人類に対する犯罪
広島・長崎への原爆投下
1995,8月科教協広島大会にて
宮内主斗 KHF07405@nifty.ne.jp
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峠三吉さんの詩集『にんげんをかえせ』(新日本文庫)の中に、こんな詩があります。
にんげんをかえせ
峠 三吉
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
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重々しい詩ですが、いったい何を訴えているのでしょうか。
原爆投下を指示したアメリカ合衆国のトルーマン大統領は、その目的を次のように議会に報告しました。
われわれは、戦争の苦しみを早くなくすために、また数千数万のアメ
リカの若者の命を救うために、原子爆弾を使用した。
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戦争の早期終結と、アメリカ兵の命を守るために原爆を投下したというのです。
最近(1995年)でも、クリントン大統領が、同様のことを言っています。
これを具体的な事実を通して、検証していきましょう。
問題1 日本への攻撃を指揮していた陸軍のマッカーサー、空軍のアー
ノルド、海軍のニミッツは、「強力な兵器の投入がなければ日本を降伏
させられない。」と訴えてしていたのでしょうか。
ア 強く訴えていた イ 少し訴えていた
ウ 訴えていなかった
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原爆のような強力な兵器があれば、それを現地の指揮者が使いたがっていたかは重要な問題です。
「アメリカの若者の命を救うため」という根拠になるからです。
日本兵は激しく捨て身の攻撃をしてきたから、なんとかしたいと思っていたのでしょうか。
空襲で日本の要所は攻撃できて、物資がないのでそんな必要はないと思っていたのでしょうか。
<結果 訴えていなかった>
アメリカの陸・海・空三軍の責任者は、1945年の11月前後には、日本は降伏するだろうという見通しを持っていました。
それだけでなく、陸軍のマッカーサーは、11月1日に開始する南九州上陸作戦を準備しつつも、それ以前に日本の降伏があると考えていました。
ニミッツ、アーノルドも、艦砲射撃や物資輸送路の遮断、空襲で日本を降伏に追い込むことができるといっていました。
トルーマン大統領は、原爆の投下について、陸・海・空三軍の責任者の意見を聞いていません。
1945年2月のヤルタ会談では、「ソ連が、日本への参戦を決めた」ということになっています。
問題2 日ソ中立条約を破棄して、ソ連が日本への参戦を決めたのは、
なぜでしょう。
ア アメリカが強く要請したから
イ ソ連が自分から参戦したいと申し出たから
ウ 連合国の統一した意見がそうなったから
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ソ連は、ドイツとの戦いで、かなりの犠牲を出していました。
また、参戦するとなれば、明らかな条約違反ですから、後で非難ごうごうとなることは分かり切っています。
それでもなおかつ日本と戦おうとするのですから、それなりの理由があるはずです。
<結果 アメリカが強く要請したから>
この2月の時点で、アメリカ政府は、「日本を降伏させるためには、本土への上陸作戦が必要である」と考えていました。
ですがこの場合、日本軍の激しい抵抗を受け、かなりの損害が予想されます。
そこで、アメリカは、ソ連に中国東北部(満州)を攻撃させ、アメリカは南から上陸作戦を行って、日本をはさみうちにする作戦を考えました。
当時の日本は、中国東北部に大量の軍隊を送り込んでいました。アメリカは、その軍隊が日本本土でアメリカ軍に対抗することを嫌ったのです。
イギリス、フランスは、日本本土上陸作戦にはたいして関わっていないので、ソ連に要請する必要はあまりなかったのです。
結局、ドイツが降伏して3カ月後にソ連は対日参戦をすると決めました。ソ連としても、自分の国の軍隊のおかげで日本が降伏したとなれば、国際的発言力が増すということもあったようです。
ドイツは5月8日に降伏したので、8月8日がソ連参戦の予定日になりました。
8月のソ連参戦、11月のアメリカ軍日本上陸で、日本の降伏が見込まれたのです。
アメリカでは、ドイツに対抗するため、原子爆弾の研究が行われていました。
問題3 アメリカが原爆の開発実験に成功したのは、いつのことでしょ
うか。
ア 1945年2月以前 イ 1954年2月
ウ 1945年3月以後
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つまり、ヤルタ会談以前に実験に成功していたかどうかです。
アだとすれば、原爆のすさまじさを知っていて、それを使うのをためらっていたことになります。そうでなければ、ソ連に参戦を促すことはありません。
ヤルタ会談が行われた時期のイだとすると、ソ連に参戦を促す方針を変えないまま原爆を保有していることになります。
ウだとすると、原爆があればソ連の参戦を促さなかったかもしれない可能性が残ります。
<結果 ウ(1945年7月16日)>
アメリカのニューメキシコで行われた原爆の爆発実験が、この日に成功しました。
原爆の研究・製造は、アメリカ国内でも秘密事項でした。
それでも、開発に携わった人達は、この原爆を都市の攻撃用として使うことに反対の意思を表明しました。
マーシャル参謀本部長は、次のように言っています。(1945,5,29)
原爆は、まず大きな海軍施設のような直接的な軍事目標に対して使用
し、・・次に数多くの大きな工業中心地を指定し、そこから住民が退去
するよう警告を与え、・・・その記録を明白に残しておく努力が払われ
るべきである。
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アメリカの科学者たちの提案は、こうです。
原爆実験を敵国領土かアメリカの領土で行い、実験に引き続いて日本
に対し、「降伏しなければ、このような爆弾による本土攻撃が加えられ
る」と警告すべきである。
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原爆製造のマンハッタン計画の「フランク報告」は、次のように述べています。(1945,6,11)
最良の方法は、砂漠か不毛の島で、国連のすべての国々の代表者の目
前で、示威実験を行うこと。
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原爆を、一般市民に対して使用してはならないという意見が、はっきりと寄せられています。
マンハッタン計画のリーダー格の物理学者ロバート・オッペンハイマーは、計画進行中になくなったルーズベルト大統領の葬儀の際、次のような弔辞を述べています。
われわれはふと、現在携わっているこの仕事が、本当に望ましい目的
に向かっているのかどうか、どうしようもない不安にとらわれているの
であります。
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このような意見があった中、原爆投下準備は進んでいました。
1944年12月17日に、原爆投下を専門に受け持つ部隊が作られました。45年には、テニアン基地(ここから、エノラゲイが広島に向かって発進した)に移り、6月には太平洋で投下訓練、7月には模擬爆弾で日本本土に投下訓練をしていました。
問題4 アメリカ軍は、広島に原爆を投下する前、住民に対して警告を
したでしょうか。
ア した イ しなかった ウ したが通じなかった
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原爆の破壊力はすさまじいので、もし投下すれば一般市民を巻き込むことは目に見えています。
東京大空襲の時もビラがまかれたと言いますから、広島でもビラがまかれて警告されたでしょうか。
しかし、当時はアメリカ軍がまいたビラなどは、「見てはいけない。」、「あったら拾って回収し、憲兵に届ける。」とされていました。
ですから、アメリカ軍が知らせる努力をしても、それが通じないということがあります。
警告をしなかったとなれば、「一般市民を巻き込んでも構わない。」という判断があったことになります。
<結果 警告をしなかった>
投下目標に関する暫定委員会答申(6月1日)の中に、「攻撃は、特別な警告なしに行うこと」と書かれています。
原爆の実験が成功する前に、「一般市民を巻き込んでも構わない。」という方針は決まっていたのです。
また、原爆投下命令書(7月25日)には、「この兵器の対日使用に関するいっさいの情報を発表する権限は、陸軍長官及び合衆国大統領だけに存するものとする。」とあります。これでは、警告はできません。
警告なしに投下すれば、ただでさえ強力な兵器の威力がさらに発揮されます。
問題5 アメリカ軍は、広島市に対して原爆以外の空襲をしていたでし
ょうか。
ア していた イ していなかった ウ 記録がない
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1945年になると、アメリカの本土空襲は激しさを増し、東京大阪をはじめ、全国の都市は次々と焼き払われていきました。
広島県でも、呉市への空襲は14回もあり、大きな被害を受けていました。呉市には、戦艦大和を作った軍港があるのです。
広島市も、軍都として有名な都市でした。本土決戦に向けて、西日本の中心となって準備を進めていたのです。
こういうところなら、空襲があるはずなのですが、どうでしょうか。
<結果 していなかった>
軍事関係の施設のある都市に空襲、これはどこでもされていました。水戸市でも掘原(今の茨城大学)に練兵所があったので、空襲されました。
ところが、広島市は空襲らしい空襲を受けませんでした。
「広島市出身のアメリカ移民は多いから、ふるさとは攻撃しないのではないかな?」と、市民は噂していました。
しかし、空襲警報は出ていました。
毎朝8時、B29が広島市上空にやってきました。
そして、空襲警報のサイレンが鳴るころ、Uターンして引き上げていきました。
空襲がない、毎朝のB29の訪れは、単なる偶然ではなく、市民から空襲に対する警戒感をなくするために行われたことなのです。
朝8時というのは、出勤の時間帯です。人々が買い出しに出かけたり、仕事に出かけたりして、建物の外に出る時間帯です。
出勤の途中でB29を見かけることは、市民にとって珍しいことではなくなっていました。
原爆投下は、市民の警戒感をなくす作戦が進んだ8月6日の午前8時15分に行われました。
ただ投下されたのではなく、被害を大きくするための策略が、着々と進行していたのです。
長崎への原爆投下はお昼ですが、これには事情があります。
当初、小倉に投下する予定で、8時ごろB29が小倉上空を旋回していました。
しかし、天候がすぐれず、投下目標がよく見えないので、小倉への投下を断念しました。その代わり、別な命令が出たのです。
「そのまま基地に戻ると、もし、着陸に失敗したら、大変なことになる。積んだ爆弾は代わりに長崎に落としてこい。」
この小倉上空で旋回している時間、長崎まで移動する時間があったので、午前8時ごろの投下ができなかったのです。
マンハッタン計画で、原爆の研究・製造をした最高責任者は、グローブス少将です。
グローブスは、マンハッタン計画の目的をどのように考えていたのでしょう。
問題6 「われわれの敵は( )だという信念を一貫して持ち続けた。
そして、マンハッタン計画も私のこのような信念として遂行された。」
とグローブスは議会で証言しています。
( )に入る国は、どこでしょう。
ア 日本 イ ドイツ ウ ソ連
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原爆の投下は日本になされましたから、日本の軍国主義を敵視していたと考えられます。
しかし、当初、「原爆をナチスドイツのヒットラーが持ったら、大変なことになる。」と原爆の研究・製造が始まったくらいですから、ドイツかも知れません。
ソ連は第二次世界大戦の連合国です。しかし、大戦後は「冷たい戦争」という戦火を交えない戦争が行われていました。自由主義対社会主義の戦争です。
<結果 ソ連>
原爆の投下で日本に大打撃を与え、「ソ連が参戦しなくても、アメリカの力だけで十分日本を降伏させられた。」という認識を世界に認めてもらうのが、原爆投下の理由だったのです。
「一発の原爆で、これだけの破壊力がある。それを現に保有しているのは、アメリカだけである。」と、ソ連にプレッシャーをかけるのも大きな理由だったのです。
だからこそ、ソ連が対日戦争に参戦する前の8月6日に投下する必要があったのです。
原爆投下から3週間ほどたった9月に、マンハッタン計画の内部では秘密の文書が出されました。
それには、「原爆204発で、ソ連の拠点は壊滅する。」と書かれています。
アメリカは、広島市の航空写真を分析し、ソ連の拠点を破壊するための原爆の個数を算出したのでした。
このことにより、広島市に空襲がなかったわけも分かります。
「純粋に、原爆1発の被害がどれくらいか。」、これを知りたかったのです。
あらかじめ空襲などをしますと、普通の爆弾での被害だか、原爆での被害だか分からないからです。
そんな実験データーを得るために、犠牲になった人達が何十万人もいるのです。
でも、そんな単純に考えて良いのでしょうか。
アメリカは、軍国主義に対抗して戦った連合国の一員です。
軍国主義に対抗する民主主義の国の政府が、敵国民をダシにライバルの国に優越感を持とうと考えて行動したのでしょうか。
アメリカの原爆開発は、民主主義のルールに基づいて行われたのでしょうか。
具体的にいうと、政府が何かをしようとするときには、お金がかかります。
そのお金は、議会で予算案として審議され、修正されて予算となります。
つまり、民主主義のルールのもとでは、政府が勝手にお金を使うことはできません。議会の承認が必要なのです。
問題7 アメリカの原爆開発の費用は、予算が議会で審理されたでしょ
うか。
ア 議会で審理された イ されてなかった
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1939年に、「原子力エネルギーによって、きわめて強力な新型爆弾を製造することが考えられます。」と、物理学者のアインシュタインがルーズベルト大統領に手紙を送っています。
その手紙にも刺激されて、原爆の開発が始まりました。
ですから、原爆開発を議会に審理してもらう時間は、それなりにあったのです。
<結果 されていなかった>
ルーズベルト、トルーマン両政権は、原爆開発のために20億ドル(現在のドルに換算すると137億ドル=約1兆1645億円)を極秘のうちに支出しました。
議会に知られざるところに巨額の予算が使われるなんて、民主主義社会にはあり得ないことです。
原爆の開発は、民主主義とは無縁の、政府の独走だったのです。
当然、「巨額の予算が、政府によって何かにつぎ込まれている」となれば、議会が追及することになります。
その追及をかわすには、戦争で原爆を投下し、その威力を示すことも有効なわけです。
しかし、戦争で日本に投下する前に、日本が降伏してしまったら予定が狂います。
1945年2月、日本は敗戦を覚悟していました。
「敗戦は、もはや必至なり。」と、天皇に上奏されていました。
日本は、中立国であったソ連を仲介にして、降伏の道をさぐっていました。
日本の降伏の条件として、「国体維持」つまり、天皇制の維持だけを条件として挙げていました。
国民一人一人の命や人権を保障するという前に、天皇制の維持を持ち出すあたりは、さすが軍国主義の国です。
ですから、もしも連合国側から、「天皇制は残さない。」とはっきりと言われたら、降伏するわけにはいきません。
連合国は、ドイツに対しては、これといった降伏の条件を示しませんでした。でも、日本に対しては、ポツダム宣言という降伏の条件を示しました。
ここに、連合国の方針転換があります。
問題8 ポツダム宣言には、第6条 軍国主義的権力および勢力の除去
という「天皇制は残さない」という意味の条文が含まれています。
ポツダム宣言は、原爆実験の前に出されたのでしょうか。
ア 原爆実験の前 イ 原爆実験の後
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前だとすれば、純粋に民主主義が軍国主義に対する戦争と見て取れます。
ところが、後だとすれば、「原爆を日本に使いたいから、日本が簡単に降伏しないよう牽制しよう」という意図を多少なりとも反映している可能性があります。
<結果 原爆実験の後>
7月16日に原爆実験が成功し、25日に原爆投下命令が出されています。
ポツダム宣言は、26日に出されました。
ドイツに対するように、条件を示さず、とにもかくにも降伏させることもできたはずです。その後で、軍国主義を解体することもできたはずです。
条件を明示したことは、アメリカが意図的に、原爆投下のために戦争を引き延ばしたということにならないでしょうか。
あいまいな降伏条件を示して、日本が早く降伏してしまうと、原爆を投下するとができなくなります。そこでくさびをさしたということになるのでしょうか。
そうであったなら、「原爆が、戦争の終結を早めた。」という大統領の説明は、全く事実に反することになりますが、いかがでしょうか。
ポツダム宣言が発せられた直後、日本の政府はこれを黙殺すると発表しました。当時の日本の軍国主義政府としては、受け入れがたい内容だったのです。
8月6日に広島市、9日に長崎市に原爆が投下されました。
爆風、熱線、放射線の与える影響は絶大で、人々に多くの苦しみを与えました。
特に、放射線の与える影響は、不気味な存在でした。被爆による即死を免れた人達も、発熱、下痢、嘔吐、下血、血尿などを起こし、さらには脱毛、口内炎などの症状が現れました。またさらに、期間がたつとケロイドが皮膚に現れたり、白血病にかかったり、数年たってからガンの発生が増えてきました。
問題9 終戦後、進駐してきたアメリカ軍は、原爆の被害に関する情報
を統制していたでしょうか。
ア 統制していた イ 統制していなかった
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「言論の自由」は、民主主義を支えることです。
日本の軍国主義政府のもとでは、とうぜん言論の自由はありません。政府の意図にそぐわない報道は、できなかったのです。
アメリカ軍は、民主主義の連合軍の一員です。アメリカ軍のもとでは、日本の民主化を進めるために、言論の統制などしなくなって当然とも言えます。
しかし、これまで見てきたように、アメリカ政府が民主主義とは無縁の原爆開発・投下をしてきたとすれば、言論統制をしても当然ということになります。
日本の軍国主義と変わらないことを、アメリカ軍はしていたのでしょうか。
<結果 統制していた>
9月になってやってきたアメリカ占領軍は、マスコミの原爆報道を禁止しました。アメリカは、原爆被害の想像を絶するひどさが日本国内や世界に知れ渡ることを恐れ、原爆についての報道を厳しく制限したのです。
「原爆の被害はすさまじいものだ。」などと集会を開いて言おうものなら、警察に捕まるのを覚悟しなければならなかったと、現地の人達は言います。
占領軍がいなくなってから、国民は次々と発表される原爆の被害について詳しく知ることになりました。6年間も、秘密にされていたのです。
問題10 アメリカは、被爆者の治療を積極的に進めたでしょうか。
ア 進めた イ 積極的にはしなかった
ウ しなかっただけでなく妨害した
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「原爆乙女」が、飛行機でアメリカにわたって治療を受けました。そのことに象徴させるように、原爆投下の責任を負って、アメリカは治療を積極的に進めたと考えられます。それが民主主義の国のアメリカの当然の行為だとも考えられます。
しかし、被害のひどさを報道させなかったくらいですから、治療にも積極的にならなかったとも考えられます。
いやまた、原爆の開発・投下は民主主義とは無縁のものだから、その後の処置も非民主的・非人道的であるとも考えられます。妨害したかも知れません。
<結果 しなかっただけではなく妨害した>
11月に日本と占領軍が合同して東京で開いた原子爆弾災害調査特別委員会の第1回総会では、アメリカ軍が日本人医師による原爆症についての研究発表を妨害しました。この研究発表ができなくなったことで、治療法のノウハウが伝わらず、被爆者にとってマイナスだったことは明らかです。医療の前進にブレーキをかけたのです。
アメリカは、ABCCという原爆障害調査委員会を、広島と長崎に作りました。被爆者を見ることは見たのですが、「検査するだけで、治療はしない。」という不評を買いました。それだけでなく、日本人医師たちの研究成果をアメリカに持ち帰ってしまいました。現在でも、返還されない資料があります。
民主主義国のはずのアメリカは、非戦闘員60%という被爆者に対する医療措置を妨害したのです。
原爆乙女の渡米に関しても、「原爆の悲惨さが知れ渡ってしまうので、中止せよ。」という命令が本国から出されました。しかし、「飛行機が離陸した後で、この命令書が届いたことにしなさい。」とアメリカ占領軍の責任者の機転で実施できたのです。
原爆は、日本の軍国主義に対する、アメリカの民主主義からの攻撃だったのでしょうか。
日本の軍国主義が、たくさんの戦争犯罪を犯したことは、事実です。
しかし、原爆がその戦争犯罪に対する当然の報いだと考えるのは、誤りです。原爆投下の理由は、日本の軍国主義政府に対する攻撃と言うより、ソ連に対する威嚇行為であるからです。
当時の広島市でも、うすうすそれが分かっていたようです。現在、秘密解除になった資料が次々と出てきて、それが証明されつつあります。
峠三吉は、原爆投下の目的に気づき、言論統制が解除されるのを待ってあの詩集を発行したのです。
ここまで分かったところで、一番最初の詩をもう一度読んでみましょう。
「原爆は、日本に平和をもたらしたのではない。冷たい戦争の始まりに利用されただけだ。」という認識があると、最後の「へいわをかえせ」という部分の解釈が違ってきます。
「人類に対する犯罪」という表題の意味を、お分かりいただけましたか。
<資料>
○核保有国は自国民も被爆者にする
原爆の被害は、広島、長崎、第5福竜丸だけにあったのではありません。ビキニのアメリカの核実験場付近の住民も、被爆しているのです。また、アメリカのネバダの実験場で1950年に始まった核戦争演習では、20万、30万人の被爆兵を生み出しました。アトミックソルジャーと言われています。さらに、原爆を作る原子炉付近の住民も、被爆しています。アメリカ政府は、アメリカ国民までも犠牲にして、核開発にあたっていたのです。
旧ソ連でも、核実験で出た死の灰で一般住民が被爆しました。また、ウラルの核爆発事故では、東京23区を上回る面積が、動植物の生きていられない廃虚となりました。核を持てば、アメリカでなくても自国民に甚大な被害を与えるのです。
中国では、1969年に原爆工場で事故がありました。その深刻な核汚染の状況は、15年もたってから公表されました。アメリカに限らず、核に関する秘密の壁は厚いのです。
○核実験の問題点
核実験がなぜ問題になるかというと、放射性廃棄物がまき散らかされるからです。「すべての人類に、微量ながら核に汚染された物質が入っている。」という学者もいます。これは、地下核実験でも同じことです。地下でやっても出るものは出るのです。
現在、アメリカとロシアは合計2000回程度の核実験をやってきていますから、もう実験をしないでもコンピューターでシュミレーションをするだけで新たな核開発ができます。フランスが核実験を再開する理由として、「この核実験をやれば、もう核実験をしないで済むようになる。」という意味は、コンピューターで新たな核開発ができるようになるということです。核兵器を廃絶するということではありません。
<参考文献>
○『理科教室』1995年11月増刊号(1400円。) この本に村瀬さんの講演記録が載っています。よってこれが一番詳しい文献になります。
○「平和学習ヒロシマノート」編集委員会編『平和学習ヒロシマノート』
(平和文化社)1991年 (515円)
○ヒロシマ教育研究所編・発行「わたしたちのひろしまへ」←パンフレット
〒732 広島市東区光町2-9-15 広島教育研究所 (送料負担)
○『1995年8月 科学教育研究協議会 第42回全国研究大会 広島大会要項』(非売品)
○那須正幹/西村繁男『絵で読む広島の原爆』(福音館) (よく分かる絵 本で、大人から子どもまでを対象としている。2500円)