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『子どもとゆく』179(2002年10月1日発行)特集



コンセプトは「多民族共生でまちづくり」

 コミュニティラジオ局「FMわぃわぃ」ゼネラルマネージャー
 全美玉(チョンミオ)さん


 全美玉さんは1948年、神戸生まれ。神戸の中でも、ことに在日韓国・朝鮮人をはじめアジアの人が多く住んでいる長田で育った、在日韓国人二世です。
 地元の放送局「FMわぃわぃ」は1995年1月の大震災後、この長田でスタートし、現在8つの言語で放送しています。 鷹取カトリック教会の敷地内にある「FMわぃわぃ」で、お話をうかがいました。(悟)

◆潟Gフエムわぃわぃ 〒653-0052 神戸市長田区海運町3−3−8
電話:078−737−3196
 連絡先:fmyy@tcc117.com
ホームページ:www.tcc117/com./fmyy

[聞き手/藤田悟 文責/編集部]

◆ミニFMを立ち上げた◆

●1月17日が震災で、「FMわぃわぃ」のもとになる韓国・朝鮮語の放送「FMヨボセヨ(もしもし)」ができたのが、そのすぐあとの1月30日です。

 ―全さんは、最初から関わっているのですか?

●私は、まず炊き出しのボランティアをしていたんです。

 中央区の私の家は全壊。車を主人と私で1台ずつ持っていたので、車2台で家族5人が過ごして、二日目に、長田区にある私の実家を主人に見に行ってもらって。実家は古い家なのに、物ひとつ壊れてなかったんですよ。激震地でも、北のほうで活断層からはずれていたんですね。「すぐおいで!」というわけで、車に積めるだけの荷物を積んで、通れる道を通りながら避難しました。
 長田の南のほうには友だちが多いし、情報がぜんぜん入らないので出かけていって。そのときの光景は今でも涙が出そう。信じられないくらいつぶれていて、車も通れない。やっと来たんですけど、壊れた家を前にして、みなさん仕事もできなくて、道ばたで暖を取ってて。
 民団(韓国民団西神戸支部)に行けば安否確認とか、いろんな情報が入ってくるかなと思って行ったんです。そしたら民団の横にたまたま水道管が破裂してて、水が湧き出てて、民団には鍋と味噌があって。火もあるし、それなら味噌汁にカチカチのおにぎりを入れるとオジヤになる。ほんとに自然に「私にも出来るよ」っていう発想で、何か温かいものをと炊き出しを始めて。
 言葉の壁って大きくて、在日の人は日本語を流暢に話せても、字を読めない人がいる。読めないのを隠して、避難所でも堂々と生活できんと、負い目をもつ人が多いんですね。そういう人たちに情報を流すのにラジオ局があったらと、たまたま大阪の生野で在日韓国・朝鮮人向けFM局「FMサラン(愛)」で情報を流していた兄の後輩のアドバイスで、ミニFMを立ち上げたんです。韓国語と日本語で情報を、それから韓国の音楽を流して。



◆国民性・文化の違いが受け入れられない◆

●なかなか情報を得られない中で、やっと得られる情報が日本語。そのとき、非常時に生活していくのに言葉・文字が重要な役割を果たしているんだと気がついて。
 放送を始めるなんて、何も知らないとコワくないものですね。ドサクサにまぎれてゲリラ的にみんなでやれた。(笑)必要だからできたんでしょう。点々と避難所がたくさんあって、そこにいらっしゃるみなさんは情報がほしかったわけで、私たちは得た情報を伝えたかったわけですから。

 ―放送の内容は、まずは安否確認が軸ですか?

●そうですね。あと、生活していくための物資の配布、どこどこでお風呂に入れるとか。そういうときにやはり平等でなければダメじゃないですか。でも、書かれた日本語だけでは分からない人たちがいる。
 あと、あの混乱期に、避難所ではなかなか異文化が受け入れられなかったですね。日本人からは「なんであんたら、こんな時に、にぎやかに笑っておられんの? なんで食べて、お酒飲んでられんの?」とかいう言葉が出てくるわけです。でも「なんでこんなに落ち込まなあかん? 明日からどうするの?って沈んでて、泣いててどうするの?」っていうのが、ラテンとアジアの人たち。

 ―国民性の差はありますね。日本人は用心深くて先のことばかり心配している。

●日本人からしたら「非常識だ!」。でも「起きてしまったことをふり返ってもしょうがない。食べなくては明日から頑張れへん」と思うのが国民性の違い、文化の違い。それが非難される。
 みんなが混乱している時期だから、よけいそうだったかもしれないけども、なかなか日本の人と同じようには避難生活ができなかった。



◆FMヨボセヨ+FMユーメン=FMわぃわぃ◆

●長田の民団に手作りの放送機材を持ち込んで韓国・朝鮮語放送が始まったのが1月。このカトリック鷹取教会にあった鷹取救援基地で、被災ベトナム人救援連絡会が中心になって「FMユーメン(友愛)」が開局したのが4月です。

 ―別途に出来たわけですね?

●そうです。「ユーメン」はベトナムの人たちと、それをサポートする日本人ボランティアとで。
 ベトナムの人たちは、私たちが何十年か前に苦労したことと同じことを体験していたわけです。長田には十数年前から姫路にある難民センターを出たベトナム人が移り住んでいたんですけど、言葉が分からない、コミュニケーションがとれない、文字が読めないという人たちが多くいて。そしたら、ベトナム語で情報を流してあげたいと。
 ベトナムの人たちは、「ほんまに?! 今まで十何年間日本で生活してきたけども、ラジオから自分たちの国の曲や言葉が毎日流れてくるなんて!」って、ほんとに感激して。

 ―「ユーメン」はベトナム語の他に、タガログ語、英語、スペイン語、日本語の5言語でスタートしているんですね。

●そうです。二つの放送施設が一つになれば、もっと大きな力になるのではないかと、震災の半年後、7月17日に「FMわぃわぃ」が立ち上がったんです。「FMヨボセヨ」のYと「FMユ−メン」のYをとって、“みんなでわぃわぃ楽しく”というので「FMわぃわぃ」。
 その後、中国語とポルトガル語が加わって、長田を中心に8言語で震災関連情報、地域ニュース、生活情報、各国の文化紹介などの番組を、毎日朝8時から深夜12時まで、日本人と外国人のボランティアの手で放送を続けて。
 そうこうしているうちに、こういうメディアは今までになかったと、テレビ・新聞・雑誌でどんどん取り上げられるようになって。そしたら、郵政省のほうから「正式に開局の認可を得たらどうですか?」っていう話が来たんです。
 おカネをくれたわけではないけど、開局して1年後、書類も異常な早さで、ほんとに短期間で正式に認可されたんです。これだけ官の力できないことを民の力でやったというのは、評価せざるを得ないでしょ。


◆混乱時での「民族問題」◆

●関東大震災のときにはデマが飛んで多くの朝鮮人が殺されたわけですけど、私たちが最初に放送を始めたのは、「そのときあったようなデマを防がなイカン。そのために正確な情報を!」みたいな感じがありましたよね。
 震災直後、私は炊き出しをやっていてその状況を見てないんですけど、すったもんだがあったんですよ。ある日本人が関東大震災と今回の地震に関連して何か発言して、それが大問題になったんです。そのとき民団に電話をかけてきた日本人が、「おまえら、ガタガタ言うな! 朝鮮人は差別されて当然や。オマエら、帰らんか?!」って。そこにいた韓国人のボランティアが、「オマエなあ、名前を名乗らんかあ!?」って、すごくやり合いましたね。
 それからデパートで宝石が盗まれたのを、「それも外国人と違うか?」ってデマが飛んでたみたいで。実際に 500人分炊き出しできる大鍋が割られたんです。朝行ったら、高い所からボーンと投げて割られてて。それがすごいショックで。「この時期にこんなことするって、どういう人?!」って思ったけど、誰がやったか分からない。その時すぐに鍋を調達して、私たち朝鮮人の集団に持ってきてくれたのが東京から来ていたYMCAの人たち。ほんとにうれしかったですね。

 ―関東大震災のときのように、民族的な一触即発みたいな状況もあったわけですね。

●私たちは危機感を感じましたよ。
 もう一つ思い出すのは、私らの炊き出しの所に来て「日本人やけどいいですか?」って聞かれたことですね。年配の人が寒い中、おしめを探して歩いておられるということだったんです。たしかにそこは韓国人朝鮮人の建物で、私らは韓国人朝鮮人。でも、私の中には日本人とか朝鮮人とかいう意識はまるでなく、「この場で火と水と材料と道具があるから、温かいものを」って、ただ黙々とやっていたんです。

 ―年配の人だと直接植民地を支配する側だったわけだから、ある種の後ろめたさがあったのではないですか?

●「私たちもいただいていいですか?」という言葉だったら「ああどーぞ!」でいいんやけど、「日本人やけどいいですか?」と言われたとき、「エッ?」と一瞬私は言葉を失ったというかグサッときたんです。それって、考えなあかんことだったのか。日本人とか朝鮮人とか、こういう時でも、あるんやなと思ったり。
 だいぶ時間がたってから、その人たちがまた寄ってくださってね。どこかで調達してきて、「ありがとうございました。少しだけど」って温かいものをくれたんですけど。


◆継続するには◆

●「わぃわぃ」を立ち上げたとき、ここ(鷹取教会)でボランティアやってる人たちや、聞きつけて来た人たち、50名ぐらいが関わっていたんじゃないでしょうか。

 ―会社になったのは1年目ですね。

●そう、正式開局と同時です。できるんですね、無給で!

 ―ドサクサの中では労働条件とか考えませんものね。

●今も考えていませんよ。(笑)法律にのっとり制度的なものを踏まえないと放送を続けられないということで、会社組織にせざるを得なかったんですけど、今もほとんどがシロウトでボランティア。
 ゼネラルマネージャーとしての私の仕事は、継続していくだけでなくて、新しい人、若い人たちに関わってもらって、また違う「わぃわぃ」にしていってもらえるような人材を育てていくこと。
 あと、なんとか「わぃわぃ」が財政面で独り立ち出来るまで頑張りたいと、銭を集めてくることが私の仕事。ずうっと赤字でやってきて、今年やっと黒字。広告収入でかろうじてなんとかやっていけてる状態です。ゲリラ的に始めたことを続けていくためには、組織的にやっていく必要があります。設備も今はまだ動いているけど、消耗品だから買い換えなくてはとか、先を考えていかなければいけない。そのために、一番現実化している問題がおカネですね。
 コミュニティFMは、私たちが20何番目かで、今は全国に 150ぐらい。地域に根ざした放送局が必要だ、ということで増えていますけど、ほとんどが第三セクター方式。行政とか企業とかが支えてやっているんです。

 ―これは有給の仕事ですか?

●フフフ。私、ずうっとお給料もらってなくて、みんなから「給料をもらえよ」って言われるんですけど。

 ―この局で食べている人はいるんですか?

●二人。でもま、ともに食べられる金額ではないと思いますね。ボランティアスタッフ 150人は手弁当で。「取材に行く交通費くれっ」と誰も言わないし、出せない状況でしょ。それでも一生懸命、自分たちの番組のために、「わぃわぃ」のために、自分のためにやってくれているわけじゃないですか。ほんとにそういう気持ちってありがたくて。そういうスタッフ、地域の人たち、地域圏外の人たちに、いろんな形で支えられて、続けていられるんです。


◆電波発信だけが目的でない◆

 ―そうすると入ってくるのは広告収入だけですか?

●それと、友の会の会員になってくださった方からの援助と、イベント収入。イベント収入は大きいですね。国際交流のイベントで、ステージをコ−ディネイトしたり、屋台を出したり、舞台を出したり、いろんなNGOに団体紹介のパネル展示をしてもらったり。

 ―放送局といっても、放送することだけが目的ではない。

●そうですね。電波を発信しているだけでは、地域の人に分かってもらえない。いろんな活動している人たちや、いろんな国の方々がいるでしょ。そういう人たちに、各国の屋台を出してもらったり、お国自慢の演舞をやってもらったりして、文化を発信してもらう。国際交流の活動ですね。

 ―日本の国際交流って、西洋と仲良くすることばかりで来た感じがしますね。

●そうなんです。神戸は国際都市と言われてきたけど、西洋にしか目を向けてこなかった。だからアジアの人は、神戸の中でもすごく差別されてきたわけです。ことに長田はアジア中心に28ヵ国もの外国籍の人たちが住んでいるというのに、標識も英語だけ。それで「国際都市だ」なんて、違う! たとえば子育てなら、こんな形で子育て支援ができますとか、こういう窓口で相談できますとか、生活に必要な情報を欲しいわけ。多言語でいろんなものを作ってほしい。
 この教会にはいろんな言語で翻訳をやるグループがあって、その人たちが行政に日参して、「こういう情報を多言語で作ってください」と言って、やっと何とかできるようになったんです。そしたら行政は「無料ボランティアでやってくれ」。「違う、おカネを出して!」って私たちは言ってるんです。翻訳する人もそれで生活するわけだから。

 ―やはり、この鷹取教会の存在が大きいようですね。

●そうですね。震災後、この教会がボランティア基地になって、地域の人たちと交流できる場所になっていた。それはすごいことです。それに、ここの神田神父がすばらしいのは、「教会というところは、地域と隔てては存在し得ない」と、ずっと考えていたこと。震災を機に本当になってしまった。


◆自分の民族を隠して暮らしていた◆

●私は結婚するまでずっと長田。長田で生まれ育ったみたいなものなんです。親が日本に来たのがまだ植民地の時代で、母親なんかは日本のお作法、お茶だとかお花だとか、ふすまの開け方とかの礼儀作法を習っていたんですって。着物も着れる人でした。
 親がふだん子どもたちにしゃべるのは日本語。同じ韓国人朝鮮人としゃべるときは、朝鮮語。そんな中で育ったので、私は日常会話の部分では聞くことはできるんです。でもむずかしいことを話すのはできない。
 私が生まれたのは戦後すぐやから、「朝鮮人は臭い汚い」と言われていた時代です。ですから、自分の民族を隠して、通名(日本名)で学校に行って、結婚までは通名を名乗ってました。若い時は自分の生い立ちがイヤで、私自身の存在自体がイヤだったんですね。たぶん二世の中にはそういう人たちがたくさんいると思うんです。差別されて当たり前みたいな時代で。
 今になったら親にはほんとに申しわけなかったなと思うけど、当時は「何で私を生んでくれたのか? 何で私はここにいるんだ?」とか思ってね。でも、そんなことを聞けなかったですよね。両親は無学で、「自分たちの生活」=「子どもたちのために」って一生懸命働いていた時代ですから。いじめられても「いじめられた」と親に言えないし。
 朝鮮人であることをひた隠しにして、こういう親をもって生まれた私って不幸や、自分ほど不幸な者はいない!と思ってました。学校で歴史の時間に朝鮮という言葉が出てきただけで、顔が赤くなって下を向いてしまって、心臓がドキドキ。だから言葉を覚えようと思わなかったし、いろんなことを知ろうともしなかったし、知りたくもなかったんですね。



◆目を開かれた◆

●それが、その後いろんな民族の人や同胞に出会って、一番大きな転機は今の私のつれあいと出会って、いろんなことを学んで、なぜ私たちがここに住んで在日と言われるかが分かっていく中で変わって、堂々と生きていけるようになった、のかな。言葉を学ばなかったことは、今すっごく後悔してます。でも、とりあえずは発音が悪いと言われながらもチョコチョコ使えるところまでにきた……。

 ―お生まれが1948年ということは、青年の時代に学生運動がいろいろあったり、入管の問題がありましたよね。

●そうですね。兄や兄のまわりにいた人たちも主人も、在日の問題に取り組む運動をやっていました。私もボーッとしていたわけではないんだけど、親にそこまでさせてもらえなかった。とくに朝鮮人の親は、「女が勉強して何になる。女が男より賢くなったらロクなことない」とか。まだそういう時代だったんですよ。
 私のウチは男の人、学生、そんな運動をしている人大歓迎で、人が集まる家やったけど、「自分の娘に、そういう道は進ませられない。息子だけで十分」と言われましたからね。でも、そういうところで目を開かれて行きました。


◆子どもたちには正々堂々と生きてほしい◆

●子どもたちには、私のような屈折した人生を歩ませたくない。日本社会で正々堂々自分は韓国人だという意識を持って生きてほしい。いろんな権利を持って生きていける民族だと教えたい。ずっとそう思ってきましたね。そのためには子どもをどう育てたらいいかなって思って。
 自分たちの国の言葉は、アイデンティティを持つにしても大事。それで、子どもを民族学校に行かそうかとも考えたんですけど、言葉だけでなく、思想を教えられるのはたまらんな(笑)って。そこで、言葉は主人ができるので、機会があったら子どもたちに教えよう、そして子どもは通名は一切なしで本名だけでスタートしようと。

 ―本名で幼稚園や学校に通うと、在日の他の子どもにも影響が出てくるでしょうね。

●そうですね。地域で子どもたちをお誕生会に呼ぶと、私のとこは親と同居してるから、見るからに朝鮮人のおばあちゃんがいるでしょ。家の中に韓国の人形とか、韓国のものがいっぱいあったり、おばあちゃんをハンメ、お父さんをアボジって呼んでるし。
 そうすると、友だちもおばあちゃんを、「ハンメ! ハンメ!」って言って。「それが韓国語でおばあちゃんっていう意味や」とか教えたりしていると、「私、韓国に行ったことがある。向こうに親戚もおる」「こんなん、ウチにもあるねん。私も韓国人なんや」とか言う子がいたりね。私なんかは、通名からすると、そうじゃないかって思うんだけどね。(笑)ま、それぞれのご家庭の事情もあるだろうし、子どもたちに「あんたらも本名で行きなさい」とは言えないんですけど。


◆差別をぜんぜん知らないのも……◆

●日本社会も変わってきたけど、今でもまだまだ就職差別とか入居差別とか、いろんな外国人に対する差別があるわけです。でもウチの子どもたちは3人とも、「えー?! そんなんウソや。そんなことないやー」って言ってたんです。
 だけど、なぜか長女だけなんですけど、小学校6年の時に学校で友だちから「朝鮮人は朝鮮に帰ったらいいんや」と言われて。子どもは無知からそんなことを言うので、どこかで耳にしたんじゃないか。それは周りの大人の責任だ、このままではイカンと、つれあいと相談して学校に行ったんです。「なぜ在日朝鮮人が日本にいるか?」を知らない先生方から教育せなあかんって。(笑)
 6年生の先生全部と校長、教頭を呼んで、子どもたちに話をさせてくれと言って、子どもたちに話をしました。そしたらある子が「ぼくたちや。ごめんなさい」って言ってくれて。そのときにバカな親がいましてね。「ウチの子が誰かに言わされた。ウチの子はそんなに悪くない」って。私、ほんとに子どもが可哀相やなと思いましたね、そういう親を持って。 長女は、北海道の大学に入ったときにも、マンションを借りるのに、手付金も払った段階でダメになって。娘は自分が経験したから、「やっぱり差別あるなあ」って。
 「わぃわぃ」に関わっている若い子なんかも、近代史を習ってないから、どういう経過で日本に朝鮮人が住むようになって、朝鮮人がどういう生活してきたかを知らない。あまりにもいろんなことを知らなさすぎて差別を知らない子どもたちも、コワイと感じますね。

 ―全さんは苦しんだから、強くなった。「それなしでスラッと育っちゃっていいのかな?」という心配ですね。

●私たちと同じ経験をしてきた2世の親は、「自分の子どもたちは、差別や偏見を受けないように育てたい」とやってきた。そしたら、3世の子どもたちは、なーんにも知らない。これからはもっと若い4世5世も誕生してくるわけで……。



◆違いを認め合うところから◆

●私の中で「朝鮮人でもできるんや。日本人と同じ土俵でいろんなことをやりたい」という気持ちがすごくあったんですね。私たち、違う文化を持っている。違っていることを認めて、受け入れてほしい。違いをお互いに認め合っていく中で、自然に地域社会に溶け込んでいけるんじゃないかなと。
 それなので、子どもが幼稚園に行き出したら、幼稚園でのコミュニティー作りが始まるでしょ。子どもが小学校へ行ったら小学校でのPTA活動があるでしょ。どんどん積極的に出ていきましたね。上の子が学校に入って以来、私は長いことPTA活動に関わって。けっこう目立つし、すっごく誤解もされるけど、ストレートに何でも言うんですよ。私、日本で育ったけど、ホンネとタテマエの使い分けがヘタで。でもこれ、韓国人の知恵なんです。まあ、「民族だけとはちゃう。性格的なものもある」ってよく言われるんですけど。(笑) 今はいろんな民族が国境を超えて、どんどんどんどん流れているのが時代の流れ。

 ―違うものに出会うと、違う可能性を知るわけで、「あ、そういうこともある!」って、広がる感じがしますよね。

●発見が多いじゃないですか。

 ―でも一方では、自分の安定がちょっとくずれる。

●そうそう。でも、もとのもの以上に修復できる。いろんなことを認めて心が豊かになっていけば、いろんな部分が見えてくる。その心の豊かさが世界を変える、人間を変える、地域を変えると思うんです。


◆地域の人を巻き込んだ番組づくりを◆

●私も放送しています。在日に伝えたいことがいっぱいある。

 ―それは何語で?

●韓国語と日本語を混ぜてです。韓国語では3世4世に伝わらないし、日本の人にも伝えたいじゃないですか。新しく日本に登場したニューカマー(新規入国者)に関しては、ベラベラにしゃべれるニューカマーとか留学生が、韓国語だけで発信してくれればいい。分けているんです。
 初期の非常時の情報から、だんだん地域で住んでいくための情報に変わってきてますよね。スタッフが町に出て、人が戻ってこなくて苦労している商店街の人の話とかを得てくるとか、地域密着が一番大事で、みなさんが待っているのは、同じ長田区でも北と南でなかなか伝わらない地域の情報。それから、地域のNPOがどういう活動をしているかとか。
 地域にはいろんな人がいるわけです。たとえばおじいさんおばあさんが番組を作って発信するとか、地域の人と一体になって番組を作っていく仕かけも必要で。

 ―おじいさんおばあさんの登場は、おもしろそうですね。

●前に「好きやねん下町」っていう番組があったんです。それは大学生が、地域にたくさんいる独居老人に話を聞きに行って、なつかしい曲をかけて、というものすごいいい番組だったんだけど、彼らが卒業したら後を継ぐ者がいなくて。

 長田はいろんな歴史があるところで、地域地域に長田を語ってもらえる語り部さんがいるようなんです。意外な長田を発見できるから語り部さんって、おもしろいじゃないですか。「多民族共生でまちづくり」をコンセプトに、そんな企画も実現させたいですよね。■