根占から佐多岬を訪ねて

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                              2006 12/3

 鹿屋市で一泊したあと笠野原と呼ばれる高原地帯を南へ、古事記に筑紫島とある九州島

の最南端、大隅半島の最南端でもある佐多岬を目指して国道269号線を南へと車で走っ

た。市街地を抜けると左手に海上自衛隊鹿屋航空基地があり、訓練中の飛行機の飛び立つ

姿にであった。ここはかつての帝国海軍鹿屋航空隊のあったところで、鹿屋航空基地史料

館もおかれており、最初の特攻隊がここから出発したのだそうで下記のような記事紹介を

見つけた。

「鹿児島県は大隅半島の中心都市、鹿屋市には、海上自衛隊の航空基地があります。その

歴史は、1936 (昭和 11) 4 月に旧帝國海軍鹿屋航空隊が開設されたことに始まり

ます。

 太平洋戦争末期の 1945 (昭和20) 3 11 日、陸上爆撃機「銀河」24 機が鹿

屋を飛び立ちました。鹿児島・鴨池基地を出撃した誘導役の二式飛行艇と佐多岬上空で会

合した後、彼等が目指したのは、西カロリン諸島のウルシー環礁。停泊する米空母機動部

隊を体当たりにより殲滅する任務が課せられていました。鹿屋からウルシーまで 1,500

 海里 ( 2,900km) 以上、帰投することはもはや物理的に不可能な、前代未聞の長距

離片道攻撃です。

 途中、機材の不調により脱落する機もあり、最終的にウルシーへ到達した銀河は 16

機。出撃時刻を 1 時間遅らされたことと、重装備かつエンジン不調により速度の出ない

二式大艇に頭を抑えられ本来の俊足を活かし切れなかった銀河隊は、敵艦影の判別の極め

て困難な日没後の突入を余儀なくされ、彼等の戦果は、1 機が空母「ランドルフ」の飛

行甲板後部に激突し火災を発生させるにとどまりました。突入を断念した 4 機がヤップ

島に不時着したほかは、12 機もの銀河が未帰還となりました。戦果に対して、あまりに

も大きな犠牲でした。

 これが、鹿屋から出撃した最初の特攻隊「菊水部隊梓特別攻撃隊」です。以降終戦まで、

薩摩半島の陸軍知覧飛行場とともに本土最南端の特攻基地として、1,000 名近い若者達

が沖縄はじめ南方へ出撃し、帰らなかったのです。

 戦後は、米軍の進駐を経て、1953 (昭和 28) 12 月に警備隊鹿屋航空隊が開隊

され、1954 (昭和 29) 7 月の海上自衛隊発足後、米軍から供与された小型機によ

り本格的に飛行訓練を開始しました。ここに鹿屋航空隊は、海自航空部隊の発祥の地とな

ったのです。」

 なお、向かう旧大根占、根占町は平成の大合併により錦江町、南大隅町と分かれてしま

っている。和名抄によると大隅郡禰覆郷がこれに相当するが禰覆郷は禰寝郷の誤りであろ

うと平田信先生は言われている。中世の禰寝院、大根占、根占を合わせた地域であろう

とのことである。ついでに大隅半島、大隅郡の特定できる大隅郷は大隅半島東部の宮崎県

境の志布志湾に比定されるそうである。アイヌ・縄文語の立場から

     大隅半島 オオスミ   oho-su-muy  奥深い鍋底状の入江

 確かに臼状の円周のの半分の形状の志布志湾岸の奥にある志布志からみると上記の地名

に相応しいが、姶良カルデラである錦江湾もこの地名特徴により相応しく、どこから見て

「奥深い」のかの見方になってくる。

 一方、根占地方を根拠とする戦国武将、禰寝氏の活躍も目覚ましく、明治維新の功労者、

島津氏の家老であった小松帯刀はこの氏族の末裔だそうである。

 禰寝氏の出自は建部姓と藤原姓に分かれるそうである。建部姓の場合、小松殿と呼ばれ

た平重盛を祖とし、鎌倉幕府も北条時政の頃、子孫の平清重がこの地に落ち延び生存を許

されたという。清重は禰寝姓を名乗ったが建部清房の女をめとってから建部姓を名乗った

そうであるが、都合の悪い資料もありはっきりしたものではないようである。「大隅国図

田帳」には禰寝院40町を建部清重に、佐多10町を一族の高清に、また、藤原頼光の譲状

には禰寝院北俣は藤原頼経に曽野郷は一族の頼利に、禰寝院南俣は頼貞になどもあるそう

であるが、南北朝時代になると藤原姓禰寝氏は建部姓禰寝氏の家来であったのだそうであ

る。藤原姓禰寝氏は富山氏で、島津荘庄官で日向から来てこの地を治めていたのだそうで

ある。なお、中世の禰寝氏は一時は種子島を攻略し、また大隅半島と海を隔てて対峙する

薩摩半島の揖宿を攻めるなど、肝属氏と組んだこともあり島津義久の和睦に最終的に応じ

てからは家臣として仕え、薩摩国吉利に転封されたが、後祖先の平重盛にちなみ、24代

清香の時小松姓を名乗り、幕末まで続いた名家の一つであろう。

          図 1.鹿児島県南大隅町の旧根占町の中心部の拡大地形図

 


 なお、禰寝/根占の地名は下記のようなものではないだろうか。

     根占   ネジメ   nay-si-muy/moy 川の大きな入江

 縄文海進期には海が大きく入り込んでおり、当時の特異な地名を言っているのであろう

か。音韻変化として二重母音は短母音に変わりやすい。特に鹿児島弁はその傾向が強く、

その例の一つとして「コケケ」と一般的に使っていたが、日本語では分からないであろう。

「ここへ(え)来い」のことであって双方をローマ字で表すと音韻変化がよく分かる。

     kokeke       kokoekoi  (eoe)(eoi)

 なお、 nay(=nai) ne    muy(=mui) me   moy(=moi) me   である。

 旧大根占町の方も神(コウ)ノ川があり、同様の地形である。

 上記地形図において気になる地名は下記のようである。

     今市   イメチ   i-ma-i-ot-i   獲物が群在する所

  音韻的にはこれも imaichi  imechi  で、二重母音の単子音化の例である。

i-ma:獲物が群在する i-ot:獲物が群在する と二重に強調した形であろう。

          宮原   ミヤバイ  muy-ya-par  入江の陸岸の(所の)川口

  鹿児島弁では「原」は「バイ」であり、朝鮮語などの「リ」が「イ」となるのと同じよ

うに思える。下記の馬場地名は中世に付けられたものであろうが、それ以前の古い地名を

反映していると仮定したら下記のような地名だったのでは。

          横馬場    ヨコ    i-o-ko     獲物が群生する所/獲物を狙う所

          針馬場    ハリ    ar-i       もう一方の所

     諏訪馬場  スワ    su-wa     鍋底状の岸辺

 その他

     貫見   ヌクン/ミ  nukar-moy   見張る入り込んだ所/

     浦    ウラ    uta(=ura)    砂浜

     雄川   オ     o        川口

 古代人のアニミズムの世界では生き物である川の川口はその女性器、神様の入口の所で

あった。雄川の上流側は旧田代町であり、肝属山地の山裾の尾根間を流れ下る多くの川に

点在する集落は下記の地名に相応しい。

     田代町  タシロ   ta-sir-o    切り立った山の裾

 ひたすら佐多街道と呼ばれた国道269号線を南へ走り、佐多岬を目指した。途中、山

が大きな壁となって海に迫る辺田海岸を通った。

     図 2.鹿児島県肝属郡南大隅町(旧根占町)辺田から南の海岸線カシバード像

 


 大字辺田の国道(黄色の線)に沿って手前が塩屋、中頃は登尾という集落である。

     辺田   ヘタ    he-ta     太地の頭、山が切り立っている

     塩屋   シオヤ   so-ya     岩/岩礁の陸岸

     登尾   ノボリオ  nupri-o    山の裾

 なお、肝属郡、肝属山地など  

          肝属山地 キモツキ  kim-o-tuk-i  山の裾が突き出た所

 であろうと推定したが、アイヌ語ではそびえている山が nupri であり、そびえない

生活の場としての山が kim であり、双方の言葉がここの地名に残っているのではとい

う思いになった。

 国道269号線は旧佐多町伊座敷で終わり、県道68号線をさらに南下して有料道路佐多

岬ロードパークへ入る所に分岐する道があり、かつての国民宿舎佐多岬、佐多岬ふれあい

センター佐多ビーチホテルに立ち寄って、遅い昼食を取った。

     図 3.鹿児島県肝属郡南大隅町馬籠大泊周辺の拡大地形

 


 気になる地名は下記のようである

     佐多町/ サタ    san-ta    前に出た所(すなわち岬)

     馬籠   マゴメ   mam-kom-e 小さなコブの山

     大泊   オオドマリ oho-tomari  奥深い船着き場

 トマリ地名はアイヌ語地名も日本語地名も共通にあり、tomarito-mak-ri:海の奥ま

った高台/船着き場 となったものではと考える。

 そこの食堂からは秋晴れの澄み渡った海の向こう(東南方向)に海上にへばり付いたよ

うな薄っぺらな大きな島がすぐそこに見えたが、種子島とのことであった。縄文時代へ突

入する前の氷河期のある時期には大隅半島と種子島、屋久島などつながって陸地となって

いた時期があった、鈴木 健先生などはかつての屋久半島などと呼ばれていたが、そのこ

とが地名に残っているのではと考えているが、下記のような地名を思い出した。

          屋久島/半島 ヤク   ya-kut    陸岸の首

  大隅半島の佐多岬から種子島、屋久島と細く伸びたかつての半島を呼んだものではと思

っている。このことは字名のヤク地名が屋久島にはなく、種子島にはかつて5箇所もあっ

たと小川亥三郎先生の「南日本の地名」にあり、鹿児島弁ではアイヌ語と同じく kut:

 である。また、種子島、屋久島は熊毛郡である。

     熊毛郡  クマゲ   kuma-ke   横山の所

  横に細長く伸びた山並みを kuma:魚などの乾燥柵 と呼んだ地名であろう。その1

を下図に見てみよう。

     図 4.大分県国東郡国見町の大熊毛、小熊毛の拡大地形図

 


 佐多岬ロードパークも途中までで終点からは徒歩で約20分亜熱帯林の崖地をくだらな

いと岬の先端に付けなかった。そこからは眼前に大パノラマが広がり、眼下に大輪島と周

辺の岩礁に砕ける波しぶきが展開し、遠くに屋久島が見えた。

     図 5.鹿児島県肝属郡南大隅町の佐多岬から見た屋久島のカシバード撮影像

 


 右にみえるのが口永良部島であろう。

 なお、帰りの有料道路券の回収小屋地点で猪の両親とその子供に遭遇し、急遽車を降り

て撮影したが撮影チャンスを逸してしまった。猪の子供には虎のような黄色の縞が走って

いるのを見ることができたが、その子供は草むらに入ってしまった所であった。下記の写

真。有料道路券の回収のおばさんに聞いたらしょっちゅう出てきて人慣れしている猪だと

言うことでした。まるまると太った姿は写真から

     図 6.佐多岬で見た野生の猪の両親と草むらに隠れたその子供

 


 佐多岬の先端の地形図は下記のようである。

    図 7.鹿児島県肝属郡南大隅町の佐多岬の拡大地形図

 

   田尻   タジリ  ta-sir,I     切り立った山/切り立った土地

 

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