そんな昭和50年(1975)秋、現在の社長、小林雄次氏の御婚礼を前に一部の社員が挙式当日の余興の練習を昼休みなどを利用して倉庫の中で開始した。
渡辺氏をリーダーとした音痴バンドグループを結成したのである。
グループ名も『ザ・ドボクターズ』と名付け、これ又怪しげな楽器の代用品を鳴らして一生懸命練習に励んだのですが、この特訓どうも個人的にスムーズにいかず、その後なにやらムニャムニャ……。
 さて、結婚式当日(寒い日)私もこの晴の挙式に花嫁さんの実家、静内町からの出席者を乗せた送迎バスを式場まで誘導する役を頼まれ、市内万代町「ガス会社前」からホテル・ロイヤル迄の道のりを無事に誘導し、お客様を御案内する重要な任務を勤めた事を今も忘れず覚えています。
 挙式は盛大で、しかも立派でした。しかし、問題の『ザ・ドボクターズ』が晴の本番での出演はどうしたかは、はっきりとした覚えがありません。

 結婚後、度々山賊共と山へと御足労願ったもので、同じ沢の水を飲み測り虫の仲間入りをした。
体力抜群で他の人には負けない馬力の持ち主であったが……しかし、我々山賊が5分間位で歩く山の斜面を、なんと15分近くもかかり、汗だくで到達するという半馬力のプロであった。
しかもこのプロにも問題があった。入山すると決まって必ずと言ってよい程、起きる出来事があった。
それは、虫に刺されたり、草やウルシ等に負け、顔や体や腕が腫れ上がって重傷患者に変身するのには、毎回の事ながら参りました。非常にお気の毒な事でした。今では平和なお顔で居りますが……。当時を思うと今は只感謝の気持ちで一杯です。

 昭和51年頃からは、開発建設部や土木現業所,市役所等の発注が多くなり、林道調査も山へ入る社員が縮小され、ついには二人で乗り込み、他は地元で人夫を雇っての作業が多くなり、熊石町関内林道なども手元が無く最後まで大内氏と二人で制覇しました。
選点伐開が終われば測るのは二人でも上手に行なうと結構能率的には大差がありません。
ただ、数百本の測量杭を毎日背負って運ぶのが、辛かった。その後も脇谷氏と二人で何本もの林道を制覇したものです。
やらねばならぬ、やれば出来る……。

 昭和51年9月ソ連軍のミグ25戦闘機が函館空港へ緊急着陸した。
この頃には社員数も多く、一階の事務所が狭くなり、二階も事務所に使用する事になりました。
私はこの時から現在の新社屋が新築になるまで10年位は二階で仕事をしました。部屋は畳の敷いた和室が二部屋で多い時には5人位も席を共にしたものです。

 昭和52年春、上磯町茂辺地の戸田の沢林道で、またも集中豪雨で山崩れが発生し、測量センターが川へと押し出され全線再測で全く最初から測量の仕直しとなり、これも永い日数がかかりました。又、この戸田の沢と向かい側にある湯の沢附近は今も最高の熊の巣となっている処である。

 昭和53年、この年から奥尻島へ渡り始めました。
山賊共も山また山で多忙となり、下界の仕事が余り出来ず冬期間だけのお手伝いが多かった。しかも、桧山営林署管内が最も多く、古佐内林道や雪崩の沢,金子の沢,沼の沢その他34本を次々と他年度に渡り攻撃をして廻り、以後五年間位は春から秋遅くまでやや一年中、厚沢部町館町に住み着いていたものです。
この年には、わが長男を学校の夏休み中、同じ厚沢部町の稲倉石林道へアルバイトに連れ出しました。
測り虫親子が山の中で蚊やアブに刺され、泥だらけになって働きました。息子も良い体験になったものと思います。

 開発(港湾)より、椴法華港の一級水準測量を頼まれ、これは私が初めての体験でしたので、すごい緊張感でしたが、無事完了致しました。
 又、冬は寒い松前町市街地の旧国道の区域調査や福島町千軒地区や知内町上雷地区の不用物件調査等で、しのぎ削る忙しさであった。

 

昭和55年、上磯町茂辺地のカノコ沢林道では、全くの熊の巣で、今はなき青函連絡船の汽笛や上磯のセメント工場のサイレンが聞こえる場所なのに、熊共は日中は林の中で寝て居て、夜になると活動を開始する。
毎日、作業終了後、三脚やテープを現地に置き帰ります。翌日、現地へ着くと、三脚もテープもポール等も、その置いた場所には無い。
人間の臭いのする道具で夜中に遊んでいるのでしょう。三脚は倒され、テープは遙か彼方へと引き延ばされ、困ったイタズラものでした。

 翌昭和56年夏、厚沢部町・田倉の沢林道も熊の本場であった。
仕事の都合で昼飯が少し遅くなり、送電線の下で食事中、目の前の笹が風も無いのにガサガサと動き何やら巨大な物体の動きを発見。もしかしてと思った瞬間、わずか10m以内の処に突然熊が現れたのだ。
ビックリして斉藤さんの父さんと二人で大声で叫んだ為、熊は山奥へと逃げ込みました。多分、弁当の匂いを嗅ぎ付けて現れたのでしょう。その後も数日間、ガサガサと音が聞こえていました。
 又、この現場は非常にクワガタも多く一日に30匹位も取りました。ダニも多い山で20mも歩くと腕やズボンが真っ赤になる程でした。

 昭和58年5月26日、日本海中部沖地震が発生、この地震による津波が奥尻島へ押し寄せ、青苗地区が多大な被害の痛手を受け、当社も社員5名ほど現地へ緊急出動し、土現奥尻事業所で缶詰状態となり、昼は災害調査、夜は徹夜で図面作成と必死で行われました。
この時、生まれて初めて余震による津波を高台に避難してしみじみ観測いたしました。ちょっと恐ろしい気持ちでした。
そして、この年の6月10日、前社長が法務大臣より名誉ある表彰をお受けになった年でもありました。

 そして、この年の夏、長万部町双葉の大峯双葉線の雪崩防止工事の用地測量があり、現社長と二人で日本の名湯ラジウム温泉で共にしました。
天候が悪く、晴れる日が少ない湿った日が続き、おまけに現場は急傾斜と標高があり、伐開や基準点で能率が上がらず、高校生のアルバイトを上手に使用して、二人で難航をしました。
温泉に漬かり、夜には宿の前にキタキツネが出現して、カランカランと鐘が鳴ると食事をする。
何の楽しみも無い温泉泊まりの山賊暮らし、そしてここでも社長様ウルシに負けて大変身。長万部町の病院へ緊急発進した事もあり、バインダーで顔を隠しての御来館であった。

 そんなある日の夜、会社より電話があり、社長のお子様が舌を噛み切ったとのこと。これは一大事と深夜、長万部の山奥から函館まで、これまた緊急発進。おんぼろトラックでよくぞ走ったものです。幸い大事に至らずでホッと安心致しました。
 そして、開建の函館新道の用地調査が市内昭和町ホテルオークランド前から桔梗駅前通り上まで行われ、数々の問題が多く難航し、永い日数をかけた測量でした。又、土現の土台高調査等も発生したころであった。又、土現管内道道の交通量調査なる珍種も初めてお目見えしたころで、全く初めての仕事なので要領がつかめず、ただ大騒ぎするばかり。
大量の人材の確保や道具等、作業内容や手順すら分からず、どうするこうするとワイワイ騒ぐだけ。苦労しました。
 結局、いざ本番になり所定の場所で観測を開始すると、さほど当初思っていたより恐ろしいものではなかった。現在では何とかこの仕事も板に付いたようです。

 翌昭和59年、これまで約29年間に渡り続いてきた林道調査も最後の一本を残すのみとなりました。
最終は、桧山営林署管内の厚沢部町の帰来別林道であった。現社長の御足労を願っての最後の山となった。
林野庁の仕事が急に減少したのも林道網を山の奥へ奥へと延ばし過ぎて天然林を容赦なく切りまくり裸山とし、製材にした製品は外国産のラワン材等には及ばず、また裸山に新たに植林をしても人工林が成長するまで30年から60年かかると言う夢のような年月がかかる。
その間、人間による手入れや維持管理の手間数を考えると気が遠くなります。従って詳しい内容は分かりませんが、何等かの行詰を生じた姿となった。

 永い永い山賊生活にも、ついに終止符を打つ時がやって来ました。
山賊連合もこれにて解散を余儀なくされたのだ。
従って、その後二度と大自然の山はお頭を呼んではくれないだろう。
想えば苦しかった事、楽しかった事、色々山ほどありました。
片道にして約380qを越す距離をよくこの二本の足で歩きました。
体に歩行距離計や万歩計でも付けていたなら、物凄い距離や歩数であったでしょう。
今になれば、みんな懐かしい想い出ばかりです。
山奥のきれいな空気と水に馴染んだ測り虫には下界での生活はどうなのか。山が呼んでるぜ。しかし、永久に呼ばないだろう。最高に寂しさを感じます。
子供の時から大自然や草花,樹木が大好きで暇さえあれば野や山へと夏も冬も歩き回るのが何よりの楽しみであり、趣味であった。
山菜採り,キノコ採り,山ブドウ・コクワ採りと色々な楽しみが消えた。大自然の山よ、さようなら…。

 昭和59年秋、土木現業所の発注で管内の道道の道路台帳図作成業務が3年計画でスタートした。
初年度は大沼公園線を始め、大沼公園鹿部線,函館南茅部線,他で各路線附近の三角点に登り、対空標識を設置。
基準点標定点の設置等と全く初めてで不慣れな作業に目眩がするばかり。
総延長数百粁にも及ぶ道道を一路線毎にあらゆる資料を基に図面と調書にまとめて仕上げる作業である。
外業もまた大変で標定点が設置終わると飛行機による上空から写真撮影が行われ、これにより図化されて図面の作成が始まる。
地上では基準点測量を行ない、航空写真を基に各路線の縦断を行ない、また写真にない信号機や道路標識,作工物等は現地調査により調査する。すべて、これは徒歩である。何十粁あろうが!
 縦断測量も長距離路線が多いだけにやりがいがあった。
縦断、最初のコースは大沼公園線で寒風の中15.0粁の冬の大沼湖畔一周レベルマラソンであった。非常に寒かった。
現調は道路の雪をスコップで取り除いて、巾員や作工物を調べたものです。
続いてのコースは大沼公園鹿部線,国道5号線,西大沼小学校前をスタートして東大沼,鹿部町宮浜を通り、なんと鹿部駅前までの約30.0粁。これも寒風の中、駆け足で制覇。一日平均10.0粁は歩くのだ。

 

最終話へ続く→