翌昭和45年(1970)1月、新年宴会と恒例の大相撲初場所の納会の席上で、私は林道調査100本達成記念として、会社社長より記念の盾を戴き、人生最大の名誉に輝きました。
今後も永く続くであろう山賊生活に一生懸命会社の為に尽くすことを硬く心に誓った日でした。
 想えば色々な事がありました。
ある時、湯の岱の善棚左股林道でのテント生活で、坂本氏や小泉氏が川の小魚を手掴みするのに追いかけ廻し、やれヒラメだのサンマだのと、服の袖を濡らして追いかけ、大笑いした事もあった。こんな山奥の川にそんな魚がいる訳がない。
又、この林道で私の連絡用のバイクのガソリンが無くなり、坂本氏に給油をお願いしたところ、間違えて石油を給油され、ガソリンタンクを洗浄するのに大金を払った覚えがあります。
雨不足の年は沢水も枯れて少なくなる為、ポール等で川魚を徹底的に追い込むと魚も疲れ切って、最後には川岸から地上へと飛び上がります。そこを手で掴む。
脇谷氏と行った神明の沢林道では一日の作業が終わっての帰り道、必ず行き帰り沢中を歩く為、結構の量の川魚が毎日手掴みで取れます。旅館泊まりであったので、夕食のおかずに焼いてもらい、味わって食べたものです。主にヤマベかイワナ類でした。「急に食べたくなった。」
又、テント生活でテレビが見たくてテレビを山へと持ち込んだこともありました。
発電機で電気を起こし、クモの巣アンテナを針金で作り、カラ松のてっぺんに取り付け、NHKの連続物で高橋英樹の時代劇「鞍馬天狗」を見ようと試みたが山奥の為テレビ電波のキャッチが出来ず全く写らず、大失敗に終わった。必死になっての失敗だけに小泉氏と大笑いしました。
 
 昭和45年、この頃から地方現場の出張は函館市内を除く近郊の町村(大野町,上磯町,森町,南茅部町,鹿部町,戸井町,木古内町等)も全て宿泊しての作業となった。
大野町の種田旅館へ泊まった時など七飯町の我が家の屋根がはっきりと見えたものです。やがて、旅館や一般の民家へ宿泊する時代となったが、又ここで悩みの種が増えた。
今度は、土現や開建,函館市の仕事が多くなり、会社がこれらの為に人手不足となり山へ向かう社員が居なくなった事です。
従って林道の入札があると私はすぐ現地へ向かい、泊まる宿探しと人手探しを地元で行ないました。
旅館であれば部屋の「空き」があれば、すぐ決まるのですが、一般の民家になるとなかなか難しく、農家等は家が広いので、寝るのは良いが三度の食事が忙しく出来ない家が多く難題がたくさんありました。
人手「人夫」を探すのも同じで、しかも山奥での仕事となるとこれがまた難しい。
街のデパート等では人間の洪水ですが、いざ探すとなると居そうで居ないのが人間だ。
折角見つけて雇っても、わずか一日出て、あとは来ない人も沢山居ます。これでは困ります。
山の中での仕事ですので、女性では無理です。従って賃金を多少弾んで待遇を良くしてでも探し出して、しかも上手に使う事よりありません。
それでも地元で探せない時は、やむなく函館市内から地方へ出て宿泊の可能な人を見つけ出す事にしたのですが、怪しげな「変なおじさん」達を従えての仕事で全くの素人なので、チンプンカン。手を取り足を取り説明しての不能率な事。
10日間で終わる予定の外業も20日以上もかかり、しかもあと味が悪くスッキリとしない。
平均に高齢者が多く、熊対策や怪我の心配もありました。このような事がその後毎回ありました。

 そんなある時、森町の鳥崎川林道(現在の道道霞台森停車場線)の調査で森営署の土木作業員宿舎が山奥にあり、我々山賊共もお世話になる事にしました。
仕事も順調に進んだある夜、若者3人が車で森町の市街地へ買い物に出向いた。しかし、深夜遅くなっても戻らず、心配しながら寝て居ました。
やがて、車のエンジン音が聞こえるはずがシーン・・・静かに部屋の戸が開き、3人が部屋へと入って私の枕元に正座した。とその時、坂本氏が「瀬戸さん、俺髪を切って坊主になる」と言うのである。
話によると、この宿舎から100m位手前に、毎回何度も車の落ちるS字型の悪い魔のカーブがある。そのS字カーブを車が曲がり切れずに直行し、横転。そして数回転して法下へ転落したのだった。幸い3人共全くの無傷で無事でした。

 翌朝、営林署土木の主任さんにお願いして、ダンプカーで車を引き揚げて戴いた。
車は、屋根は潰れドアはへこんでガラスは壊れ、哀れな姿であった。しかし、走れる状態であった。
但し問題はこれから、当時の社長にこの出来事をいかに話すかが一番の悩みであった。
結局、その日の朝、何とか電話で深く陳謝をして、私のミスで事故った事にして何となく決着がつきましたが、その日の内に修理に出す為、函館まで走ったが、フロントガラスはなくホコリが入り、ウインカーも付かず、前輪はフエンダーにぶつかりハンドルが切れず、やっとの思いで函館まで帰りました。

 この頃、当社にもフットボールチームを結成し、開発建設部と新川球場や赤川の水源地広場で長靴や地下足袋スタイルで親睦試合をした事もありました。
 新入社員の山での「体験テスト」は、相変わらず続いていた。山でのテント生活

をしたお陰で人工衛星も何度となく見ることが出来ました。

 昭和46年(1971)6月東亞国内航空YS11型機「ばんだい号」が七飯町横津岳に激突し、乗員乗客68人全員が死亡しました。
 林道調査も各営林署の実施計画の関係で流れがあり、東瀬棚管轄から今金,八雲,森,函館,木古内,桧山,江差,乙部と年度によって分けられ、この年代には木古内営林署管轄が圧倒的に多い発注年代であった。
木古内は何と言っても八雲の次に雨の多い地区で、他の地区に比べ外業日数も倍近くかかる。特に千軒地区などは雨の本場だ。これには弱りました。
木古内は柴崎旅館、知内・千軒は竹内旅館と、これまで27本の調査を手掛けてきました。又、巷では戸井町汐首地区の旧国道の不用物件調査もあり、多忙な連日でした。

 昭和47(1972)初春冬季オリンピック札幌大会が開催され、ウインタースポーツの世界の強豪達が北海道札幌に集まり、連日、各種目に熱の入った競技を見せつけてくれました。
社内ではこの頃、社員の一部で麻雀が大流行し、夕方退社後、会社のすぐ裏にあった雀荘へすっ飛んで行ったものです。
お昼休みには花札や囲碁,将棋等も盛んで、時間の超過で何度か社長に注意されてた事もありました。
 当社の車の台数も6台から7台と増え、各車が毎日忙しく地方へと走り廻っていました。社員数も20人位になり、大世帯となった。
仕事の方も函館空港線の用地調査や今金町の旭台今金線の用地調査や木古内町役場の町道の実測線と次から次へと数の多い仕事量の豊富な年代でもありました。

 テント生活も少なくなったある時、江差営林署の椴川林道調査で江差町のある旅館に宿泊中のことである。
この年の夏も猛暑続きで、伐開中大量のダニが異常発生し、衣服が真っ赤になる程取り付かれ、取っても取っても取り尽くすのが困難な位の大群であった。
ある日の事、宿に帰り、すぐ風呂へと向かった。先客が一人湯舟に漬かって居た。
脱衣所で我々山賊共も裸になり、衣類に沢山ついているダニを取り集め先客の脱いだ丹前等に付着し、おもむろに「お邪魔します」と中へと入った。
すると、なんと見るからに立派な一見セールスマン風の紳士であった。
大変な事をしたと思ったが、時すでに遅し。申し訳ない事をした。
その後、この紳士はダニに取り付かれ、大変な目にあったであろう。測り虫も一生の不覚で、しばし途方に暮れた大失敗談であった。

 そして昭和48年9月、知内町小谷石では 集中豪雨による山津波での大災害が起き、何人かの地元住民の方が土砂の下敷きや家ごと海へ押し流されて亡くなりました。
我々も土現知内事業所からの依頼で災害調査の為、急遽出動する事となった。
車のフロントガラスに「災害調査隊」のステッカーを張り、パトカーの先導で土砂に埋もれた現地へと毎日向かいました。
現場は亡くなられた方々への花束や線香の煙が漂う中、数え切れない程の測量業者が必死の調査を続けていました。
もちろん我々も必死でした。山津波ですので、泥んこ状態で腰まで泥に漬かる場所も時にはあり、大変な作業でした。

 色々な事があり、多忙な毎日を送っている内に昭和40年代も終わり、昭和50年代へと突入したのである。

 

第6話へ続く→