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小川 譲の絵をもらってください。小川 旦
亡父小川 譲の絵が数百点あります。先の大震災で三分の一程は、取り出すことが出来ませんでしたが、残りはほぼ良い状態です。しかし、そのほとんどが箱に詰められたり、押入の中で眠っています。このままでは残念なので、絵が好きで、父の作品が気に入った方に、貰っていただきたいのです。(絵は一枚も売ったことがありません。)
額縁は、廃材を使った父の手作りですが、絵は誰にでも分かる、悪気のない作品が多いと思います。ぜひ一度見に来てください。
ただし、その絵を売ったり、人に譲ったり、捨てたりしないで下さい。不要になれば、お返し下さい。
小川 譲の略歴
1900年(明治33年)広島県呉市生まれ。2男6女の次男。生来体が体が弱く外遊びをあまりせずに育つ。絵は幼い頃から好きで、18歳頃個展をひらいたが、父の知り合いの僧
から「早すぎる。60歳過ぎてから…」といわれ、以後個展をひらいたことはない。
呉海軍工廠の職工だった父が市会議員に出るなどするうち破産。一家は離散。
東京に出て絵の勉強をするが、生活は苦しかった。絵の教師を目指し「油絵」と「用器画(幾何学の一種)」の文部省検定試験(文検)に合格。神戸に出て、林重義の「太平洋画会」に参加し同人展に数回出品。また、六甲小学校の臨時教員を振り出しに、西郷小学校、西灘小学校、野崎高等小学校、市立神戸中学校(今の葺合高校)夜間部で教えた。
神戸中学時代のあだ名はルンペン。校舎に泊まっていた軍隊の流し場に籠をつけて、米粒を集め、粥にしていた。「闇の物は、食べない…」と言っていたが、栄養失調で足がむくみ、45歳で杖をついていた。妻が買ってきた物で死なずにすんだ。
終戦の年(1945年)「軍国主義教育…」でGHQに呼び出され、「もう、自分の時代は終わった…」と退職。
戦時中やめていた絵を再開、加納町の美専堂での絵の会に参加。「昼に絵を描きたい…」とクリーニング店の支配人兼夜警になったが、「一日は24時間である」事を痛感。1960年頃退職。以後絵画三昧の生活を送るが、経済的には妻(とみ)に支えられていた。
絵に倦むと散歩した。六甲山・摩耶山を愛した。1986年没、86歳。
(譲の言葉)
・自分に嘘をつくな、遅刻の言い訳をするな
・人前で、自分だけ、食べ物を食うな
・忙しくしている人を平気で見ていてはいけない
・( )と言ったら槌 使ったものは元に戻せ
・贅沢をしてもよいが、無駄をしてはいけない(捨てられる物が、自分だったら、どう思うか)
・教師は、子どもに、親より良いことをしてやってはいけない
・学校を使って、学校ごっこをするな
・戸の開け閉め「上すらり、中かったりの、下三寸、開けて閉めぬは下々の下の助」
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