小稲の系譜 |
初代から五代までの小稲の系譜です。
|
| HOME|四代目左近小稲|小稲と男たち|小稲の系譜|稲本屋マニアック[稲本樓繁盛記]|小稲と三遊亭円朝|小稲と歌舞伎役者たち|考察・高橋由一『花魁図』|小稲メモ|新選組&旧幕府脱走軍 情報処|[新選組【美術】計画] |
![]() |
小稲の系譜 |
![]() |
稲本楼に小稲の名は、天保年間末には確認でき、4年から9年ほどの間隔で代替わりしていったと考えられます。 明治9年9月5日付の『仮名読新聞』に初代から五代までの小稲の簡単な系譜が掲載されています。 (この当時の『仮名読新聞』は国立国会図書館に行けば復刻版を見ることができます) 以下、記事より(読みやすくするために、若干直してあります)。 *** ○ この間中、諸新聞で評判の有った稲本楼の娼妓小稲は、ヤレ湯治に行くの、又は自由の身となるのと喋々いったのは全く当たらぬ風説で、実は先頃稲本の楼主(あるじ)と争論(あらそい)が出来、妾(わたし)が居ないと二階も三階も暗闇だ、困らせてやろう、と遂に元地[吉原]の紅髯楼[角海老]へ住み替えをして、名を小紫と改め五枚目にならぶ上等の部へ坐ったのは女質しくし売り損なった了見違い、仮宅の日延べは出まいと思い込んで、元地で一花咲かせる目算が瓦礫離(がらり)と違い、思うように客もないので、また深川へ帰り花元木に勝る梢木はない、と後悔をしているという。 ○ 初代小稲 相撲年寄 追手風の妻となり、本夫(おっと)亡きの後、浅草橋場料理渡世 鈍尻庵に再縁す。 ○ 二代小稲 浅草中代地 蜻蛉何某(なにがし)の妻となり、本夫亡き後その居所を知らず。 ○ 三代小稲 右近小稲という。浪士何某の妻となり本夫処刑(おしおき)の後、行方知れず。 ○ 四代小稲 左近小稲という。近来の名妓。当時有馬屋某の本妻か権妻。 ○ 五代小稲 初名(はじめな)福壽。解放(ときはなし)後、小稲となり、当時角海老に在りて小紫と改名の由(よし)。 *** ※ 補足 ここでの「当時」は、今で言う所の「現在」の意味に相当すると思います。 小稲が五代まで、という情報はあくまでも明治9年の時点での話で、すでに通説となっていますが、その後のことはまだ完全には解っていません。 浮世絵には明治10年、14年などでも描かれています。しかし過去の四代や五代小稲を描いている可能性もあるのです。いまだ『吉原細見』などの名簿の中では、その存在(五代以降)を確認できていません。 **上の画像 三代歌川豊国(初代国貞)「新吉原稲本内 小稲」 個人蔵 *北九州市立美術館所蔵のものと同様の作品(と思われる)。 小稲を描いた最も有名な?錦絵の1枚。 そちらの情報を引用すれば「1861 錦絵・和紙 37.2×25.5cm」 1861年(文久元年)作とすると、三代豊国最晩年の頃となる。 刷りの年とも考えられるので、断定は出来ないが、その時期に該当するのは、代替わりしたばかりの三代右近小稲。 しかし引退前の二代小稲である可能性も高い。 作品所蔵者の方に御許可をいただいての掲載です。以下、全ての画像の転載・無断使用を禁じます。 |
![]() |
初代小稲・二代小稲 |
![]() |
四代以前の小稲も当時の人気絵師達の筆により多く描かれています。 浮世絵には、その小稲が何代目かまでは、まず書かれていないので、制作された時期で区別するのが方法の一つです。 現在、天保年間から明治半ばまでの『吉原細見』を比べたところ(稲本楼所属の花魁を一覧にしています)、稲本楼(稲本屋)は、安政年間に江戸町二丁目から角町へと引越しをしているのが解ります。 安政二年の秋の大地震による吉原大火の後、仮宅に移りますが、どうやら再び吉原に戻る際に、角町へと移転したようです。 安政五年春の細見では、すでに住所は角町となっており、その後の数年置きの大火で仮宅に移っても、吉原での住所は変わっていないようです。 明治維新以降も稲本楼は角町にあり、昭和初期の吉原地図でも同様です。 そして今現在も業種こそ違えどやはり同じ吉原の角町に存在することには驚かされます。 初代小稲が描かれているものを探すとなると、「江戸町二丁目 稲本屋 小稲」などとタイトルに入っているものならば、可能性が高いと思われます。 稲本楼は幕末の新吉原の中では、比較的新興の妓楼であり、全盛期は明治初年以降であるように見えます。 小稲の人気は、稲本楼が大見世になっていく要素の一つであったと考えています。 初代と二代の代替わりの時期については、現在調査中です。 **上の画像 歌川国貞(三代豊国)「吉原高名三幅対」3枚組より「稲本うち小稲」 個人蔵 *国立国会図書館所蔵のものと同様の作品(と思われる)。 同館には刷り年の違うモノが2組あるようです。安政六年と万延元年版です。基本的には早い方を制作年とすると思いますので、二代小稲の時期にあたります。 ちょうど下記の『細木香以』での香以、もしくは河井継之助が稲本楼に通っていた頃ですね。 |
![]() |
三代右近小稲 |
![]() |
**上の画像 「柳街梨園全盛花一対(市川米升、稲本楼小いな)」 三代歌川豊国 筆 歌川国久 画 元治元年 東京都立中央図書館東京誌料文庫 所蔵(画像の転載、無断使用等を固く禁止いたします) 三代は小稲を名乗る前の名が「右近」であることが解っています。 小稲を名乗った時期ですが、文久元年秋の仮宅での『吉原細見』には、右近の名が消え、その前年秋まで筆頭花魁だった小稲の名が6番目に書かれていることから、すでに二代から三代への引継ぎがあったことがはっきり解ります。 そして引退の時期は『廓雀小稲の出来秋』によれば、「同年(慶応元年)の暮れ小稲は伊勢町の商人松居某に根引せられまじめな女房役となりし-」、とあり翌年初めには四代目小稲が誕生していますから、 文久元年(万廷二年・1861年)〜慶応元年末(1865年) が三代右近小稲が小稲であった時期と断定して良いと思います。 私の現在の調査では、はっきりと小稲を名乗っていた時期が断定できるのは、この三代と四代左近小稲だけです。 途中で角海老楼(もしくは海老屋)に住み替えした五代小稲を除けば、小稲を名乗った時期が一番短いのは、この三代小稲かもしれません。 吉原細見による推定の以前、森鴎外著『細木香以』の中に安政年間から文久元年にかけて二代小稲と三代との代替わりに関する一文が書かれている、との御情報をいただいていました(ゆうきさん、ありがとうございました)。 結果、細見と比較しても鴎外(細木香以)による一文は全く矛盾が無く、当時実際に稲本楼を訪れた人物による、貴重な記録です。 文久元年の夏に仮宅の稲本楼(松井町)には、すでに二代小稲と花鳥がいないこと、その小稲の突き出しであった右近が新しい小稲となっていた事が記されていました。 参照までにその前後の「吉原細見」の一部を引用します。 ****** ◎ 万廷元年 萬廷紀元庚申孟秋 (仮宅) > 角町 中見世 よびだし7人在籍 > 松井町之部 稲本屋 稲本庄三郎 > 小稲 よびだし > 花鳥 よびだし > 稲葉 よびだし > 綾織 > 姫萩 > 篠原 > 明石 > 小門戸 よびだし > 右近 よびだし > 吾妻戸 > 小糸 > 鳰鳥 > 竹川 > 久方 よびだし > 左近 よびだし > 此花 > 滝本 (以下 略) ◎ 文久元年 辛酉仮宅の秋 吉原細見 > 松井町之部 中見世 稲本屋 稲本庄三郎 > 花鳥 よびだし > 稲葉 よびだし > 綾織 > 篠原 > 明石 > 小稲 よびだし > 吾妻戸 > 鳰鳥 > 小門戸 よびだし > 小糸 > 久方 > 左近 よびだし > 松嶋 > 竹川 > 此花 > 滝本 > 小晒 (以下 略) ****** これを見ると、細見と現場には、タイムラグがありますので、細木香以達が訪れた文久元年の夏には、細見上には「花鳥」が存在していても、実際には引退直後でもう稲本楼にはいなかったことが解ります。 吉原細見の並び順は、「よびだし」などの花魁としてのランクだけではなく、年齢なども含めた独自の「格」を基準にしている匂いがします。 この裏には、女性同士のプライド、嫉妬、上下関係等から生じる激しいバトルが展開されていた事でしょう。 この時期の稲本楼は、小稲(二代)、花鳥と看板花魁の2人を次々と失ったことになりますね。 稲本庄三郎、大ピーンチ! 上の画像の正式なタイトル(中の歌を含む)は、 「柳街梨園全盛花一対」「三座の米櫃比ス御所の五郎蔵 市川米升」「五町街の金箱さつきになぞらふ 稲本楼小いな」 です。 制作年が元治元年ですから、まず三代右近小稲を描いたもので間違いないと思います。 「七十九歳豊國筆」の落款がありがたいです。 ◎右近小稲の謎◎ トップに引用した明治九年時点での系譜には、「浪士何某の妻となり本夫処刑の後、行方知れず。」と書かれていますが、『廓雀小稲の出来秋』では、上記の通り「伊勢町の商人松居某に根引せられ」となっています。 この辺りはまだ謎です。 |
![]() |
四代左近小稲 |
「近来の名妓」と賞される四代小稲です。 |
![]() |
五代小稲 |
五代小稲は初名を「福寿」といい、明治五年秋の娼妓解放令後の四代小稲の引退を受けて、五代小稲となります。 後に稲本楼から角海老楼(海老屋)に住み替え(移籍)をし、小紫(濃紫)を名乗りました。 小紫と濃紫は、基本的に同じ名前を示していると考えて良いと思います。どちらも音は「こむらさき」です。 他にも小糸を「濃糸」と記しているものも見ています。 ここには江戸の人々が濃い紫の色を見て「こむらさき」と読んでいたという背景を感じさせます。 ***** 画像は作者不詳(豊原国周の作である可能性が高い)「稲本樓内 白露」「海老屋内 羽衣」「海老屋内 濃紫」 明治五年 - 明治中頃 個人蔵 向かって左の立兵庫に結って立っていて、濃い紫!の襟の着物の女性が濃紫。 海老屋には、明治五年以前に濃紫(小紫)という名の花魁は私が調べた限り、一度も在籍しておらず、この濃紫は、稲本楼より住み替えて名を変えた五代小稲である可能性がある。 (現在、慶応元年版を除いた幕末期の全ての細見に目を通している) これが「角海老屋」の「濃紫」で明治10年以降の作品であるならば、次代の濃紫(小紫)の存在は確認しているので、そちらの可能性もありえるが、「海老屋」であることがポイント。 しかし、海老屋が角海老となった後も、混在して使われていたり、小さく上に「角」と入って海老屋と書かれている細見も見ているため、まだ断定は出来ない。 そして何より、五代小稲が角海老屋(海老屋)に移籍した時期が絞り込めていない。 明治六年から明治九年九月までの、どこかであることは間違いないのですが。 奥にいるお客の男性が、すでに髷が無いように見えるため、断髪令の後ではあると思います。 タッチや赤の多さから考えても明治に入ってからの作品なのは間違いないでしょう。 |
![]() |
![]() |
| HOME|四代目左近小稲|小稲と男たち|小稲の系譜|稲本屋マニアック[稲本樓繁盛記]|小稲と三遊亭円朝|小稲と歌舞伎役者たち|考察・高橋由一『花魁図』|小稲メモ|新選組&旧幕府脱走軍 情報処|[新選組【美術】計画] |
|