備中高松城趾・最上稲荷と大崎古墳群
2008年10月11日(土)

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 秋の三連休である。3年前の私は、大きな手術をしたばかりであり、毎年この頃になると、辛かったことを思い出すのである。今も不調は続き、特に最近、思わしくない毎日が続いていたが、季節は史跡めぐりに最適である。連休初日に少し無理をしても、後2日を休養すれば何とかなるだろうと思い、予定通り備中高松方面に出かけることにした。
08:20電動アシスト付き自転車で出発。後楽園横から岡山駅西側に出て西北西方向に進む。
最初の目的地は吉備津方面で、いつものところなのだが、今日は気分を変えて、初めての道を辿ることにした。この道は、いつものコースと比べると少し遠回りになり、10分ほど余計にかかって、約1時間でJR吉備津駅付近に到達した。

「備中高松城水攻め築堤址」「高松城趾」

 今回は吉備津彦神社や吉備津神社には立ち寄ることをやめ、吉備津地区の旧道沿いに民家が延びる地区を進む。
この道は、旧山陽道のうち「松山往来」と呼ばれる道の起点であり、地区は、嘗て「板倉宿」と呼ばれていたところである。
松山往来は、ここから「備中松山城下」に至る約34kmの街道なのだが、四国出身の私としては、高松や松山と言えば、それぞれ香川と愛媛の県庁所在地を連想してしまうのである。
板倉交差点に古い道標があり、その横には秋祭りの幟が立っている。
今日は吉備津地区の秋祭りの日らしく、子供の獅子舞が出ている。カメラを向けるとしっかりとポーズを決めてくれた。
お面を付けた人物は「吉備津彦命」だろうか。
(夜、高知県の故郷に住む妹から電話があり、故郷も今日が秋祭りで、昔ながらに神輿や獅子舞が出て、にぎやかだったことを聞き、少し里心をそそられた)
通りがかったお年寄りの男性に訊ねると、「吉備津神社の祭礼は23日からで、今日・明日はこの地区の秋祭りですよ」と丁寧に教えてくださった。

 その後はJR吉備線の線路沿いに進み、「備中高松城水攻め築堤址」を見学。
ここは1582年、羽柴(豊臣)秀吉が高松城を水攻めをするために築いた大堤の址が残っており、その一部が綺麗な公園になっているのである。そこから西に「最上稲荷」の大鳥居が見える。ここでしばらく休憩した。

 最上稲荷への道の西側400mほどに「高松城趾」があり、これを見学。
 私は、城といえば少しは小高くなっているのだろうと想像していたのだが、ここは全くの平城である。
 確かに、山に囲まれた水田地帯の真ん中に城跡があったとしても、これだけの広い場所に水攻めの堤を築くのは並大抵のことでは無かったことだろう。城趾には切腹した城主の「清水宗治首塚」などがあった。
 それにしても、毛利側との講和交渉の最中に信長が殺され、それを隠して、宗治を切腹させた秀吉は、悪いやつである。

  堤の一部が残っている












   清水宗治首塚

「佐古田堂山古墳」「小盛山古墳」

 大鳥居を越え1.5kmほど行くと「佐古田堂山古墳」が右手に見えてくる。
 全長150m、高さ9mの大前方後円墳で、ここからすぐ南の「造山古墳」と同時期の築造と見られる大きな古墳である。周囲に幾つかの池があり、これが周濠の跡かと想像した。
 古墳上になにやら建物があり、道には侵入を阻む鉄の門がある。私は、墳丘上に上りたかったのだが、あきらめてしまい、遠くから写真をとるだけにした。
 ここは水攻めの時秀吉方の「仙石権兵衛」が陣を張ったところと言う。仙石権兵衛は確か、淡路島の人と記憶するが、高知県人の私としては好きになれない名前である。
 九州の島津攻めの時、秀吉の本軍が来る前に、権兵衛が功をあせり、長曽我部(ちょうそかべ;土佐領主)の意見を聞き入れず、暴走して窮地に陥った時、長曽我部の嫡男「信親」が救援に向かうのだが、信親は豊後の戸次川で命を落とすのである。権兵衛は、そのおかげで助かった。
     
 更に北に1.5kmほど行くと葡萄の温室に囲まれた「小盛山古墳」が右手に見える。
 この古墳は前日、職場に仕事ついでの挨拶にM氏がやって来て、 私が「Mさんは最上稲荷近くに住んでおられるそうですが、私は明日その辺りの古墳巡りに行くのです」と言うと、「私の住んでいる 近くに小盛山古墳という非常に貴重な古墳がありますよ」と資料まで提供してくれたので、コースに入れた古墳である。
 4〜5世紀に作られたと見られる3段築成の「帆立貝式古墳」で、この形式の古墳としては全国でも屈指の大きさとのことである。
 未発掘であり、M氏によると「周濠の跡と見られる周囲の池を発掘してはどうか」と申し入れても、地区の許可が得られないとのことであった。

  この地区も秋祭りだ





「最上稲荷(さいじょういなり;高松稲荷)」

次は道路を挟んで反対側の山の中腹に見える「最上稲荷」である。
 表参道は両側にみやげ物店などが並び、所々石段になっている坂道である。私は北側の車道を登った。巨大なコンクリート作りの本殿では10名くらいの参拝客が座り、数名のお坊さんが祈祷をしている。
 私は、名古屋に住む、孫の美夜ちゃん一家の幸せと、奥様のボケ防止、自分の延命をお願いしてみた。
 稲荷神社は食べ物を司る神々を祀る神社で、全国の小さな名もない稲荷を含めると、4〜5万もあると言う。この神社数は一位らしい。ちなみに、2位は応神天皇や神功皇后を祀る「八幡神社(宮)」とのこと。

 神社縁起によると「最上稲荷の歴史は、天平勝宝4年(752)に報恩大師が八畳岩でご本尊の最上位経王大菩薩を感得されたことに始まり
ます。爾来、「龍王山神宮寺」として繁栄を極めたものの、中世の戦乱時、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の備中高松城水攻めの際、戦火によって堂宇焼失の憂き目にあいました。
 ただし、ご本尊の最上さまだけは八畳岩の下の元宮と呼ばれる場所に安置され難を免れたのです。 新たに領主となった花房公が関東より日円聖人を招かれ、最上さまの霊跡を復興されたのが慶長6年(1601)のことです。寺名も「稲荷山妙教寺」と改めて、今日の興隆の礎が 築かれました。
 以来「不思議なご利益をお授け下さる最上さま」として多くの人々の信仰を集めます。 伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷・最上稲荷は1200余年の歴史を通じて仏教の流れを汲んで発展を遂げてきた稲荷です。
」とのこと。
 ただし日本三大稲荷と称する稲荷は全国に12ほどあり、この稲荷もその内の一つではある。確かに、同じく日本三大稲荷と称する東大阪の「瓢箪山稲荷」などと比べると巨大だが・・・・














「大崎廃寺跡」

 最上稲荷から南に戻り、少し西に行ったあと、北に進み大崎地区にはいる。地図を見て大体この辺りを行けば、目的の古墳がありそうだと、目星を付けて進むと「大崎廃寺跡」の標識を発見した。稲刈りの作業が進む田んぼの中に、それらしき場所が見えた。あぜ道を通っていくと、丸い基壇に木が生えているだけの遺跡であり、説明版などは何もなかった。
 ここからは、飛鳥様式の瓦が出土したということで、7世紀に建てられたことは間違いないのだろう。


「大崎古墳群」

次は今日のメインの「大崎古墳群」である。廃寺跡から古墳への道が続いているとの確信はなかったが、そのまま北の谷沿いの道に入る。
 「本当にこの道でいいのだろうか?」と思うような山道が尽きるところに小さな2つの池があり、その池の北側に「遍路道」「行者道」の標識がある。
 何とか、その場所にたどり着いたようだ。
 遍路道、行者道それぞれの道沿いや林の中に古墳時代後期の横穴式石室が40基以上有るとのことだったが、私はまず行者道に入ることにした。
 しばらく行くと、お堂があり、そこからが行者道のようである。山道は、しばらく人が踏み込んだ痕跡がない。草や潅木が茂り、1mごとくらいに大きな蜘蛛が巣を張って行く手を阻んでいるのである。
 小さな枝で、それを払いながら進むと、道の脇に横穴式石室がいくつも見える。
 どの石室内にも数体の石仏が祀ってある。行者道と呼ばれるくらいなので、ここは、何時ごろからか古墳石室を利用した信仰の霊場になっているのだろう。

 さらに山道を登る。石組みは結構立派な物が多く、中には両側が開口し、通路になっている石室も見られた。
 このような群集墳は大阪の河内地区で幾つか見たが、ここの群集墳もなかなか立派である。
 数十基の石室を確認し、さらに山道の奥に踏み込もうとすると巨大なスズメバチが群れている。
 あわてて道を引き返したせいで、道を外れ林の中に迷いこんでしまっていた。林のそこら中にイノシシが鼻でミミズを掘ったと思われる跡があり、情けないことに泣きそうになってしまった。
 何とか道を発見し、お堂前まで戻ると張り紙があり「この付近にスズメバチの巣があるため、近いうちに駆除します」と書いている。
 本来、大きな石室があるのは遍路道と言うことなのだが、私は、すっかり怖気づいて、そちらに回ることを止めてしまった。もう少し寒くなり、草が枯れ、蜂が居なくなるのを待って、もう一度訪れることにしたのである。
 それにしてもイノシシは冬でも出現しそうだが。

   両面が開口している










  ここにも蝙蝠が









  古墳群背後の「三上山」

「帰途に」

 古墳群から、高松城址前〜吉備津地区を通り帰途についた。
 それにしても、今回も相当な距離があった。体調不良も加わって、何も食べず、やっとの思いで14時前帰宅。相変わらず学習効果が働かない私である。
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