近代文学にみる大和
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 久米の仙人       薄田泣菫      2005.7.27作成
「久米の仙人」は薄田泣菫が明治44年に「三田文学」に発表した作品である。
 久米寺は畝傍山の東南麓に位置し、金堂、観音堂、多宝塔等が配置されている。本尊は薬師瑠璃光如来である。「久米寺略記」によれば、推古天皇の勅願のもと来目皇子(くめのみこ)が建立したとされる。807年、弘法大師が弟子たちと多宝塔内で初めて真言密教を宣布したことから、久米寺は真言宗発祥の地といわれ、真言宗御室派の別格本山となっている。また紫陽花の寺としても有名である。
 作者は久米仙人が好きだ。「不思議な仙術を得て、あちらこちらと空を駈けずりまはる途すがら、そこいらの河の縁で洗濯女の白い脛を見て、急に地面に落ちたといふ、あの言傳へが氣に入つたのだ。」と言う。久米仙人が落下したのは心の変化であると捉える。それは「新しい價値の世界の薄明が、かすかに動いたに相違ない。」とし、その心の変化を、ニイチェのツアラトウストラが説いた「心の三段變り」になぞらえ、「その胸に羽ぐくまれた自由の思想は、やがて新しい價値の世界を發見せずにはおかないのだ。」と言っているのである。
 「自己の破滅はやがて新しい價値の發見である。」との解釈は、日常的な価値観に囚われがちな私にとっても救いのある言葉である。
 作品の最後には「氣がついてみると、冬枯の寂しい田圃路に突立つてゐた。」と書いているが、橿原神宮前駅から徒歩5分ほどの所にあるこの寺の界隈は、今、全くの変貌を遂げてしまっている。
 大和路・信濃路     堀 辰雄
大和路・信濃路」は堀辰雄が昭和18年から21年にかけて雑誌「婦人公論」に掲載した短編を集めたものである。冒頭、信濃の路傍で見た石仏の思惟像から、中宮寺の観音像の話に展開する。
 その後、堀が執筆活動のために訪れた寺や古墳などのことが、その頃の大和の村々の情景と共に語られる。斑鳩や明日香の地は、今でも鄙びた所であるが、この文章により昭和18年頃は、なお古代の息吹が残っていたことが判る。人麻呂の挽歌に関する項に出てくる「軽」の地の情景などはなおさらである。
また、折口信夫の「死者の書」にも対談の形で触れているのが興味深い。
 私事であるが、この文章が書かれた頃、私の亡父は中国戦線の真っ直中にいたのである。
 その後も父が昭和23年までシベリアに抑留されていたことを思えば、日本にもこのような別世界が有ったことに、なにがしかの感慨を持たずにはいられない。
 飛鳥寺         薄田泣菫
飛鳥寺」は薄田泣菫が明治33年「三田文学」に発表した短文である。
 古代に大伽藍であった飛鳥寺は、平城京遷都と共に奈良の地に元興寺と言う名で移築されたあと、飛鳥の地には小さな「安居院」となって残った。
 それが単なる「飛鳥の大佛」の入れ物になり、さらにその荒れ果てた情景を、昔の人達の芸術と信仰と、その後の破壊者の行為について哀れみを持って語っている。
 これを書いた作者の想いとは別に、今では、現代の整備された飛鳥寺からは想像出来ない明治の安居院の様子、ひいてはその頃の飛鳥の地について思い巡らせるに十分な作品となっている。
 西大寺の伎藝天女    薄田泣菫
「西大寺の伎藝天女」は薄田泣菫が明治41年「新小説」に発表した作品である。伎藝天女像といえば西大寺にほど近い秋篠寺の像が有名であるが、西大寺のそれは、インターネット等で調べても全く出てこない。西大寺でその伎藝天女像を拝観する話であるが、寺の小僧さんの言動が面白い。
 私にはどちらかと言えば、庶民の一段高いところから人を観察している文化人と称される人たちよりも、この小僧さんに肩入れしたくなるのである。観光システム化されていない明治期のお寺の状態がよくわかる作品である
 死者の書        折口信夫(おりくち・しのぶ)
「死者の書」は折口信夫(釈超空)が昭和14年「日本評論」に発表した作品である。
 二上山の墓所で降霊した大津皇子の口から、耳面刀自(みみものとじ;藤原鎌足の娘;大友皇子の妃)への想い、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)の誄歌(なきうた)により覚醒させられ、骸となった自分への戸惑いが語られる。
 後半は現在の當麻寺に伝わる「中将姫曼陀羅」の由来に関する物語として展開する。
 要約すると、藤原南家の郎女(藤原不比等の姪)が二上山の大津皇子の霊に導かれ、當麻寺の結界を犯す。そのために當麻寺に止められた郎女は、霊として現れた大津の皇子のために、衣を織るのだが、それが人々にはきらびやかな「曼陀羅」に見えた。幻想的ともいえる「死者の書」は、私には古代を舞台にした、素晴らしい作品と思えるのである。
 旋風          薄田泣菫
「旋風」は薄田泣菫が明治41年「新小説」に発表した作品である。
 作者は、午後過ぎの太陽が、容赦もなく照りつける中、空腹と喉の渇きをおぼえながら、秋篠寺から西大寺村に向かって、とぼとぼと歩いている。
 秋篠川の畔にさしかかったとき、傍らの麦畑に旋風(つむじかぜ)が巻くのを見つけるのだが、その小さな現象から「宇宙の極祕の或る閃き」を見出すのである。
このことは私の仕事にも関係する最近の理論「カオス、フラクタル=気象のバタフライ効果」の事を言っているようで興味深い。
 それにしても、今では西大寺の駅あたりから、御陵山(神功皇后陵のことか)や秋篠寺の森を見つけるのは不可能であるが、明治期にはこのような情景があったことが判るのである。
 喜光寺         薄田泣菫
「喜光寺」は薄田泣菫が明治41年「新小説」に発表した作品である。近鉄大和西大寺の駅から南西約1.5kmにあるこの寺は、養老5年(721)行基が元明天皇の勅願で創建したと伝えられる。金堂は東大寺大仏殿の創建時の10分の1のサイズで造られたという伝承から「試みの大仏殿」といわれる。
 作者はツルゲネエフの作品「親と子」に出てくる「時代遅れになった。」と嘆く親父の心根を「時の流れ」と捉えながら、「喜光寺の屋根を見ると、しみじみと時代の嘆きといふものが味はへる」と言うのである。ここで語られることは泣菫の別作「飛鳥寺」での想いと共通する。また、この作品では、喜光寺の他、佐紀路から南に辿った法華寺、薬師寺界隈の事も語られている。
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