菅笠(すげがさ)日記にみる大和

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 菅笠日記とは
 本居宣長が43歳の時に吉野を訪れた時の紀行文である。
 「吉野水分神社の神の申し子」である、との信仰を生涯持ち続けた宣長は、念願であった吉野を訪れるのであるが、吉野そのものより、明日香の地の遺跡などが活き活きとよみがえるような文章になっている。
 宣長は明和九年(1772年)3月5日、伊勢の「松坂」を出立し、7日「長谷寺」を参詣後、「多武峰」を経由して山中の「千俣」に宿泊。8日から9日は吉野山中で過ごした。10日吉野川沿いを明日香方面に向かい、「壺阪寺」、「橘寺」などを参詣した後「岡」に宿泊。11日は「酒船石」、「飛鳥寺」、「安倍文殊院」、「藤原宮」「香具山」など明日香地方を隅々まで見物し「三(見)瀬」泊。12日「久米寺」、「畝傍山」、「八木」、「三輪」を巡って「萩原の里」泊。3月14日松阪に帰っている。
 なお、「菅笠」の読みは「すげがさ」とされるが、本来は「すがゝさ」である。

 本居宣長(モトオリ・ノリナガ)
 享保15年(1730年)〜享和元年(1801年)
 18世紀最大の日本古典研究家。
 伊勢国松坂(三重県松阪市)の人。
 木綿商の家に生まれるが、医者となる。
 医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆する。
 主著は他に『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』、『うひ山ふみ』、『秘本玉くしげ』、『菅笠日記』など。
 鈴と山桜をこよなく愛し、書斎を「鈴屋」と呼び、また山室山にある奥墓には山桜が植えられている。
  (本居宣長記念館HPから)

 菅笠日記上の巻

 明和九年(1772年)吉野の桜見物を思い立った宣長は、3月5日早暁に伊勢の「松坂」を出立した。
 伊賀の国を経て「初瀬」に続く道を行くが、昔一,二度来たことがあるけれど、そのあたりのことは忘れてしまっている。
 翌6日には雨が降り始め、足も疲れたとして「榛原」に宿を取った。
 7日朝から雨も止み、かごに乗って山道を進む。途中「長谷寺」に参詣するが「いと大きなる本尊の。きらきらしうて見え給へる」と言っている。読経の声や、堂塔の様子も見え、その頃の長谷寺の隆盛がよくわかる。
「出雲村」、「黒崎村」を過ぎるあたりでは、「雄略天皇」や「武烈天皇」の都を偲んで感想を述べている。
 その先を道は左に折れ、「多武の峯」へゆく細道(現在もバス道路があるが、相変わらず狭い)にかかる。
 「音羽山」(今もハイキングコースが開けている)の麓を「忍坂村」、「倉梯の里」を過ぎ、このあたりで「崇峻天皇」の都「倉梯柴垣の宮」を偲んでいる。
 「談山神社」では「御廟の御前は。やゝうちはれて。山のはらに。南むきにたち給へる。いといかめしく。きらきらしくつくりみがゝれたる有様。めもかゞやくばかり也。十三重の塔。又惣社など申すも。西の方に立給へり。すべて此所。みあらかのあたりはさらにもいはず。僧坊のかたはら。道のくまぐままで。さる山中に。おち葉のひとつだになく。いといときらゝかに。はききよめたる事。又たぐひあらじと見ゆ。櫻は今をさかりにて。こゝもかしこも白たへに咲みちたる花の梢。ところからはましておもしろき事。いはんかたなし。さるはみなうつしうゑたる木どもにやあらん。一やうならず。くさぐさ見ゆ。そも此山に。かばかり花のおほかること。かねてはきかざりきかし。」と言い、堂塔はよく整備され、桜の花の美しいことに感心している。なお、ここでは「多武の峯」と言っており、明治の廃仏毀釈で神社となった「談山神社」の旧名称である「妙楽寺」の記述はない。
 また、ここからは「飛鳥の岡へ五十町の道」と書いており、いまもその道はハイキングコースとして存在してい る。その日も暮れとなり「千俣」に泊まる。
 翌8日は天気もよく、吉野に近づいて足も軽い。かの有名な「妹背山」を仰ぎ見ながら渡し船に乗り「飯貝」という里に着く。
 「のぼりのぼりて。のぼりはてたる所」の「六田」と言うところの茶屋から「一目千本」と言われる吉野の桜を望むが、「花は大かた盛すぎて。今は散残たる梢どもぞ。むらぎえたる雪のおもかげして。所々に見えたる。」という状態で「かくさかり過たらんとは。かけても思ひよらさりしぞかし。」と嘆いている。吉野の桜見物がこの旅の一つの目的であっただけに、さぞ残念であったことであろう。
 8日、9日は吉野に泊。この吉野での行動についても興味深いが、機会を見て解説したい。
 下巻はいよいよ、明日香である。

 菅笠日記下の巻

            菅笠日記 下の巻 解説その1
            菅笠日記 下の巻 解説その2



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