但し書き



われわれは平和について語るとき、なんとなく抽象的な平和を考え、それにわれわれの希望を託し、現実の世界の恐怖と対比させてしまう。しかし、抽象的な平和などはありはしない。存在する具体的な平和はすべて但し書きを必要とする。そこにわれわれの置かれた苦況があるのだし、その苦況に直面することがわれわれのつとめなのである。

                                              「国際政治」高坂正堯


ぼくは、ここでは、国際政治について何かを語ろうという気はない。ただ、但し書きという言葉とその状況に着目したいと思うのだ。ぼくらは、よく、少し入り組んだ悩み事を解決しようとするとき、その悩み事をできるだけ単純化しようと考える。そして、単純化した上で回答を導き出し、その解を問題に当てはめようとする。しかし、単純化された上で得た回答は、現実の雑然とした問題に対して毎回必ずきっとした解決ができるとはかぎらない。なぜなら、問題の本質がその単純化されない部分にあるときがしばしばあるからだ。「くだらない言い回しはいい、おまえのほんとうにやりことはなんなんだ。」というセリフがある。ドラマでも現実でもよく見かけるセリフだ。悩みの問題をその人の意志に絞り込むという単純化作戦の最良の例である。しかし、よく考えてみると、このセリフでは少しも現在の問題を解決できないのだ。なぜなら、その問題の本質が、往々にして、自分の意志とは関係のないところにあるときが多いからだ。少しおおげさなたとえ話をしよう。いじめのある学校で登校拒否をしている少年の悩みを解決したいとする。いろいろ少年と話していくうちに問題が混乱したとして、単純化作戦を使ってみる。「もしいじめがなかったら、おまえはどうしたいんだ?」と。「それなら、学校に行きたい!!」と少年は答える。そして、さらに「なら、学校にいけばいいじゃないか、自分のやりたいことをやりなさい。」と話す。なんだか問題が解決されそうだが、これでは、ことの本質であるいじめという問題の但し書きに目をそむけているだけだ。ぼくらは、解決を急ぐあまりに、問題の但し書きを無視することがある。しかし、そこで得た解決はすべて抽象的な解決方法で現実の問題に対処していない。抽象論が多い現状の中で、ぼくらがほんとうに必要としているものは、常に具体的な解決方法なのだ。