稲本屋マニアック[稲本樓繁盛記] |
新吉原における稲本楼と花魁たちの隆盛。
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稲本屋の出現 |
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天保年間の末、新吉原江戸町二丁目に稲本屋庄三郎による稲本楼は出現します。 (それ以前にも同名の「稲本や」は「角町十二軒」という小さなゾーンの中にもあったようですが、妓楼と呼べるような規模の店ではないようです。) 天保14年春の『新吉原細見』によれば、豊本、小稲の2人の「よびだし」花魁の他に、「座敷持ち」の記号で表される中堅クラスの遊女十数名をかかえています。 大見世ほどは大きさと格式の無い、明治以降の表現で「中見世」と称されるランクの妓楼です。 翌々年の弘化二年春には「よびだし」は3人、弘化四年春には4人、と増えて、新興でありながら着々と格式を上げていったようです。 ちなみにその当時(天保14年)、有名花魁の濃紫を擁する大見世・玉屋(江戸町一丁目)には、「よびだし」が10人在籍しています。 (当時の花魁の最上「よびだし」にも、正確には更に細かく値段的なランクがあるのですが、ここでは省略します) 楼主・稲本庄三郎は、ずいぶんと商才がある人だったようで、大火にもたびたび見舞われ戊辰戦争により政権までひっくり返ってしまった幕末から明治初期の動乱の時代に、稲本楼を吉原で1、2を争う大見世へと成長させていきます。 安政大地震による吉原大火の後、仮宅への引っ越しを経て、本地(新吉原)に戻ってきた際にどうやら角町へ移転したようです。 それ以降は、よく知られた響き「新吉原角町の稲本楼」となるわけです。 **上の画像は豊原国周の「稲本楼」三枚組のタイトルにあたる部分。 「新よし原角町」「稲もと樓」と書いてあります。 |
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稲本楼お抱えの遊女たち |
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天保年間から明治、大正を経て、昭和33年まで続いた吉原稲本楼に所属した花魁たちの紹介です。 何代も続く「名」もあれば、初代で欠番となった「名」、数年ぶりに復活する「名」もあります。 **上の画像 豊原国周「新吉原角町稲本楼」3枚組 慶応元年--明治五年頃 個人蔵 描かれた遊女(向かって左より順・名前のある者) 鳰濱、七越、在原、陸真、清原、逢初、汲照、花鳥、久方、小稲、松ケ枝、白露、薄衣 |
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稲本楼 明治へ |
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**上の画像 歌川芳虎「吉原花魁図 稲本楼」3枚組 明治元年--四年頃 個人蔵 作品所蔵者の方に御許可をいただいての掲載です。転載・無断使用を固く禁じます。 「吉原細見」は、基本的には毎年出版されていますが、幕末期はたびたびの大火と戊辰戦争前後の混乱もあってか、全ての年に出てはいないようです。当時の発行部数を考えると現存するものは多くは無いですが、図書館や資料館や個人の収集家によって少しづつ所蔵されています。 ここでは、慶応四年(明治元年)と翌々年の明治三年、そのまた翌々年の明治五年の細見を比較して、稲本楼が大見世になっていく軌跡の後半を考えたいと思います。 ◎ 慶応四年 戊辰の梅月(春) 「吉原細見記」 角町 中見世 よびだし7人在籍 小稲 よびだし 井筒 よびだし 花鳥 よびだし 若柳 薄衣 よびだし 在原 よびだし 野分 千代田 八千代 小倉 よびだし 名山 よびだし 佐山 小餘綾 花柳 清川 滝橋 松風 一濱 雲橋 元 久 楽 (以下 小字) ◎ 明治三年 庚午孟春 「新吉原細見」 角町 中見世 よびだし12人 在籍 小稲 よびだし 花鳥 よびだし 染之助 よびだし 在原 よびだし 小倉 よびだし 井筒 よびだし 野分 よびだし 名山 よびだし 千代田 八千代 薄衣 よびだし 顔鳥 よびだし 清原 よびだし 倉入 よびだし 小餘綾 緑木 佐山 清川 若柳 松風 元 久 楽 (以下 小字) ◎ 明治五年 壬申の春 「吉原細見」 角町 ■大見世 よびだし20人在籍 小稲 よびだし 染之助 よびだし 在原 よびだし 小倉 よびだし 香川 よびだし 稲葉 よびだし 清川 よびだし 曇淀 よびだし 薄衣 よびだし 倉入 よびだし 顔鳥 よびだし 清原 よびだし 小万 よびだし 若妙 よびだし 静波 よびだし 福寿 よびだし 喜長 よびだし 今川 よびだし 明石 よびだし 玉照 よびだし 元 久 楽 (以下 小字) 鳰濱 初浦 小花 「■」は吉原細見で用いられている「大見世」を表す記号です。 安政年間の終りから、稲本楼の「呼び出し」花魁の人数は、ずっと5人から8人の間で収まっていたのですが、明治元年以降、いきなり倍増しています。 どうも「呼び出し」の基準が少し緩くなっているのではないでしょうか。 維新を境に新吉原になんらかの事情があったことは見受けられます。 そして遂に明治五年、(杉浦)庄三郎の稲本楼(稲本屋)は、大見世となります。 この年の春までに、四代左近小稲は高橋由一により「兵庫下髪」姿を油画で描かれ、6月下旬には、船と汽車に乗って、横浜への豪遊旅行を行っています。 10月の娼妓解放令を機に、小稲は吉原から出ていきますから、明治五年は話題に事欠きません。 日刊新聞などの定期的に発行されるマスメディアが登場し、それまで「街の噂」「クチコミ」レベルだった小稲の「伝説」が、活字化され記録として残ることになります。 明治五年の細見の中にいる「福寿」は後の五代小稲です。 順番から考えると、かなり若かった可能性があります。 「近来の名妓」と呼ばれた左近小稲の名を継ぐ重圧もきっとあったに違いありません。 |
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