昭和60年は中野木古内線からスタートして、次は熊の巣として有名な上磯厚沢部線へと向かった。
この路線では三角点を探すのに難航した。七月でもまだ沢中には残雪があり、上磯側(茂辺地)の魔の不二山,厚沢部側(館町)の消えてなくなる幻の三角点佐助沢と基準点には苦労しました。
縦断測量も42.0粁をこれまた駆け足で行ない、毎日熊の巣の中へと通いました。
その後、奥尻島線へと向かった。ここでも基準点,標定点設置で苦労しました。
縦断測量も島一周が約67.0粁で、初日フェリー乗場をスタートして体力に物を言わせて一気に青苗岬を折り返して、奥尻空港附近まで約18.0粁歩き続け、足の裏に豆が出来、痛みだした。我々、歩きプロでも足が痛いのに、一緒に付き合って歩いて戴いた標尺マンの女性二人組は足が棒になった事でしょう。
翌日、また足の痛みを堪えて、ただひたすら歩き続けるだけであった。
やがて、島の北部に当たる八十八曲がりに達した時は、急カーブと急勾配の為、T.Pの連続で高さは進むが距離が進まずと言った具合で、時間ばかりが進行して気をもむばかり。しかも、連日風に向かってレベルを観る目が次第に赤く充血し、やばくなり、痛みを増してきた。しかし、人間は忍耐力が必要だ。何とか我慢をしてスタートから七日目ころに島一周耐久レースは終わった。
さらに次は現調が残っている。また、島二周目の旅へと立ち上がりスタスタと歩き出したのである。
こんな時、仕事も重なるもので、今度は球浦の実測線調査が発注になり、この仕事も制覇し、十一月には長男の結婚式があり三日ほど我が家にいて、すぐまた島流し。どうやら、この年は一年中島暮らしをした感じであった。

そして昭和61年、台帳図作成業務最後の年、八雲北檜山線から始まり石崎松前線と進行した。
この路線も熊の巣の中を長距離約67.0粁をモクモクと歩き続けました。
その後、湯の里知内停線等で何とか全路線を制覇致しました。よくぞ二本の足で歩いたものだ。
丁度このころ、函測協の運動会が毎年九月十五日(敬老の日)に行なわれ、三年か四年続きました。
仕事で延々と歩いたあとに、今度は真剣に本気で走らねばならぬ。
往復約2.0粁のコースでレベルによる各社対抗水準測量競技やグッピーでの角度,距離をいかに早く正確に行なうかの精度を競い合うものや綱引き,各社対抗リレーと楽しい一日を過ごしたものです。
三年続きの道路台帳図作成業務も何とか一段落して、ホッとしたのも束の間、この年の暮れには新たに道路台帳補正業務が発注になり、改良工事や災害復旧工事等で路線の中で変化した箇所を直す業務で各出張所毎に発注し、現在も尚、毎年行なわれています。
昭和62年、戸井町バイパスの一筆測量があり、二千本以上の杭打ちの嵐であった。
その後、砂原町紋兵衛砂原海岸侵食調査と長万部川(双葉地区)の河川地形測量,厚沢部川河川地形測量と多忙な一年であった。
翌昭和63年(1989)春、昭和天皇が崩御なされ時代は昭和から平成へと年号が移り変わり、新時代の夜明けとなった。この時、現社長は人生一世一代の大事業である社屋の新築工事に乗出した。一日も早い新社屋の落成を心待ちにする毎日であった。
又、上磯町戸切地川の地形調査も同じ年に行なわれた。函館市の市道及び下水道の調査設計業務も本格的に発注になり現在も尚続いています。
 そして、平成2年函測協の函館港祭り協賛の一万人踊りパレードに各社で参加して御神輿を引いて練り歩くと言った行事も始まり、数年間続いたようです。
 又この頃、函館新道(七飯町大中山地区)の用地測量もあり、リンゴ園の中をお邪魔して歩いたのもつい最近の想い出です。

 更に、土現事業課より管内の交通事故(原票)と言う珍種の出現もこの年からで今でも毎年「車社会」のある限り現れる珍種であるが、最初は何が何やらで全く分からず、住宅地図と道路台帳図を拡げ町名,地番とでにらめっこ。
路線と事故発生地点の確認すら大変な苦労で気の遠くなる作業でしたが、現在では若干手慣れてきて、何となくスムーズ?に出来るようになった気がします。
それにしても毎年増え続ける膨大な交通事故の件数には、この調査の度にただ驚くだけです。
 又、同じ事業課から管内の街路の植栽及び道路照明の現況調査と立待岬函館停線(函館山)の縦断測量,市道の土台高等もこの頃行なわれました。

平成3年頃から久根別川河口からの大規模な現況そして縦横測量が数年間に渡り続行され約17粁に及ぶ大測量であった。
そして、奥尻島球浦海岸の地形測量,城丘江差線の交安施設の実測線と一生懸命歩きました。
 平成5年(1993)1月25日、会長(前社長)の逝去。
私共永い年月、我が父親以上に親しんで来たお方で温厚で人の面倒を良く見る人情深い立派な人柄で偉大な方でした。
そしてこの年、現社長が永年の念願が適い、見事土地家屋調査士に合格。万々歳、目出度し目出度し、新社長誕生。
その瞬間パッと社内に光が差して一際目の前が明るくなるのを感じました。
 又、同じこの年7月12日「北海道南西沖地震」が奥尻島を襲った。
死者行方不明者230人にも及ぶ大災害となった。

それにしても最近の数年間では、日本道路公団の北海道縦貫自動車道の用地測量やそれに伴う立木調査や函館空港の拡張工事に伴う各種の測量等、数多くの分野を抱える規模を誇り、目覚ましい当社の飛躍と発展ぶりには全身に感動を覚えます。
そしてここで新世紀を迎え、時代は大きく変化する21世紀へと突入いたしました。
想えばつい数年前まではすべての作業が手作業でありましたが、今では何から何までが近代化され、そして機械化され、当時を想うとまるで夢を見ているようで、ただ驚きと感動で唖然とするばかりです。
昔は子供が大きくなるにつれ手に職を付けなければ役にたたないと言われました。しかし、現代人には昔の職人とは違い肉体的に楽をして飯を食う食人となった。
私は今、50年と言う永い年月を振り返り先を見ると、永いようで過ぎ去って見ると短く感じます。
何事があってもいつも笑顔満開で、もくもくと過ごしてきた事で満足を感じています。
やがて測り虫もあの幼かった幼虫時代から成虫として若者に育ちそして山賊の(お頭)に立候補して山から山へと食い荒らし、山の熊どもにも無視された虫は50年の年月を費やし、今後は山の化け物として残った全体力の続く限り餌を求めて、但ひたすらにヘッコラヘッコラと歩み通し、次は海外いや世界中そして宇宙への道の実測線調査へと向かって前進するのである。

そして測り虫はいつの日か再び公害のない豊かな大地に舞い戻り山賊暮らし出来る日を楽しみに………。

 

終わり