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桃太郎と吉備津彦 |
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岡山と言えば何を思い浮かべるであろうか。初めて岡山市を訪れた人の目に飛び込んでくるのは、やはり「桃太郎」であろう。
JRの駅構内には猿、雉、犬を従え、彼方にある「鬼ヶ島」を目指していると思われる桃太郎の像が据えられているし、駅前の大通りは「桃太郎大通り」と云い、後楽園の南隅には「水辺のモモちゃん」が楽しそうに桃を掲げている。街中に巨大な桃や雉などのモニュメントが飾られており、岡山電鉄の洒落た電車の愛称は「MOMO」で、視線を道路に向けてもマンホールの蓋が桃太郎である。第一、岡山県?のユルキャラは「モモッチ」という桃太郎そのものをモティーフにしていると思われるのである。 桃太郎の伝承は日本各地にある。瀬戸内海をはさんだ香川県も「鬼=海賊」などと絡ませた桃太郎伝承の有力地であるし、そのほかにも日本各地に無数に散らばっていると言っても過言ではない。 しかし、岡山を「桃太郎伝承」の最有力地にしているのは、岡山県の名産の「桃」や「黍(吉備)団子」のほかにも最も有力な理由が存在する。それは「吉備津彦(きびつひこ)命」が桃太郎のモデルとされていることである。 吉備津彦(別名「彦五十狭彦命(ひこいさせりひこのみこと)」)は第7代「孝霊(こうれい)天皇」の子で、第 10代「崇神(すじん)天皇」の御代に四道将軍の一人として吉備方面の制圧に派遣されたことになっている。このため孝霊天皇の宮が営まれた「奈良県田原本町黒田」が「桃太郎伝説発祥の地」と言うことになっているのだが、偶然、私はこの一月に岡山に赴任する直前そこを訪れたのである。田原本町と言えば、有名な弥生時代の遺跡である「唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡」の復元「楼閣」で有名な地でもある。なお、奈良県桜井市の有名な「箸墓(はしはか)」に葬られ、卑弥呼のことではないかといわれる「倭迹々日百襲比賣(やまとととひももそひめ)命」は吉備津彦の姉とされている。 水辺のモモちゃん 今回、岡山県のいたるところにある「桃太郎=吉備津彦」伝承を求め、吉備路を中心とした地域を巡ってみた。 桃太郎伝説については良く知られていると思うので、ここで吉備津彦伝承について「岡山県産業労働部観光物産課」のHPから参照しておきたい。 「桃から生まれた桃太郎が鬼を退治する物語。誰もが知っている昔話のもとになったといわれる伝説が総社市を中心とした吉備路一帯で今も語り継がれています。その名も温羅(うら)伝説。「その昔、異国からやってきた温羅という名の王子が吉備国で悪事をはたらき、人々に恐れられていた。そこで温羅を退治するよう大和朝廷から送り込まれたのが 武勇に優れた吉備津彦命。吉備路を舞台に双方が熱い戦いを繰り広げる」というストーリー。つまり温羅が鬼、吉備津彦命が桃太郎で す。・・・・さて伝説では鬼ノ城(きのじょう)から岩を投げる温羅に対抗し、吉備津彦命は現在の吉備津神社がある場所から矢を放ちます。その際、境内にある矢置岩に矢を置いたと伝えられています。吉備津彦命を祀るこの神社、実はクライマックスの舞台なのです。合戦に負け、退治された温羅の首はこの境内に埋められました。場所は本殿から長い回廊を渡ったところにある御釜殿(おかまでん)に据えられた大釜の下。葬られた後も13年間、首は唸り続けていたといいます。・・・・・ 温羅と吉備津彦命がそれぞれ陣取った鬼ノ城と吉備津神社。このほかにも吉備路には伝説ゆかりの場所が多数あります。例えば鬼ノ城と吉備津神社のちょうど中間に位置する矢喰宮(やぐいのみや)。双方の力が互角だったため、温羅が投げた岩と吉備津彦命の矢がぶつかって落ちた場所といわれています。結局、吉備津彦命が一度に2本の矢を放ったのが勝利の決め手となるのですが、その際、射抜かれた温羅の左から流れた血で真っ赤に染まったといわれているのが血吸川(ちすいがわ)。慌てた温羅が雉に姿を変えて山中に隠れると、吉備津彦命は鷹になって追跡。最後は鯉になって血吸川に逃げ込んだ温羅を鵜になった吉備津彦命が捕まえて決着がつくのですが、その決着の地として伝わる場所に鯉喰神社があります。」 |
「笹ヶ瀬(ささがせ)川」 |
| 最近購入したスポーツタイプの電動アシストつき自転車で08時出発。約30分で岡山市街を抜け「笹ヶ瀬川」の堤に到着した。この5月に、ママチャリでこのあたりを訪れたときは1時間ほどかかったので、さすがは電動自転車の威力である。この笹ヶ瀬川は現在盛んに河川改修工事が進められているようだが、まだ全体的には自然が残っている。 この川は、今回の桃太郎伝承探訪の冒頭を飾るには最もふさわしい。なぜならば、「おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に・・・そのとき川上から大きな桃がドンブラコ・・と流れてきた」ことになっているからである。 |
「吉備津彦神社」
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| 次は「吉備津彦神社」に参拝。これで3回目の訪問になるのだが、いつもながらの神前結婚式に臨む幸せそうな人たちの顔があった。 ところで、岡山に来て最初に不思議と思ったのは、吉備津彦神社の1.5kmほどに「吉備津神社」という、同じく吉備津彦を祀った神社が存在することである。両神社は「吉備中山」という標高170mほどの山塊の北東部と北西部のふもとに鎮座している。古代「吉備国」は大化改新後の「律令制」により「備前(現兵庫県西部を含む)」「備中」「備後(現広島県東部)」「美作」に分かれたのだが、この吉備中山が備前と備中の境になっているのである。元の「吉備国一宮」といえば「吉備津神社(現在の備中国一宮)」なのだが、吉備の国が分割された後、備前、備中、備後それぞれに吉備津彦を祀り、吉備津彦神社は「備前国一宮」となっているのである。 社伝によれば「当神社は古代より背後の吉備の中山に巨大な天津磐座(神を祭る石)磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。第10代崇神天皇の御世に四道将軍として遣わされた大吉備津彦命もこの山に祈り吉備の国を平定し、現人神として崇められました。諸民と国を深く愛し、永住された吉備中山の麓の屋敷跡に社殿が建てられたのが当神社のはじまりとなります。後に佛教が入り正宮、本宮、摂末社合わせて51社を具え神宮寺や法華堂も建ちいよいよ御神威は広大無辺に広がり古代気比大神宮・大社吉備津宮とも称され朝廷直属の一品一宮、吉備大明神として武将庶民に至るまで厚く崇敬されてきました。皆様の平穏無事と弥栄を二千年に渡って見守り続けてきた神域は神オワス杜、鎮守のやすらぎの杜として今なお皆様の祈りとともに守り継がれています。夏至の日出には太陽が正面鳥居の真正面から昇り神殿の御鏡に入ることから「朝日の宮」とも称されてきました。この事は古代太陽信仰の原点、太陽を神と仰ぎ日本民族と人類の豊穣発展と幸運を祈る神社として吉備津彦神社が創建されたことを象徴しています。」とのことである。 このことから、吉備津彦神社とは単に吉備津彦を祀ったところと云うことではなく、奈良県桜井市の「大神(おおみわ)神社」と同様な古代日本の自然(太陽神)信仰の源流であると推測される。 |
本殿 神杉 |
「足守(あしもり)川」「鯉喰神社(こいくいじんじゃ)」
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| 川から少し西に入った小集落の中に「鯉喰神社」がひっそりとあった。くぐり門は最近改修されたものらしく真新しい。門から社殿までは5mほどの上り坂になっており、 また、ここの狛犬(獅子)は吉備津彦神社と同じく立派な備前焼である。 祭神は吉備津彦命の臣下である「楽々森彦(ささもりひこ)」と温羅で、「仁徳天皇」が吉備津神社の末社の一つとして創建したと伝えられる。 |
吉備津神社参道を左手に見ながら 鯉喰神社境内 |
「楯築遺跡(たてつきいせき)・王墓の丘史跡公園」
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| 鯉喰神社から足守川西岸を5分程南下し、西の丘に入り込んだ所に「楯築遺跡(たてつきいせき)」がある。例によって方向音痴の 私は足守川の土手を1kmほど行き過ぎてしまい、途中で中学の男子生徒に道を聞いて何とか到着した。 これは、弥生時代後期(2世紀後半〜3世紀前半)の双方中円墳とされ、古くは「片岡山古墳」と呼ばれていたそうである。 同時期の墳丘墓としては全国的にも最大級のものとのこと。 昭和51年〜昭和61年に、岡山大学文 コンクリート製の建物は盾築神社であり、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる表面に弧旋文様が刻まれた石が安置されている。 また、この丘全体が「王墓の丘史跡公園」として整備されており、いまは墳丘の形をとどめていないが、6世紀後半の物と思われる横穴式石室を持った、多くの古墳が存在している。 なお、この楯築遺跡も吉備津彦命が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をした所と伝わっているのである。 |
鯉喰神社近くの道しるべ 古墳の表記はあるが 盾築神社 |
「吉備津神社」
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| そこから東南東に10分程で「吉備津神社」に到着した。この神社はこれで3度目の訪問になるのだが、ようやく改修が終わった国宝本殿の姿がまぶしい。 社伝によると「当社は大吉備津彦命を主神とし、その異母弟の若日子建吉備津日子命と、その子吉備武彦命(キビタケヒコノミコト)等、一族の神々を合わせ祀っております。大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子にあたられ、もとのお名前を五十狭芹彦命(イサセリヒコミコト)と申し上げ、武勇の誉れ高いお方であられます。 一説によりますと、第十代崇神天皇の御代、災害もなくなり天下もようやく治まってまいり 吉備津彦命と異母弟若日子建吉備津彦命は兵を率いて山陽道を進軍し、まず播磨国に達してここを「吉備の道口」と定められ加古川の畔で神祭を行っております。 その場所と思われるところに日岡神社が現存し天伊佐々比古命がお祀りされています。 こうして命は吉備国に入り、人々を苦しめ鬼と恐れられていた温羅一族を苦戦の末退治することができ、この地方に平和と秩序をもたらしたと云われております。・・・ その後の命の事績は定かではありませんが、言い伝えによりますと吉備の中山の麓に茅葺宮を作って住み吉備国の統治にあたられ二百八十一歳の長寿をもってお亡くなりになられたといいます。お墓は吉備中山の頂の茶臼山に葬られたと伝わっております。」とのこと。 |
長い回廊 本殿正面 |
「中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやまこふん)」
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| さて、次に吉備津彦の墓「中山茶臼山古墳」を参拝して終りである。 古墳は吉備津彦・吉備津両神社がある標高170mほどの「吉備中山」山上にあり、中々の難所である。 吉備津神社の南口横にある上り口に行ってみると、「工事で全面通行禁止」の表示があり、警備の男性が立っている。彼に聞くと「重機が入っているので、そこまでいけるかどうかわからない」とのこと。 「まあ、とにかく行ってみることにします」と一言断って、約1kmのきつい上りの舗装道路を自転車で上る。普通の自転車なら断念するところだが、電動アシストの威力は絶大で、なんとか陵の前まで到着した。道路改修工事はその先で行っているのである。 陵までは急な直線の登りの石段である。私は以前訪れた奈良県の室生寺奥の院の急坂を思い出しながら、あえぎあえぎ何とか陵の前に到着した。 古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の前方後円墳で墳長約120 m、後円部径約80m、後円部高約12m、前方部長40mである。 今回の目的「桃太郎伝説」は一応これで完結したが、陵のすぐ近くに「古代吉備文化財センター」がある。工事中の脇を通してもらいセンターを見学。 ここは「埋蔵文化財の保護・保存を図るための本県の拠点施設であります。私たちは発掘調査をはじめ、出土品等の収蔵管理や活用を図り、埋蔵文化財に対する県民の理解と保護意識の向上並びに本県の文化振興に努めていきます。」とのこと。 |
陵への長い坂 センター展示物 |
「帰途に」 |
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吉備中山を今度は反対側(東)に下る。「黒住教本部」前から、以前訪れた「尾上車山古墳」前を通り、一気の下りで爽快であった。
途中、笹ヶ瀬川の堤防で用意してきた弁当を食べ、13時頃帰宅。35kmほどの行程であったが吉備津彦の墓の登りで少しくたびれてしまった。 |
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