古典の現代語訳を一覧にしてみました。これからもまだまだ更新していきます。また、章段の不明なものは
わかり次第記入していきます。
平安時代
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伊勢物語 九段 |
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昔、ある男がいた。その男は自分のことを必要とされないものと思い、「(自分は)京にはいないつもりだ、東国の方に住むのによい国を探しに(行こう)」といって行ってしまった。以前からつき合いのある友人一人二人と一緒にいった。 道を知っている人もいないので、迷いながら行った。三河の国の八橋という所に着いた。 そこは、水が蜘蛛の足のように分かれて流れているので、橋を八つ渡していたことによって八橋と呼ぶようになったのである。その水辺の木かげに下りて座って、乾飯を食べた。その沢にかきつばたがとても美しく咲いていた。それを見て、ある人が、「かきつばたという五文字を句の頭において、旅の気持ちを詠め」と言ったので、詠んだ歌、 (日常着なれた)唐衣のように、馴れ親しんできた妻が(都に)いるので、そこからはるばるやってきた旅を(しみじみと)を思う。 と詠むと、みんな乾飯の上に涙を落としてふやけてしまった。
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伊勢物語 四十六段 |
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昔、ある男が、たいそう立派な友だちをもっていた。片時も忘れずに思い合っていたが、(その友だちが)他の国へ行くことになったので、とても悲しいと思って、別れた。月日がたって(その友だち)がよこした手紙に、「驚くほど長い間会わないで、月日がたってしまったことです。(私のことを)お忘れになってしまわれたのであろうかと、たいそう心寂しく思っています。世間の人の心は、場所が離れていると忘れてしまうものであるようです」と書いてあったので、(男は)歌を詠んでやった。 場所が離れていると思えないから、忘れていられる時もありません。だから、あなたの面影が私の目の前に浮かんできます。
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伊勢物語 八十五段 |
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昔、男がいた。(その男が)幼いころから仕えていた主君が、出家なさった。正月には必ずお訪ねした。(しかし、男は)朝廷への宮仕えもあるので、いつもおうかがいすることができなかった。けれど、昔の心を忘れずお訪ねしたのであった。 昔お仕えしていた人々、俗世間の人も、禅師も、たくさんの人が訪問して集まって、正月なので特別なことをしようと言って、御酒をくださった。(空から)雪がこぼれるようにたくさん降って、朝から晩までやまなかった。人々はみな酔って、「雪に降り込められている」という題で歌を詠んだ。 ご主人のことをお慕い申しても、宮仕えをする私は身体を二つに分けておそばに仕えることはできないので、こうして止むことなく雪が降り積もって帰れなくなることが、おそばにいたいという私の心にかなうことですよ。 と(男が)詠んだので、親王は、とても深く感動なさって、(自分の)衣を脱いで(ほうびとして)与えたのであった。
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伊勢物語 第百一段 |
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昔、左兵衛督であった在原の行平という人がいた。その人の家に良い酒があるということを聞いて、左中弁の藤原良近という人を、正客として招待し、その日はおもてなしの宴を開いた。(行平は)風流の心をもっている人だったので、瓶に花をさしてかざっていた。その花の中に、不思議なほど大きい藤の花があった。花の房がしなって、三尺六寸ほどもあった。それを題にして、歌を詠んだ。 (一同が)詠み終わったころ、あるじ(行平)の兄弟である人が、宴を催していらっしゃると聞いてやってきたので、呼び止めて歌を詠ませた。もともと和歌のことは知らなかったので、(男は)断ったけれど、強いて詠ませたので、このように詠んだ。 咲く花の下に隠れる人が多いので、以前にも増して藤の蔭が大きくなっていることよ 「どうしてこのように詠むのか」と聞くと、(男は)「太政大臣殿が、今、栄華のさかりでいらっしゃって、藤原氏一門が、格別に栄えていることを思ってこのように詠んだのです」と言った。みんなは、文句を言わなくなった。
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土佐日記 「かしらの雪」 |
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二十一日、午前六時ごろに船を出した。他の人たちの船もみんな出発した。これを見ると、春の海に、秋の木の葉が散っているようであった。安全を願ってする並々でない祈願をしたおかげであろうか、風も吹かず、天気もよくなって、漕いでいった。 このような航海に、使ってもらおうとしてついてくる子どもがいた。その子どもが歌う船歌は、 やっぱり故郷が見たくなるものだな 父さん母さんがいると思うので帰ろうよ と歌うのが、しみじみとしたよい感じであった。 このように歌うのを聞きながら漕いでいくと、黒鳥という鳥が、岩の上に集まっていた。その岩のもとに波が白く打ち寄せている。楫取は、「黒い鳥のもとに白い波が寄せている」と言った。その言葉は、何ということはないけれども、とても風流な詩文の秀句を言うように聞こえた。楫取という身分にふさわしくないので、気にとまったのである。
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枕草子 第百五十一段 |
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かわいらしいもの。瓜に描いた幼児の顔。雀の子が、ねずみの鳴きまねをして(ちゅうちゅうと)呼ぶと、(こちらに)踊るようにやってくる(様子)。二、三歳くらいの赤ん坊が、急いではってくる途中に、非常に小さいごみがあったのを目ざとく見つけて、とてもかわいらしい指でつまみあげて、大人などに見せている様子は、大変かわいらしい。おかっぱ頭の幼児が、目に髪がかぶさってくるのを(手で)かき上げないで、首をかしげてものなどを見ている様子も、かわいらしい。 あまり大きくはない殿上童が、着物を着させられて歩く姿もかわいらしい。かわいらしい幼児が、(こちらが)ほんのちょっと抱いたり遊ばせたりしてかわいがっている間に、しがみついて寝ているのは、とてもいとおしい。 人形遊びの道具。蓮の浮き葉でとても小さいのを、池から取り上げたもの。葵のとても小さいもの。どれもこれも、小さいものはすべてかわいらしい。 たいそう白く太った幼児で二歳くらいの子が、二藍の薄ものなど、丈が長くてたすきを結んでいるのが、また、着物の丈の短い幼児が、袖ばかりが目立つようなのを着て歩くのも、みんなかわいらしい。八つ、九つ、十くらいの男の子が、声は幼げな感じで漢文の本を読んでいるのも、とてもかわいらしい。 にわとりのひなが、足のすねが長くて、白く愛らしい様子で、着物を短く着たような様子をして、ぴよぴよと騒々しくなき騒いで、人の後ろや前に立って歩くのもかわいい。 また親鳥が、一緒に連れ立って走るのも、みんなかわいらしい。家鴨や鵞鳥の卵。瑠璃色をした壺。
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枕草子 第三十九段 |
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うぐいすは、漢詩などにも素晴らしいものとして書いてあり、声をはじめとして姿や形も、これほどまでに上品でかわいらしい鳥であるわりには、宮中で鳴かないことがとてもつまらなく感じられる。 (省略) ほととぎすは、全く言い表すことができないくらい素晴らしい。いつの間にか得意そうな顔で鳴いているのが聞こえているのに、卯の花や花橘などに宿って、(姿がその陰に)ちょっと隠れているのも、心憎い気構えだ。 五月雨の(ころの)短い夜に、目をさまして、なんとかして他の人よりも前に聞こうと待っていると、夜がまだ深いころに鳴き出した声が、あかぬけしてかわいらしいのは、たいそう心がひかれてどうしようもない。(陰暦の)六月になってしまうと、全く音もしなくなってしまうのは、普通では表現できないほどよいものなのである。 夜に鳴くものは、何もかもすばらしい。(ただし)人間の赤ん坊だけはそうでもない。
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堤中納言物語 「はいずみ」 |
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この男は、とてもせっかちな気性で、ちょっと(行ってみる)と、新しい妻のもとに、昼間なのにやって来るのを(侍女が)見て、新しい妻に「間もなく、殿が、いらっしゃいますよ」と言うと、(新しい妻は)すっかりくつろいで座っていた折で、慌てて、「(化粧箱は)どこ、どこにあるの」と言って、櫛の箱を引き寄せて、おしろいを付けようと思った。ところが、取り違えて、掃墨が入った畳紙を取り出して、鏡も見ないで、ざっと身支度をととのえて、女は、「そこで、ちょっと待って。お入りにならないで下さい。と言いなさい」 と(侍女に)言って、夢中で顔になすりつける間に、男は、「まったく早ばやとお見かぎりなさるなあ」と言って、簾をもち上げて入ってきてしまった。(新しい妻は)畳紙を隠して、いいかげんになすって、袖で口をかくして、優雅に化粧を仕上げていると思っていたが、(顔には)まだらに指でこすった跡がついていて、(黒い顔の中で)目がぎょろぎょろとして、まばたきしている。 男は、(女の顔を)見て、あまれはてて、珍奇なことだと思って、どうしたらよいかと恐ろしかったので、近くにも寄らないで、「まあ、しばらくしてから、参りますよ」と言って、ちょっと見るのも気味が悪いので、立ち去ってしまった。 女の両親は、(男が)やって来たと聞きつけて、(娘の家に)来たのだが、(侍女が)「もうお帰りになりました」と言うと、「驚きあきれるほど、未練のないお心であることよ」と言って、姫君の顔を見たところ、とても恐ろしい形相になっていた。怖くなって、両親も倒れてしまった。
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更級日記 「宮仕へ」 |
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母は、尼になって、同じ家敷内ながら、別棟に離れて住むこととなった。父は、ただ私を家政を担当する人として家におき、自分自身は世間とも交際しないで、世間から引きこもっているような状態でいるのを見るにつけても、頼みがいがなく、心細く思われていたときに、わたくしのことを聞き知っている知り合いの方が、「何をするでもなく、所在なく、心細い状態で過ごしているよりは(宮仕えでもするほうがいい)」とお召しになるが、古い時代の親は、宮仕え人はとてもつらいものだと思ってそのまま過ごさせたが、「今の時代の人は、そのようなことは思い切って決心しなさい。そうしていると自然と良いこともあるでしょう。そのようにやってみなさい」という人々がいて、(父は私を)不承不承に、(宮仕えに)お出しになる。 まず、一晩参上する。蘇芳色の濃淡のついた八枚の着物の上に濃い紅色のやわらかな表着をつけた。あんなに物語に夢中になって、それを見る以外に、交際する仲間も親戚も格別になく、古い時代の親に守られ、月や花を見る以外のことはすることのない生活だったので、このたび、晴れがましく御所の人の中に出仕するときの心地は、すっかり上気して夢見心地のまま、明け方早く退出してしまった。
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今昔物語集 巻十九 |
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今ではもう昔のことだが、忠明という検非違使がいた。若者であったとき、清水の橋殿で、京童とけんかをした。京童は、刀を抜いて、忠明を追いつめて殺そうとしたので、忠明も刀を抜いて、御堂の方向に逃げた。(ところが)御堂の東の端に、京童が大勢立っていて、(自分の方に)向かってきたので、そちらの方に逃げることができなくて、(そこにあった)蔀の下側(の板)を(手に)取って、脇に挟んで、前の谷に飛び降りたところ、蔀の下側が風に激しく吹きつけられて、谷底に鳥が舞い降りるように、次第にゆっくりと落ちていったので、そこから(忠明は)逃げていった。京童は谷を見下ろして、びっくりして立ち並んで見ていた。 忠明は、京童の刀を抜いて立ち向かったとき、御堂の方に向いて、 「観音様、お助け下さい」 と申し上げたので、ただただこれも観音のお蔭であると思ったことだ。 忠明が語ったのを聞き継いで、こう語り伝えているということだ。
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今昔物語集 巻十九第四十一 |
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今となっては昔の話だが、いつの頃のことであったのだろうか。 清水(寺)に参詣にきた女が、幼児を抱いて御堂の前の谷をのぞいて立っていたところ、どうしたのであったか、子供を取り落として谷に落とし入れてしまった。 はるか下に落とされるのを見て、どうしようもなく、御堂の方に向かって手を摺り合わせて「観音様、お助けください」とあわてふためいてしまった。 「今となってはすでに死んだ者」と思ったけれども、「様子を見よう」と思って、心を乱しつつも下りてみると、観音がかわいそうだとお思いになったのであろう。 全く傷もなく、谷底の木の葉が多く積もっていた上に落ちかかって(幼児は)横になっていた。母は喜びながら抱き寄せて、ますます観音を泣きながら拝み申し上げた。 これを見た人は、みんな意外なことだと思い、大騒ぎした、と語り伝えているということだ。 |
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古本説話集 (章段は不明です) |
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今ではもう昔のことだが、式部大輔匡衡は、官吏になるために学ぶ学徒で、たいへん優れた人である。 宇治大納言のところにいた。漢学の才能はとても優れていたけれど、容姿はそれほど良くなかった。身長が高く、怒り肩で、見た目が良くなかったので、女房たちは 「からかって、笑おう」 といって、和琴を差し出して、 「いろいろなことに長じていらっしゃるということなので、これをお弾きになってください。(私たちは)聞きたいです」 と言ったところ、(匡衡は)和歌を詠んで、 「逢坂の関の向こうもまだ見たことがないので、東国や和琴のことは知ることができないのです」 と言ったので、女房たちは笑わないで、静かに部屋に帰っていってしまった。 |
鎌倉時代
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方丈記 巻6−8 |
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それほど昔のことではないが、市正時光という笙吹きがいた。茂光という篳篥師と囲碁を打っていて、声をそろえて裹頭楽を唱えていたところ、面白く思われてきたときに、天皇が急用で時光をお呼び寄せになった。 (天皇の)使いがきて、このことを(時光に)伝えると、どのように言っても、(時光は)聞き入れず、ただ(茂光と)一緒に体を揺らして唱えていて、何とも返事をしなかったので、使いは、帰って(天皇のところに)参上して、このことをありのままに申し上げた。(使いが)どのようなおとがめが(時光に)あるだろうかと思っていたところ、「とても見事な者どもだな。それほどまでに雅楽に夢中になって、どんなことも忘れるくらいに思うというのは、とても尊いことだ。王位(についている)というのは残念なものだ。行って彼らの唱歌を聞くことができない」と言って涙ぐみなさったので、使いは意外だと思った。
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方丈記 「処世の不安」 |
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もしも、自分が、つまらない人間で、権力のある家の傍らにいる(権力者に仕えている)のならば、深く喜ぶことはあっても、心から楽しむことはできない。心から泣きたいときでも、声をあげて泣くことはできない。隣家(権力者)との人間関係に気を遣い、立ったり座ったりするたびに(ちょっとした行動にも)、恐れおののく様子は、たとえば、雀が鷹の巣に近づいたときのようだ。もしも、(自分が)貧しくて、裕福な家の隣に住んでいたなら、朝夕みすぼらしい姿を恥じて、おせじを使いながら出入りするようになる。妻子や召使の少年が(隣家を)うらやんでいる様子を見るにつけ、(また)裕福な家の者が人をばかにする様子を聞くにつけても、そのたびごとに心が動揺して、一瞬たりとも心が安らがない。もしも、狭い土地に住んでいるなら、近くで火事があったとき、その災難を逃れることができない。もしも、片田舎に住んでいるなら、行き来をするにも(町に出るにも)苦難が多くて、(また)盗賊の災難に遭う心配も著しい。また、勢力をもっているものは貪欲で、だれともつながりのない者は人から軽く見られる。財産があれば心配が多く、貧しいと恨みが切実である。人を頼りにして当てにすると、自分自身を見失ってしまう。他人を大切にすると、自分の心がその人を愛することにつかわれて振り回されてしまう。世間の考え方に従うと窮屈である。(しかし)従わないと、世間からまともに扱ってもらえない。(この世で)どんな位置を占め、どんな生き方をすれば、少しの間でも存在することができ、(また)ほんの少しの時間も心を休められようか。
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宇治拾遺物語 巻第十三 一七一 |
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今ではもう昔の話だが、唐にいた僧が、天竺に行き、余念なく、物珍しさにあちらこちら見物してまわっていた。(すると)ある山の片側に大きな穴がある。(そこに)牛がいたが、(その牛が)この穴に入っていくのを見て、見てみたいと思われたので、牛が行くのについていって、僧も入った。(穴の中を)ずっと行くと、明るい場所に出た。見回すと、別世界と思われるくらい、見知らぬ花で色の美しい花が、咲き乱れている。牛が花を食べていた。(僧は)試しにこの花を一房取って食べてみたところ、そのおいしさといったら、天の甘露もきっとこうであったろうと思われて、すばらしい味だったので、たくさん食べたので、(僧は)太りに太ってしまった。 (僧は)思わず(太った自分の姿に)恐ろしくなって、もと来た穴に引き返したが、前には容易に通り抜けた穴なのに、体が太くなって、狭く感じられ、やっとのことで、穴の出口まではたどりついたけれども、出ることができないで、(息苦しくて)たえられなくなった。(穴の)すぐ前を通る人に、「私を助けてくれ」とさけんだけれども、耳に聞きとめる人もいない。助ける人もいなかった。人の目に(僧は)どのように映っていたのだろうか、不思議である。そのまま何日もたって、(僧は)死んでしまった。後に(僧は)石になって、穴の口から頭を差し出した形であった。三蔵法師がインドに渡った際の日記にも、このことが記録されている。
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宇治拾遺物語 「柿木に仏現ずる事」 巻第二 |
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昔、醍醐天皇の時代に、五条の天神の辺りに、大きな柿の木で、実のならない柿の木があった。その木の上に仏が現れなさった。京の人は皆そろってお参りした。馬も車も立ち止まれないで、人の流れを止めることもできないありさまで、(みんなは)拝んで大騒ぎしていた。 そうこうするうちに、五、六日たって、右大臣殿は、納得がいかなくなって、「ほんとうの仏が、現世に出ていらっしゃるはずはない。私が行って見てみよう」とお思いになった。(右大臣は)朝廷での正装をきちんと整えて、(地位の高い人が乗る)牛車に乗って、(道の前方にいる人をどかせる)役人をたくさん引き連れて、集まっている人たちをどけさせ、牛車を牛からはずして台を立てて、(木の)こずえを、まばたきもせず、わき目もふらずにじっと見つめて、一時ばかり(そうして)いらっしゃった。すると、この仏は、しばらくは花も降らせ、光も発したりされたが、あまりにも見つめられすぎたので、どうすればよいのか困り果てて、(仏に化けていたところの)大きなくそとびで、羽が折れたくそとびが、土に落ちて、あわてふためいていているのを、子どもたちが寄ってたかって、打ち殺してしまった。大臣は「思ったとおりだ」といって、お帰りになった。そして、当時の人々は、この大臣をたいそう〈立派で優れている人〉でいらっしゃるとほめたたえた。
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宇治拾遺物語 巻第三 四十 |
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今ではもう昔の話だが、木こりが、山守に斧を取られて、困った、つらいことだと思って、ほおづえをついていた。山守が(木こりを)見て「(返してほしいのなら)相応のことを言え。(そうしたら)返してやろう」と言ったので、 悪い物でさえ物がないというのは何かと暮らしに困るのに、良い物である斧を取り上げられて、(私は)どうしたらよいのか。 と(木こりが)詠んだところ、山守は返歌をしようと思って、「うううう」とうめいたけれども、(木こりの歌があまりにすばらしかったので)歌を返せなかった。そうして(山守は木こりに)斧を返したので、(木こりは)うれしいと思ったということだ。 人はひたすら(日ごろから)心がけて歌を詠むべきだと思われる。
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宇治拾遺物語 巻第一 一六 |
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今ではもう昔の話だが、丹後国(現在の京都府北部)に年老いた尼がいた。(尼は)地蔵菩薩が毎日明け方にお歩きになるということを、小耳にはさんで、毎朝明け方になると、地蔵のお姿を拝見しようとして、あてもなく外を探し歩いていた。すると、退屈そうなばくち打ちが(尼の様子を)見て、「尼君は、この寒いときになにをなさっているのですか」と言うと、(尼は)「地蔵菩薩が明け方にお歩きになるということなので、お会いしようとして、このように歩いて(探して)いるのです」と言った。すると(ばくち打ちが)「地蔵がお歩きになる道は、私が知っているので、さあいらっしゃい、会わせて差し上げましょう」言ったので、(尼は)「ああ、うれしいことよ。地蔵のお歩きになる所へ、私を連れていってください」と言った。(すると男は)「私に(礼として)物をください。すぐに連れていって差し上げましょう」と言ったので、(尼が)「この着ている着物を差し上げましょう」と言うと、(男は)「さあ、いらっしゃい」と言って、隣の家へ連れていく。 尼が、喜んで急いで行くと、そこの(家の)子に、じぞうという子どもがいたのを、(ばくち打ちは)その子の親と知り合いだったので、「じぞうは(どうした)」と尋ねたところ、親は「遊びにいった。もうすぐ帰るだろう」と言った。すると(ばくち打ちは)「ほら、ここです。じぞうのいらっしゃる所は」と言うと、尼は、うれしくて、つむぎの着物を、脱いで(ばくち打ちに)やると、ばくち打ちは、急いで(着物を)取って立ち去った。 尼が、地蔵を拝みたいと思って座っていたところ、親たちは、合点がいかず、なぜうちの子どもを見たいと思っているのだろうかと思っているうちに、十歳くらいの子どもが来たのを、(親が)「ほら、じぞうだよ」と言ったところ、尼は、(その子どもを)見てすぐに夢中になって、体を地に投げ出してころげまわって、拝み始めて、地面にひれ伏した。子どもは、細長い木の枝を持って遊びながら入ってきたが、その木の枝を使って、退屈をまぎらわせる手遊びのように、額をかくと、額から顔の辺りまで裂けてしまった。裂けた中から、何とも表現しがたいような立派な地蔵のお顔が、お見えになる。尼はよく拝んで、ふと仰ぎ見たところ、こうしてお立ちになっているので、(感激の)涙を流して拝み申し上げて、そのまま極楽へ参った。 だから、心にさえ深く念じていると、仏もお姿をお見せになると信じるのがよい。
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宇治拾遺物語 巻第五 七十 |
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これも今ではもう昔の話だが、山科への道すじで四の宮河原という所に、袖くらべという商人の集る所がある。その辺りに身分の低い者がいて、地蔵菩薩を一体お造りしていたが、開眼供養もしないで櫃の中に入れて奥の部屋あたりしまっておいたまま、日々の暮らしに紛れて月日がたったので、忘れてしまっているうちに、三、四年ほどが過ぎた。 ある夜、夢の中で、大路を通る者が声高に人を呼ぶ声がしたので、「何事だろう」と思って聞いていると「地蔵さん」と、高らかにこの家の前で言っているようだ。すると(家の)奥の方から、「何事だ」と答える声がするようだ。(外の声が)「明日、帝釈天が地蔵会をなさるのには、おいでになりませんか」と言うと、この小さい家の中から、「参りたいと思うが、まだ目が開かないので、お参りできそうになくて」と言う。すると(外の声は)「必ずおいでください」と言い、(家の中からは)「目も見えないのに、どうしてうかがえようか」と言う声がするようだ。ふと目が覚めて、どうしてこんなことを夢に見たのかと思案し、不思議に思っていたところ、夜が明けてから奥の方をよくよく見ていると、この地蔵を納めて置きっ放しにしていたことを思い出し、見つけ出したのであった。「これが夢にお見えになったのだ」と驚いて、急いで開眼し申し上げたということである。
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十訓抄 十ノ七十七 |
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白河院が天皇であったご時世に、九重の塔の金属の部分を、牛の皮でそれらしく作ったということが、世間のうわさになり、修理の責任者である、藤原定綱が、(白河院から)罪に問われるらしいということが、伝わってきた。仏像作りの誰それという者を白河院がお呼びになって、「たしかに、真実か、偽りかを見て、ありのままに申せ」とおっしゃったので、(仏師は)お引き受けして、(九重の塔に)上ったところ、途中くらいの所から下りてきて、涙を流して、顔色を失って、「命があるからこそ、白河院にもお仕え申し上げられる。正気もなくして、黒白の見分けもつかない気分です」と言い終えもせず、がたがた震えていた。白河院は、(その話を)お聞きになり、お笑いになって、特別な処罰も行わず、そのままで終わってしまった。
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十訓抄 一の二十七 |
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小松内府が、賀茂祭を見ようとして、四、五台ほどの牛車で、一条の大路にお出かけになった。見物の牛車が立ち並んで、すき間もなかったので、どの〈車〉を退けられるのだろうと、人々が注目していたところ、あるつごうのよい数台の車を引き出したのを〈見〉ると、だれも乗っていない車であった。 あらかじめ(自分が)見物する場所をとっておいて、他の人に迷惑をかけまいとして、から車を五台立てておすれたのであった。その当時の内府の威光をもってすると、どのような車であっても、争うことはできないけれども、六条の御息所の古い例をつまらないことだとお思いになっていのであろう。そのようなお心遣いは情趣深いものである。
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十訓抄 (章段は不明です) |
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人は思慮することなく、言ってはいけないことを口にすぐに出したり、人の短所をばかにしたり、(人の)やったことを非難したり、隠していることをあけすけに言ったり、(人にとって)恥ずかしいと思われることを問い正したりする、というようなことはすべてあってはならないことである。自分ではなんとなく言いふらしていて、気にも留めなかったようなことでも、言われた人が、深く思い込み、怒りが激しくなってくると、思いもよらないときに、恥をかかされ、我が身の終わりとなるほどの大事になることもある。笑みの中の剣というものは、そうでなくてさえ恐ろしいものであるのだ。また、よく知らないことを、悪く非難すると、かえって自分の愚かさを表すものになっしまうのである。およそ、口が軽い者(といわれるように)になると、「誰それにそことを聞かせるな。あいつには(それを)見せるな」などと(周囲の人が)言って、人には心を許されなくなり、隔てられてしまう。残念なことであるだろう。また、人の包み隠していることが、自然ともれてしまった場合でも、「あいつが話したのだ」などと疑われるようなことは、面目ないことである。だから、あれこれ、人の身の上についてのことは(口に出すのを)慎み、言いふらさないようにするべきである。
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十訓抄 六ノ三十六 |
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横川恵心僧都の妹、安養の尼の所に強盗が入った。あるものすべて、そっくりとって、出ていってしまった。尼上は、紙のふすまというものだけを引っ掛けて座っていらっしゃったところ、姉の尼の所に、小尼上という人がいたが(その人が)、走って安養の尼の所に参上した。(小尼上は、強盗が)小袖を一つ落としていったのを手にとって、「これを落としていきました(ぜひ着てください)」といってもってきたところ、尼上は、「それも(盗んでいった)後では、(強盗も)自分のものと思っているでしょう。持ち主が納得していないものを、どうして着ることができようか(いや、できない)。まだ遠くにはまさか行くまい。〈はやく〉呼び返して、お返しなさい」と言った。(小尼上は)門のほうに走っていって、「もし」と(強盗を)呼び止め、「これをお落としになりました。確かにお返ししました」と言ったところ、強盗たちは立ち止まって、しばらく考え込んで、「悪いことを致しました」と行って、盗んだものを、そのまますべて返して、帰っていった。 |
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古今著聞集 巻第16 |
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孝道入道が、仁和寺の家である人と双六を打っていたところ、隣に住んでいる越前房という僧が来て観戦するというので(観戦させたが)、いろいろなおせっかいをしたので、(孝道入道は)憎らしいと思った。(しかし)ものも言わないで双六を打っていたところ、この僧は、おせっかいをやめて立ちあがった。 「(僧が)帰った」と思って、亭主(孝道入道)は、「この越前房はいい加減なことを言う者だな」と言ったところ、その僧はまだ帰っていなくて、亭主の後ろに立っていた。孝道の(双六の)相手は、また悪口を言わせまいとして、亭主のひざを突いたので、(孝道入道は)後ろを振り返って見たところ、この僧はまだ(そこに)いた。このとき、(孝道入道)はすぐに、「越前房は高くもない。低くもない。ちょうどよい人だな」と言い直した。その頭の回転の速さは、とてもすばらしいものであったことよ。
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古今著聞集 (章段は不明です) |
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「私には、老いた母がいます。私以外には頼りにする人はいません。歳をとり、衰えて日常の食べものも口に合うものがありません。また私は貧乏で財産もないので、思うように(母を)養う力がありません。(母は)特に魚がないと食事を摂らないのです。このごろ、天下の法によって、魚や鳥の類がますます手に入れにくくなったことによって、(母の)身体の力がすでに弱ってきています。このような母を助けようとして、いてもたってもいられなくて、魚のとり方も知らないけれども、思い余って川の前に立ちました。罰を受けるであろうことは覚悟の上でございます。ただし、私がとったこの魚は、もはや放してやったとしても生き延びるのは難しいでしょう。私をしばらく自由にしていただくことがむりならば、この魚を母のもとへ届けてもらって、今一度新鮮な味の魚を(母に)食べていただいて、安心した上で、どのような処罰もお受けします」
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古今著聞集 (章段は不明です) |
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相撲の大会のとき、久光という相撲取りは、爪を長くはやして相手をひっかいていた。常世との取り組みのとき、常世は両手で(久光に)顔をひっかかれた後、久光の頭を胴体にめり込むほど押さえつけて攻めたので、久光はもだえ苦しんで気を失った。互いに離れて、(久光は)「もう相撲なんかやめることにするぞ」と言った。その後は、意識して(久光は常世と)相撲をとらなかった。左大将はしきりに、相撲をとって勝負をしろとおっしゃったけれども、やはり(久光は常世と)相撲をとらなかった。さもなければ牢獄に入れるということを指図したところ、久光が言うには、「牢獄に入っても死にはしません。(しかし)常世と相撲をとると死んでしまいます」と申し上げた。
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古今著聞集 (章段は不明です) |
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ある所に盗人が入った。その家の主人は、(たまたま)起きていて盗人を見つけて、帰るところをうち殺そうとして、その通り道で待ち伏せして、障子の破れているところからのぞいていたところ、盗人は物を少し取って袋に入れて、すべては取らないでいた。(そして)少しのものだけを取って帰ろうとしたところ、つり下げた棚の上に、鉢の中に灰を入れて置いておいたのを、この盗人は何だと思ったのだろうか、つかんで食べた後、袋に入れた物を、もとのように置いて帰った。(主人は)待ち伏せていたので、組み伏せて捕まえた。この盗人の行為が、(主人は)理解しがたくて、その理由を尋ねたところ、盗人が言うには、「私はもともと盗もうとしたのではありません。この一両日食べ物が食べられなくて、どうしようもなくひもじく思っているうちに、はじめてこのような気持ちになって、(ここに)参ったのです。そうであるのに、棚に麦の粉であろうと思われる物が手に触れましたので、物欲しくなるままに、つかんで食べたところ、はじめはあまりに腹がへっていたので(それが)何であるか分かりませんでした。(しかし)何度も食べているうちに、灰であったと知れて、その後は食べるのをやめました。食べ物ではないものを食べましたが、これを腹に入れてからは、物を食べたいという気持ちがなくなりました。これを思うと、この飢えに耐えられないで、このようなよくない心(盗みの心)も起こりましたので、灰を食べてもたやすく直るものだなあと思い、盗んだ物をもとのように返したのでございます」ということなので、胸を打たれるようにも、また、思いがけないことのようにも思われて、形ばかり(盗んだとはいえないほどの少し)の盗みによって手に入れた物を取らせて帰してやった。「これから先、どうにもならないときは、遠慮しないで(助けてほしいと)言いなさい」といって、常に気遣ってやった。盗人のこの心には心を打たれる。主のあわれみの心もまた立派である。
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古今著聞集 (章段は不明です) |
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博雅三位の家に盗人が入った。博雅は、床下に逃げ隠れた。盗人は帰り、その後(博雅が床下から)はい出てきて家の中を見てみると、残っている物は何もなく、みんな盗まれていた。篳篥が一つだけ戸棚に残っていたので、博雅は手に取ってお吹きになった。(すると、博雅の家を)出て走り去っていた盗人がはるか遠くにこの篳篥の音を聞いて、気持ちが抑えられなくなって、戻ってきて、「ただ今(あなたが)お吹きになった篳篥の音を聞いていて、しみじみとありがたく感じまして、私の悪い心もみな改まりました。盗んだ物も全部お返し申し上げます」と言って、みんな置いて出ていった。昔の盗人というのは、こういう優しい心ももっていたのである。
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徒然草 第十五段 |
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どこでもよい、しばらく旅に出ているのは、目がさめるような新鮮な気分がするものである。そのあたり、あちこち見て歩き、田舎びている所、山里などでは、ずいぶん見慣れないものが多い。都(の自分の家)へ都合のよいことに託して手紙をやる。「あのことやそのこと、都合のよいときにやっておけ」などと記すのもまた趣のあるものだ。そのような旅先では、何事にも自然と心を配るものだ。もっている道具類まで、良いものはなお良く思えるようになり、芸の才能のある人、顔つきの美しい人もまた、いつもよりは素晴らしく立派に見えてくるものである。(そういう旅ではなく)寺や神社などに、そっとこもるのも趣深いものである 。
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徒然草 第三十二段 |
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九月二十日のころ、ある人にお誘いいただいて、(夜が)明けるまで月見をして歩くことがございましたが、(ある人が)ふとお思い出しになった所があって、(従者に)取り次ぎを求めさせてお入りになった。荒れている庭で夜露がたくさん降りている所に、わざわざ今日に限ってたいたわけでもない香のにおいが、しっとりと香って、(その家の女主人が)ひっそりと暮らしている様子は、何ともいえずしみじみと趣深い。 (ある人は)ほどよい時間で家を出て来られたが、なおも様子が優雅に思われたので、(私が)物陰からしばらく見ていたところ、(その家の女主人は)妻戸を少し押し開けて、月を見ている様子である。すぐに部屋に閉じこもってしまったとしたら、さぞ残念だったことだろう。あとまで(自分のことを)見ている人がいるとは、どうして知ろうか、いや、知るはずはない。このようなことは、ただ朝夕の心がけによるものであろう。その人は、まもなく亡くなったと聞きました。
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徒然草 第三十八段 |
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名誉や利益に執着し、心安らぐこともなく、一生を苦しんで生きるのは愚かなことである。 財産が多いと、身を守れなくなる。害がふりかかってくる原因となり、もめごとを招く仲立ちとなるからだ。自分の死後に財産を築いて北斗七星を支えるほどになっても、残された人のもめごとの原因となるだろう。愚かな者の目を喜ばせる財宝も、また無意味なものである。大きな車、肥えた馬、金玉の宝飾も、物事の道理のわかっている人ならば、これをうとましく愚かなものと見るだろう。金は山に捨て、玉は淵に投げるがよい。利益に心を奪われる者は、この上なく愚かな人である。
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徒然草 第四十五段 |
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(藤原)公世、従二位の兄で良覚僧正といった人は、大変におこりっぽい人だったそうだ。僧坊の傍らに、大きな榎があったので、みんなは、「榎の木の僧正」と呼んでいた。(僧正は)「こんな呼び名は適当ではない」と言って、例の木をお切りになった。(そして、今度は)その切り株が残っていたので、「切りくいの僧正」と(あだ名を)付けられた。(すると僧正は)ますます怒って、切り株までも掘り起こして捨てたところが、その堀った跡が大きな堀となってあったので、(今度は)「堀池の僧正」と呼ばれたということだ。
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徒然草 第五十一段 |
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亀山殿の池に、大井川の水をお引きになろうとして、大井川沿いの住民に(後嵯峨天皇が)お命じになり、水車を作らせなさった。多くの金銭をお与えになり、数日の間に(大井の土民は水車を)作って(川に)掛けたところ、少しもまわらなかったので、いろいろと(大井の土民は)直したけれども、とうとうまわらないままで、むだに作っただけだった。そして(水車が多いことで知られていた)宇治川沿いの住人を(後嵯峨天皇は)お呼び寄せになって、水車を作らせなさったところ、やすやすと組み立てて差し上げた水車が思いどおりにまわって〈川の水〉を(池に)汲み入れること、実に見事であった。何事に付けても、その道を心得ている者は、とうといものである。
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徒然草 第五十九段 |
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出家して悟りを開くことを決心するような人は、避けがたく、心にかかっているようなことについての本望を遂げないで、(それを)そのまま全部を捨てるべきである。「しばらく(待とう)。このことが済んでから」、「(どうせ)同じことなら、あのことの始末しておいてから」、「あれこれいろいろなことで、人の批判を受けはしないか、将来ごたごたしないように整理をつけてから」「(今まで)長年の間、とにかく無事に過ごしてきたのだから、そのこと(の結果)を見届けよう、時間も(それほど)かからないだろう、気ぜわしくならないように」などと思っていたら、避けられないことばかりが重なり、気になることがなくならず、出家を決心する日もない。だいたい、(世間の人を)見ると、少し出家の志がある人は、みんなこのような計画で一生を過ごしていくようだ。 近所の家事などに逃げる人は、「しばらく(待ってくれ)」と言うだろうか(いや、そんなことは言わない)。自分の身を助けようとするから、恥をかくのもかまわず、財産も捨てて逃げ去るものなのだ。人の命は(家事と同じで)待ってくれるだろうか(いや、待たない)。死のことの到来は、水や火が襲いかかってくるのよりも速やかで、逃れがたいものなのに、その(死ぬ)とき、老いた親、幼い子ども、君主の恩、他人の愛情を、捨てにくいといって捨てないだろうか(捨てないではいられないものだ)。
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徒然草 第六十八段 |
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筑紫の国に、兵を率いて反乱などの鎮静にあたった押領使で、なんとかという者がいた。彼は、土大根を万病の薬であると信じて、毎朝二本ずつ焼いて長年の間食べ続けていた。あるとき、館の中に人がいないすきをついて、敵が襲ってきて、取り囲んでしまったが、(どうしたことであろうか)館の中に(見知らぬ)兵が二人現れて、命を惜しまずに戦って、(敵を)みんな追い返してしまった。とても不思議に思われて、「いつもここにいらっしゃるとも思われぬ人が、このようにお戦いくださったのですが、あなたはいったいどちらのお方でしょうか」と尋ねたところ、「(あなたが)長年の間頼りにして、毎朝召し上がっていた大根でございます」と言って去っていった。深く信じてさえいれば、このようなよいこともあるということだ。
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徒然草 第七十四段 |
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蟻のように集まって、東に西に急ぎ、南に北に走る。身分の高い人がいて、身分の低い人がいる。老いた人がいて、若い人がいる。(それぞれに)行く所があり、帰る家がある。夕方には寝て、朝には起きる。その生活は何のためにしているのであろうか。(結局は)長生きを願い、利益を求めて止むことがない。
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徒然草 第八十五段 |
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人の心はすなおでないから、偽りがないわけではない。しかしながら、まれには正直な人がどうしていないことがあろうか、いや必ずいる。自分がすなおでないのに、人が賢いのを見てうらやむのは世間では普通のことだ。とても愚かな人は、たまたま賢い人を見ると、その人を憎む。「大きな〈利益〉を得ようとして、小さな〈利益〉を受けない。(さも清潔であるかのように)偽り飾って名声を上げようとしている」と非難する。(賢人のふるまいが)自分の心と違っているために、このような悪口を言うので(その愚かさが)分かってしまう。この人は、愚かな生まれつきの性格なので(良い性格に)変わることもなく、うわべだけでも小さい利益をさえことわることができないで、見せかけにも賢人のまねをすることができない。 狂人のまねだといって大通りを走れば、まさしく〈狂人〉である。悪人のまねだといって人を殺せば、〈悪人〉である。駿馬のまねをする馬は、その駿馬と同類であり、舜のまねをする人は舜の仲間である。偽ってでも賢人を学ぶような人を、賢人というべきだ。
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徒然草 第九十二段 |
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ある人が、弓を射ることを習うときに、二本の矢を手にはさんで持って的に向かった。師が言うには、「初心者は、二本の矢を持ってはいけない。後の矢を頼みにして、初めの矢をいいかげんに思う気持ちが生じる。矢を射るたびに、ひたすら当たり外れを考えず、この一本の矢で決めようと思え」と言う。たった二本の矢を、師の前で(そのうちの)一本をおろそかにしようと思うであろうか(いや、思いはしない)。気のゆるみは、自分では気がつかないといっても、〈師〉はこれをわかっている。この教訓は、すべてのことに通じるであろう。
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徒然草 第百四十一段 |
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悲田院の堯連上人は、俗姓は三浦のだれそれといって、すぐれた武士である。(上人の)出身地の人が来て話をするといって、「関東の人こそ言ったことは信用がおける。都の人は、承諾の返事だけはよくて、誠実さがない」と言ったが、上人は、「あなたはそのようにお思いになるでしょうが、私は都に長く住んでおり、親しく身近に見ていますと、人情が劣っているとは思いません。一般に心が柔和で、人情味が厚いので、人が言って(頼んで)くる程度のことは、きっぱりとことわりにくくて、万事につきはなして言うことができず、気弱に引き受けてしまう。うそをつこうとは思っていないが、貧しくて思うようにならない人ばかり多いから、自然と自分の思ったとおりにならないことが多いのだろう。関東の人は自分と同郷の人であるが、実際には心のやさしさがなく、人情味が劣り、ただただ剛直なものであるから、はじめからいやだと言ってそれっきりになってしまう。富み栄えて豊かであるので、人から信頼されるのですよ」と道理を分けて説明なさいました。(私は)この上人が、声になまりがあり、荒っぽくて、経典の細かくくわしい教理などは、あまり心得ていないのではなかろうかと思っていたが、この一言を聞いた後、(上人の人柄を)奥ゆかしく感じ、多くの中で寺を住職として管理しておられるのは、このように情味のあるところがあって、その人柄が役に立っているのだろうと思われました。
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室町時代
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一寸法師 (章段は不明です) |
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それほど昔ではないころ、津の国の難波なにわの里に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。おばあさんは四十歳になるまで、子どもがいないことを悲しんで、住吉神社に参詣し、子どもがいないので授けてくれるよう祈り申し上げたところ、大明神は(おばあさん)かわいそうだとお思いになり、おばあさんは四十一歳になって、子どもが授かったような様子になったので、〈おじいさんは〉、このうえなく喜んだ。やがて十ヶ月がたち、(おばあさんは)かわいい男の子をもうけた。しかし、その男の子は生まれ落ちてからずっと、背が一寸しかなかったので、その名を、一寸法師と名づけられた。 (中略) 一寸法師は、「(もう)どこへでも行ってしまおう」と思い、刀を持たなくてはどうしようもないと思い、針を一本おばあさんにもらいたいと頼んだので、(おばあさんは)取り出しなさった。そしてすぐに麦わらで柄とさやをこしらえ、都へ行こうと思ったが、当然のことながら船がなくてはどうしようもないと思って、またおばあさんに、「おわんとはしを下さい」と言って(それを)もらい、(おじいさんとおばあさんは)名残おしかったけれども(一寸法師は)旅立った。(一寸法師は)住吉の浦から、おわんを船として乗り込み、都へ上っていった。
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御伽草子 (章段は不明です) |
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張孝と張礼は兄弟であった。世の中が飢饉の時に、八十歳あまりの母を養っていた。木の実を拾いに行ったところ、一人の息もだえ疲れた者がやって来て、張礼を殺して食ってしまおうと言った。張礼は「私には年老いた母がいます。今日は、まだ食事を差し上げませんでしたので、少しの時間をください。母に食べ物を差し上げて、すぐに戻ってまいりましょう。もしこの約束を(私が)破ったならば、(私の)家に来て一族の者まで殺してください」と言って帰った。母に食事をさせて、約束のとおり、(張礼は)その者の所へ行った。兄の張孝が、これを聞いて、あとから行って、盗人に向かって「私は、張礼より太っているので、食べるにはよいでしょう。私を殺して、張礼を助けてください」と言った。また張礼は、「私(を食べるの)が、最初からの約束です」と言って、(兄弟は)死を争った。そこで、人としての道にそむく盗人も、兄弟の孝行と節義の心を感じて、ともに命を助け、(そのうえ)このような兄弟は、昔から今までめったにいないということで、米二石と塩一を与えた。兄弟はこれを持って帰り、いよいよ孝行の道に励んだということであった。
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伊曽保物語 (章段は不明です) |
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子どもたちが、けんか言い合いをして騒ぎ立てるので、父はどうしようもなかった。あるとき、父は、下男を呼んで、「木の枝をたくさん集めてもってこい」と言った。父は、その枝を(下男から)受け取って、そのたくさんの木の枝を一つにして、縄で固く縛りあげた。(そして)子どもたちが一か所に集まっていたので、各々に渡して、父は、「一人だけでこれを折れ」と言った。(子どものうちの一人が)力を込めて折ろうとしたけれども、まったく枝を折ることができなかった。その後、父は、縄をほどき、一本ずつ一人一人に渡したところ、(子どもたちは)簡単に枝を折った。それを見て、父は、「お前たち一人一人もそれと同じように、一人ずつの力は弱くとも、気持ちを合わせたときは、困難に押しつぶされることはないだろう」と言った。
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伊曾保物語 (章段は不明です) |
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ある川のほとりで、蟻が遊んでいた。突然(川の)水かさが増えてきて、その蟻を巻き込んで流れた。(蟻が河の中を)浮いたり沈んだりしていたところ、鳩が木の枝からこの様子を見て、気の毒なことよと、木の枝をちょっと食いちぎって川の中に落としたところ、蟻はそれに乗って岸に上がった。こうしたところ、ある人は、竿の先にとりもちを付けて、その鳩をさし取ろうとした。蟻が心に思うには、たった今、自分が受けた恩を返そうと思って、その人の足にしっかりと食いついたところ、(その人は)びっくりして、竿をその場に投げ捨てた。その人に、どういう事情があったか理解できるだろうか。いや、理解できない。しかし、鳩はこれを悟って、どこへともなく飛び去った。このように、人の恩を受けたような者は、どのようにしてもその恩返しをしたいという気持ちをもつべきである。
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江戸時代
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醒酔笑 (章段は不明です) |
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目の上に大きなこぶをもった禅門がいた。修行に出たが、山中にいる間に日が暮れてしまって宿がない。(仕方がないので)古い辻堂に泊まった。夜が更けてすでに真夜中になった。人の足音が聞こえてきたかと思うと、(禅門のいる)その辻堂に来て酒宴を始めた。禅門は恐ろしく思ったけれども、どうしようもないので、いかにもうれしげな様子で、円座を(自分の)尻につけて、立ち上がって踊った。 明け方になり、天狗たちが帰ろうとしたとき、(天狗たちは)言った。「禅門はおもしろい坊主で、よい退屈しのぎの相手だ。今後も必ず来い」と。「口約束だけでは信用できない。質をとっておくのが最上だろう」と言って、(禅門の)目の上のこぶを取って去っていった。前門は宝を得たような気持ちになり、故郷に帰った。(その禅門の様子を)見た人は感動し、親類はこのうえなく喜んだ。
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浮世物語 (章段は不明です) |
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今ではもう昔の話だが、ある大名が非常に優れた馬を買い求め、自分に一大事が起こったときに命運を左右するのはこの馬であるといって秘蔵され、馬のえさとして、米や豆を豊富にあてがわれたが、馬を飼育する者が、それをみんな着服して自分の利益とし、馬には少しの草だけを与えて飼っていた。(そのうちに)思ったとおり天下が乱れて戦争になった。馬を秘蔵していたのはこのためであったといって、その大名は例の馬をお呼びになったが、馬の動きがとても鈍く、跳ね躍るような勢いもない。大名はとても怒って、「こんなに役に立たない馬とは思いもよらず、(よくも今まで)大切に飼っていたものだ」といって、むちでさんざんに打ったところ、この馬は、人間のように言葉を発し、「さあ、殿様、よくお聞きください。馬飼いはとても食べ物を惜しんで、満腹になるほど(私に)えさを与えませんでした。そのように満足にえさを食べていないのですから(私は)力も弱く、心も勇まず、道を進むこともできないのです」と告げましたと、昔の人がお話しになっていました。 |
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奥の細道 「漂泊の思ひ(1)」 |
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月日は永遠に旅を続ける旅人のようなもので、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人である。(船頭として)船の上に生涯を浮かべ、(馬子として)馬のくつわを引いて老いを迎える者は、毎日旅をして旅をすみかとしているようなものである。古人の中には、旅の途中で死んだ人が多くいる。私もいくつになったころからか、ちぎれ雲が風に身をまかせ漂っているのを見ると、漂泊したいという思いを止めることができず、海ぎわの地をさすらい、去年の秋は、隅田川のほとりのあばら屋に帰ってくもの古巣を払い(しばらく落ち着いていたが)、しだいに年も暮れて、春になり、霞がかる空をながめながら、ふと白河の関を越えてみようかと思うと、(さっそく)そぞろ神が(私に)乗り移って心を乱し、(そのうえ)道祖神の手招きにあっては、取るものも手につかなくなり、ももひきの破れをつくろい、笠の緒を付け換え、三里のつぼに灸をすえて(旅支度を始めるとすぐに)、松島の名月がまず気にかかって、住まいの方は人に譲り、(旅立つまで)杉風の別宅に移ることにして 草ぶきのこの私の家も、新たな住人を迎えることになる。これまで(男だけのこの私の家には)縁のないことではあったが、節句の時期には、にぎやかにひなをかざる光景がここにも見られことであろう。 と、表八句を庵の柱にかけておいた。
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玉勝間 (章段は不明です) |
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昔よりも、その後の世の方が優れていることは、いろいろな事物において多い。その一例として、(以前は)橘を比類なきものとして珍重していたが、最近では、みかんというものがあって、このみかんに比べると、橘は相手にもならなくて圧倒されている、ということが挙げられる。その他、柑子、ゆず、くねんぼ、橙など多くの種類の多でも、みかんは味が優れていて、中でも橘によく似てこのうえなく優れているものである。この一例で(後の世のものの方が優れているということを)推し量ることができるだろう。あるいは昔はなかったけれども現在ではあるものも多く、昔のは悪くて、今のは良いというものも多い。これをもって思うに、現在より後もまたどうであろうか、現在あるものよりも優れているものも多く出てくるだろう。現在から昔のことを考えてみると、昔はいろいろなことに不便で不満足なことが多かっただろう(と思われる)。しかし、その当時は、そのようには感じなかっただろう。今より後もまた、たくさんの良いものが出てくるような時代には、(その時代から見た)現在のことも不自由であっただろうと思うのだろうが、昔の人が(その当時において)、不便だと感じないのと同じである。
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花月草紙 (章段は不明です) |
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鷹の羽(の中)に住んでいる虫がいた。(鷹が)空高く飛び回るときは、はるか地上に民家などを見下ろしていた。ほんとうに、私は不自由のない身であることよ。翼も動かさないで、とても遠いところに往来でき、雲のある高いところまでも上ることができるようだ。特にいろいろな鳥は、みな(自分を)恐れて逃げ回る。ほんとうに私に勝つ者は、ほとんどいないだろうと思いながら、鷹の中に住みつつ、さかんに(鷹の)肉を刺し、血を吸っていたが、その仲間がどんどん多くなっていったからであろうか、ついにその鷹も死んでしまった。 その(鷹の羽の中)から、自分で出て〈飛び回ろう〉と思うけれども、飛ぶことができず、〈走ろう〉と思うけれども速くはない。(鷹の)血もなくなり、肉もなくなったので、今となっては(自分の)命をつなぐ方法もない。かろうじて、まず毛の中からはって出ていくと、すずめの子がいた。(今までと同じように)自分を〈恐れるだろう〉と見てみると、すずめの子は(虫である自分のことなど)意識していないようである。どうにかして見つからないようにと横へ寄ったところ、(すずめの子が自分のことを)うれしげに見て、くちばしを突き出して、〈ついばもう〉とする。それまでに経験のなかったことなので(虫は)恐ろしくなって逃げ隠れた。
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きのふはけふの物語 (章段は不明です) |
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そそっかしい若衆が、もちをお食べになろうとして、たくさん食べることばかりに気をとられ、とても慌てていたので、(もちが)のどに詰まってしまった。人々は気の毒に思い、薬を飲ませようとしたが(のどを)通らない。そうこうしているうちに、天下一のまじない師を呼んだところ、すぐにまじないをかけて、(もちは)竜虎のようになって、(勢いよく競うようにして)五メートルほども前へ飛んで出た。みんなは、「すばらしいことだ。これはやはり天下一というだけのことはある」と言うと、若衆はそれをお聞きになって、「名人などではない。おしい物を、中へ残すようにしてこそ上手というものだ。天下で二番でもない」と言われた。
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古典リンク集(リンクさせていただいたサイトのみなさん、ありがとうございます)
伊勢物語
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/ise/ise_a.html
・・・原文が出ています。
枕草子
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/koten/makurano.htm#鳥は
・・・原文が出ています。
方丈記
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/houjouki2.htm
・・・原文と現代語訳が出ています。
宇治拾遺物語
http://user.komazawa.com/hagi/txt_ujisyui
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/1212_ujishui_01.htm
・・・原文が出ています。