つの側面があり、前者の 1,に相当するのが、「エポケー」とか「判断中止」とか「括弧入れ」と呼ばれる「現 象学的還元」であるわけです。 ただ、「現象学的還元」と言っても、フッサールの行なった「還元」と、矢吹駆が 探偵するために行なったのとでは、還元される態度なり対象が当然異なってきます。 フッサールが主著『ヨーロッパ諸学の危機と先験的現象学』で論じた「還元」すなわ ち「判断中止」は、主に自然科学的なものの見方を対象としたものでした。しかしこ こでは、その「還元」を探偵小説の文脈でとらえなければいけませんから、還元され るべき対象もそれとは少し違ったものになります。
ここで、『バイバイ・エンジェル』の首切りの事例を取り上げてみましょう。同書 第四章でナディア・モガールの披露した、ラルース家殺人事件における首切りの動機 が被害者と加害者の入れ替わりにあるという推理は、矢吹駆に論破されてしまいます 。彼はそこで次のように述べています。「マドモワゼル・モガールをその一員とする 探偵小説愛好家の眼には、首なし屍体という事物はたちどころにある一種独特の〈意 味沈澱〉を惹き起こすのです。それは、無限に多様であるべき首なし屍体の意味を、 犯人による被害者の顔の隠匿であり、つまるところその屍体が誰のものであるか判別 し難くするための作為であるという点においてのみ一義的に固定化するものです」( 角川文庫版、272 頁) 。矢吹駆はナディアのその考えの誤りを指摘し、「探偵小説愛 好家風の臆断( ドクサ) を還元したうえで、もう一度考え直してみるべきでしょう」 と述べています( 同、274 頁) 。
ここで矢吹駆が用いている「還元」という言葉は、明らかに現象学で言う「還元」 にあたり、前述の「判断中止」に相当するものです。フッサールが『危機』で批判し た諸学問の顛倒は、一つには、自然科学の成果を無前提に用いてしまう点にあったは ずですが、ここでナディアは、探偵小説上の法則を無前提に用いてしまうという「顛 倒」を犯しているわけで、そこを「還元」しなければならない、と駆は言っているわ けです。
ただ、ナディアがここで批判された理由は、とりたてて現象学の概念を持ち込まな くても理解できるものです。つまり、首切り屍体が被害者と加害者の入れ替わりであ るというのは、これまでの数々の首切り屍体から経験的に帰納的に得られた一種の法 則であるけれども、この法則を無批判・無前提に演繹的に現実の目前の屍体に適応す ることは許されないということでしょう。個別から普遍への移行は許されるが、その 逆、すなわち普遍から個別への移行は許されない、というわけです(注1)。 あるいはもっと日常的に、要するに「現象学的還元」とは先入観なしにものを見る ことである、と理解してもいいかもしれません。しかしこの「還元」という概念は、 それよりは包括する範囲が広いと思います。この「還元」を、探偵の推理方法という 文脈の中で私なりに定義するならば、「AだからB」という因果論的な説明を差し控 えること、ということになります。
私たちは日常生活しているときに、AだからBであるという判断を無数に行なって います。私たちは、わけのわからない現象や出来事に直面すると、困惑し戸惑ってし まいますが、その出来事について、合理的なもっともらしい理由がつけられれば、安 心し、それを忘れ去ることができます。適当な理由が思いあたらない場合には、捏造 してでも、説明をつけようとします。たとえば校内暴力をふるう子どもがいた場合に 、「家庭が悪いのだ」「学校が悪いのだ」「社会が悪いのだ」という理由は、どれも 私たちが日常的な態度において見つけだすさまざまな説明です。
このような因果論的な説明の図式は、私たちの日常の意識に深くしみこんでいて、 ほとんど無意識の自動的な操作になっているとさえ言えます。そのような仕方でAだ からBという説明で事態を片づけてしまった場合、たとえそのAという原因が正しい ものであったとしても、Bという事態そのものから私たちが逃避し、事態そのものの 真実を隠蔽してしまったということが生じています。また、他にBという事態を招い たC、Dという理由があったかもしれないのに、それらの説明可能性を隠蔽してしま うということも生じています。個々の事態の個別性を隠蔽して、普遍的・一般的なも のにまとめあげてしまうということも生じています。こういう「陥穽」から脱し、「 事象そのものへ(zu den Sachen selbst)」還帰することをフッサールは主張しました 。その営みが「現象学的還元」であったと位置づけることができます。
ここでまた、首切りの例に戻って考えてみましょう。首切り屍体を見て、犯人が首 を切った理由として、探偵小説愛好家が「加害者が被害者を装うため」という説明を 見いだし、精神分析家が「首を切りたくなる精神倒錯によるもの」という説明を見い だしたとしましょう。前者は探偵小説的臆見にとらわれ、後者は精神分析的臆見にと らわれていると言えますが、どちらもAという事態が起こったのはBのせいである、 という遡行を行なっている点では共通しています。この二つの説明がどう両立するか は、さまざまな可能性があり、両者とも正しい場合もあれば、誤っている場合もあり 、一方が他方の背景となっている場合もあるでしょう。犯人自身は被害者と入れ替わ るために首を切ったつもりでいたのに、実は精神分析してみると無意識に首を切りた い衝動を内に持っていた−−というような場合とか。しかし、どういう説明を採るに しても、首切り屍体という事象そのものから逃避し、他の説明可能性を隠蔽すること が生じています。
私の理解するところでは、そのような因果論的な説明をつけることを差し控え、事 象そのものにとどまろうとするのが、「現象学的還元」の眼目であり、この方法は、 消極的意義においては、探偵の方法に有効であると言えます。つまり、この「還元」 によって真相を看破することはできませんが、偏見や先入観やさまざまな臆見にとら われずにものを見ることが促されるからです。 しかし、「現象学」の積極的な部分になると、それを探偵の方法に用いることがで きるのかどうか、非常に怪しくなってきます。次にその点を論じたいと思います。
(3) 現象学的推理の積極的側面
矢吹駆の「本質直観」推理は、彼の推理方法の中で積極的な部分にあたり、真相を 見抜く手法となっています。しかし、彼の「本質直観」の用い方には、以下に述べる ように、やや疑問があるのです。 まず、「本質直観」について、現象学の本家フッサールが、どのように述べている かをみてみましょう。 「現象そのものは自然ではないが、それは直接的な直観において把握されうる本質を もっている。現象を直接的な概念によって記述する言表はすべて、それが妥当な言表 であるかぎり、本質概念によって、つまり本質直観において充実される概念的語義に よって、現象の記述を行なうのである」(「厳密な学としての哲学」、『世界の名著 ブレンターノ フッサール』所収、中央公論社、138 頁) 。 フッサールの言い回しはなにぶんにもわかりにくいのですが、『バイバイ』で矢吹 駆が円という概念を例に説明している箇所は、まとまりがよく適切な本質直観の説明 だと思います( 前掲書、146-8 頁) 。そこで彼は次のように述べています。「現象学 でいう本質直観には、どこにも神秘的で非合理な謎めいたところ、あるいは人の度胆 を抜く奇術のようなところはありません。それは、どんな人間であってもほとんど無 自覚のうちに日常的にはたらかせているような、対象を認識するための機構の秘密を 明らかにしただけのものです」( 前掲書、146 頁) 。この駆の言葉は、フッサールの 規定にも合致し、本質直観の何たるかを短く適切に言い表しています。しかし、だか らこそ、駆自身が駆使する「本質直観」推理と、現象学で言う「本質直観」との間に 乖離があることに気づかされることにもなるのです。 現象学は、「還元」によって、自然科学的な世界、即自的に存在する「客観的」な 世界を括弧に入れて、生活世界へと還帰し、主観性へと還帰しました。つまり、現象 学的還元の歩みは、一見したところ、「客観」から「主観」への歩みだったわけです 。しかし現象学も学問たる以上、各自ばらばらの主観性にとどまるわけにはいかず、 やはり「客観的」であることが求められるわけです。その場合の「客観性」は、即自 性という意味ではなく、万人に共通である「相互主観性」という意味になっています 。現象学は即自性としての客観性を放棄しましたが、相互主観性という意味での客観 性を保とうとします。そして、どんな人にも共通な意識の働きというものを記述によ って確定しようとするのが、現象学の積極的な側面、建設的な側面にあたるわけなの です。
その、人間に共通な意識の営みの一つに「本質直観」があるわけです。これはまさ に、駆が言うように、「どんな人間であってもほとんど無自覚のうちに日常的にはた らかせているような、対象を認識するための機構」であるわけです。私たちが「円」 なら「円」、「犬」なら「犬」という概念をとらえるとき、私たちはみな「本質直観 」を行なっているわけです。 したがって、「本質直観」は人間の意識一般に共通する営みであり、探偵のみが遂 行できる特殊な営みではないのです。ですから、そのような「本質直観」が探偵の方 法として有効でないのは、明らかでありましょう。真相を見いだすことのできない一 般人と異なった思考をするからこそ、探偵は探偵たりうるのであり、万人共通の「本 質直観」をなすだけでは、探偵はできないのです。 先に引用した箇所に続いて、矢吹駆は、首の切断を例に、本質直観を行なってみせ ます( 前掲書、149-152 頁) 。確かに、そこで駆がやってみせたような思考の働きを もってすれば、殺人事件の謎を解く探偵作業も可能になってきそうです。しかし、私 見では、ここで矢吹駆がやってみせたような思考方法は、もはや「本質直観」とは呼 べないものです。なぜならまず第一に、このような思考の働かせ方は明らかに、「ど んな人間であってもほとんど無自覚のうちに日常的にはたらかせているような、対象 を認識するための機構」とは異なっており、フッサールの定義した「本質直観」から 外れています。第二に、先に述べたとおり、「現象学的還元」は、ある事象に関して 、因果論的に遡ることを禁じています。ところが、この矢吹駆の思考は、明らかに因 果論的に遡行する営みであります。ここで彼は、「なぜ首切りをするのか?−−何々 だからである」という因果論的な解答を求めて思索しており、それはもはや現象学と は異なっていると思います。同様に、『Xの悲劇』における、白い粉に関するドルリ ー・レーンの推理も、現象学的な「本質直観」とは呼べないと思います。
現象学は、私の理解したところでは、あくまで事象そのものにとどまるものであり 、その裏にある隠れたものとか、神秘的なものとか、背景とか、理由とか動機とかを 探ることは許されないのです。現象学は、誰もが行なっている日常的な営みを把握し 確定しようとする限定的な作業のように思えます。したがって、純粋に現象学の領域 にとどまる限り、いつまでたっても、事件の隠された真相にたどり着くことはできな いのです。 また、「本質直観」という言葉そのものが、日本語で理解するのと、原語のドイツ 語とではニュアンスや意味合いに差があることも指摘できます。日本語で「本質」と いった場合、隠されているものを暴いてその真の姿に迫る、というようなニュアンス がありますが、ドイツ語で「本質」にあたるWesen という語は、「あった(gewesen) 」という語から来ており、そのもののありようを示すような言葉で、「隠された」と か「秘密」というニュアンスはないようです。「直観」という語も、日本語ではなん となく神秘的な勘やら直感、といった感じがしますが、ドイツ語の「直観(anschauun g)」は「見る(schauen) 」から来ているので、「本質直観」といっても要するに、「 もののありようを見る」というようなニュアンスのはずです。そのことは、「本質直 観」に関するフッサールの次のような記述からもうかがえるでしょう。「本質直観は 、知覚以上に困難なことでもないし、『神秘的』な性格をもつものでもない。もしわ れわれが『色』を完全な明証に、つまり完全な所与にもたらすならば、この所与がす なわち『本質』なのである」(前掲書、138-9 頁) 。 つまり、「本質直観」というのは、誰もが行なっている、ものを認識する営みのこ となので、とりたてて探偵法に使えるものではないのです。 以上、述べてきたことをまとめると、現象学の方法は、消極的側面すなわち「還元 」としては、探偵の作業に使えるし有効であるが、「本質直観」のような積極的側面 においてはそうではない、ということになります(注2)。 ただ、そうは言ってもこのことは、探偵としての矢吹駆の価値をおとしめるもので ないことは言うまでもありません。矢吹駆は、フッサールに啓発されて、独自の現象 学的推理方法を確立したと言うことができます。矢吹駆自身の探偵方法が次なる考察 の課題ですが、そのことは、いずれまた機会を改めて論じたいと思います。
(注1)なんだ、それならなにも「現象学的還元」などという用語を使わずとも、帰 納法と演繹法の顛倒とでも言えばいいじゃないか、と思われる方もいらっしゃるでし ょう。それはそのとおりですが、この小論では「現象学的還元」という概念を、哲学 的に全体的に把握しようとしているのではなく、探偵の方法との係わりで、限定的に 把握しようとしているにすぎません。 (注2)この論は、フッサールの言う「本質直観」が矢吹駆の駆使する「本質直観」 と異なったものであるという私なりの理解に基づいたものにすぎず、私のフッサール 理解が正しいかどうかは保証の限りではありません。現象学そのものもフッサールの 専売特許ではないし、矢吹駆にも独自の現象学をうちたてる権利があるはずですし、 フッサールの理論を改良することもできるはずです。その意味では、「本質直観」と いう言葉にも多様な意味を持たせることができるわけで、以上の論で指摘したことは 的外れなのかもしれません)
*手塚隆幸編集『矢吹駆研究』に寄稿したものの再録です。