徒然なる独り言のお部屋(特別版)

 

「水害のお話。 〜悪夢のような1週間〜 

 

9月11日、月曜日。

 この日は、朝からずっと雨が降っていた・・・。 夕方、弟が2階の僕の部屋に飛び込んできて、こう言った。
 「おい兄貴、外がエライ事になってるぞ!!」 ( * 「エライ」=「大変な〜」の意。 )
 僕が、急いで階段を降りて玄関に向かうと、家の外の道路は完全に水に浸っていた・・・。
 玄関先に居た祖父が言う。 「こりゃ、また床上まで水が来るかもしれんなぁ〜・・・。」
 (祖父が『また』と言ったのは、およそ10年ほど前にも「床上浸水」になった事があるからである。
  もっとも、その時は「床上30センチ」程度だったらしい。)
 とりあえず、弟は家の前に停めてあった原付バイクを、近くの駐車場(ちょっと高いトコにある)に移動させ、
 僕はテレビで天気予報をチェックすることにした。 「東海地方は、断続的に強い雨に見舞われるでしょう。」

 午後8時、水はついに家の中に入り始めた・・・。「いよいよ、大変な事になってきた。」と思った。
 雨足は一向に衰える気配がしない・・・、水はさらに勢いを増して増えてくる・・・、
 床と壁の継ぎ目からジワーッと水が入ってきた時の異様さは、今でも目に焼き付いている。
 僕等は、急いで家の中の物を床に近いところから順に、テレビやテーブル・タンス等の上に避難させた。
 畳が水の力で浮き上がり、和室は既にマトモに歩けない程の状態だった。
 リビングのカーペットがどんどん水に濡れていく、玄関にあった僕の自転車をカーペットの上に持ってきた。
 母は、キッチンで、山のように買い溜めてあった食料品や調味料を食卓の上へ・・・、
 弟は、自分の部屋(離れ)に置いてあったゲーム機やテキスト等をベッドの上に・・・、
 祖父は、相変わらず玄関先に佇み、呆然と川ようになった道路を眺めていた・・・。
 この時点で、いつの間にか僕達は、ごく自然に家の中を土足で歩いていた。
 プチッ・・・・・、家の中が暗くなる・・・・・、電気が止まった・・・・・・。
 「懐中電灯」を探すが、1階にあるのは全部「電池切れ」か壊れているものばかり・・・、ダメだこりゃ・・・・。
 僕が、7月にオープンした大型電器店の開店セールで、弟の「MDプレイヤー」を買う為に整理券待ちした時、
 たまたま衝動買いした「268円の懐中電灯」が役に立つ日が来た。
 『備え有れば憂い無し』・・・、誰が言ったか知らないが良い言葉だなぁ〜・・・と、しみじみと実感した僕だった。

 午後10時、浸水の勢いが止まる・・・。「床上20センチ弱」ぐらいの深さだ・・・。
 壁に刺した画鋲が水位を知らせてくれている。 「避難勧告」は、まだ出ていない。
 だが、我々は既に避難する用意を整えていた。
 2日分の着替えと貴重品、携帯電話、携帯ラジオ、その他諸々・・・、
 一人当たり2つぐらいのカバンを持って待機することにした。
 弟は、しきりに駐車場へ行っている。 4月に買ったばかりの愛車が気に掛るのだろう。
 母には、かなり疲れていたようなので、上の僕の部屋で休むように勧める。
 まぁ、こんな状況では、とても眠れるような気分ではないだろうが・・・・。
 いつもなら、とっくに寝ている時間になっても祖父は、じっと外の様子を眺めている。

 午後11時、2階の僕の部屋で休んでいた母が、ある事に気が付いた。
 僕の家の近くには、「庄内川」と「新川」、「大山川」など川がいくつも流れている。
 特に、今回下流で決壊を起こした「新川」とその支流は、我が家のスグ傍を流れていて、
 数年前に「喜惣治大橋」という(この辺では)結構大きなアーチ上の橋が掛けられていた。
 川岸には畑やちょっとした草原が広がっており、それらと僕の家の間には桜の樹が立ち並ぶ堤防がある。
 この堤防と川岸は、昔からよく子供の遊び場となっていて、僕も「虫取り」や「追いかけっこ」をした
 思い出のある場所だ。 こちら側の堤防と反対側の堤防の間は、およそ100mほど開いていて、
 その中で川の流れている部分なんて、せいぜい20〜30mぐらいのものである。 また、こちら側の堤防から
 川の部分までは50m近く離れていて、何でこんな離れた所に「堤防」があるのか、疑問を感じたことさえある。
 堤防の高さは僕の家の方の側面が4mぐらいで、川の方は5,6mぐらいだろう。 春には、堤防の上で「花見」
 が行われて、大変賑やかになる。 普段は非常に穏やかな風景が広がっている場所である。
 だが、母が、僕の部屋の前の小窓から見た光景は、元の川幅からは想像もできないほど水量が増大し、
 川岸の草原も畑も飲み込んで、100m近い堤防と堤防の間いっぱいに水が流れ、「喜惣治大橋」のアーチの
 スグ下まで水位が上昇し、今にも堤防を乗り越えて溢れ出しそうな川の姿であった・・・。
 僕と弟は、既に腰の辺りまでの水深になった家の前の道路を歩いて堤防に登った。
 僕等の足下の、ほんの数十センチ下を濁流と化した川が流れていた・・・・。
 もし、あの水量で堤防が決壊していたら、おそらくこの辺り一帯は「瓦礫の山」になっていただろう。
 「シャレにならない、とんでもない事態」になりつつある・・・、「背筋が凍った」感覚がした・・・・。

 午前0時、電気は止まっていたが、ガスはなんとか通じていた。
 2階の僕の部屋へと続く階段で、かなり遅い夕食を摂る。もちろん、カップラーメン。
 僕の部屋の前には、僕専用の冷蔵庫がある。昔は、キッチンで活躍していたものだが、
 新しい大きなヤツが来てから、余生を僕の「飲み物入れ」として過ごしている可愛い奴だ。
 電気は止まっていたが、中の物はまだ冷たかった。中を見てみると、ヨーグルトがある・・・。
 賞味期限はまだ先だったが、このままではみすみす腐らせてしまうのは目に見えていたので、
 仕方なく一気に片付ける。 ペットボトルの飲み物は大丈夫だろう・・・。
 だが、紙パックのコーヒー牛乳はダメだ・・・、こちらも一気に飲み干した・・・。
 「避難勧告」は、未だに出ていなかった。

 午前1時、徐々に水位が上昇し始める。 30分ぐらいで、一気に3センチ近く増えている・・・。
 「これ以上は危険だ・・・。」 既に、家の前の道路の水位は、僕の腹の辺りにまで達している。
 とりあえず、20分ほど歩いた所にある母の勤務先に、母が置いてきた家の車に行く事にした我々は、
 完全に川と化している道路を、なるべく真ん中を通りながら歩き始めた。
 これだけ水に浸かると、ごく普通の街並みでも、普段は全く気が付かないほど高低差があるものだと分かる。
 水の中は歩き難い・・・、そして色んな物が流れてくる。 木片、発泡スチロール、タイヤ、植木鉢・・・。
 至る所から、自動車の警告音が聞こえる。 一体、どれだけの車が水没しているのだろうか・・・・。
 家と目的地の中間地点に差し掛かった辺りで、「楠西小学校」に辿り着いた。 図らずも「避難所」に着いた。
 この小学校は、家庭の事情で、僕が4年生の2学期から5年生の終わりまで過ごした母校の一つである。
 祖父の体力では、これ以上進むのは無理だった。 中に入ると、「避難ですか?」と聞かれた。 当たり前だ。
 だが、この避難所には、僕達以外に避難して来ている人は誰もいなかった。
 僕と弟は、母と祖父に荷物を預けてココに残るように言って、母の車の様子を見に行く事にした。

 普段通ってる道は、用水路が溢れ出して通れそうにないので、一旦「国道41号」に出る。
 だが、その「41号」すら所々水没し、道路の端には動けなくなった車が放置してある。
 それでも走っている車は、躊躇無く一気に水没部分を突破して行く・・・、アクセルを緩めたら終わりだ・・・。
 「名古屋北部市場」周辺を通り抜ける・・・、こんな時でも仕事している人たちがいる・・・。
 次々と「大型トラック」が、水を弾き飛ばしながら走り抜けて行く・・・・。
 その一方、一歩裏に入ると、「自動販売機」が運転を停止している・・・・、道の真ん中で止まった車が、
 2台3台と虚しく警告音を発している・・・・。 母の車は、この時点では無事だった・・・・。
 母の勤務先の駐車場の中でも、一番安全な所に停まっていた。 だが、あと数十センチ水位が上がれば
 危険な状況である。 それでも、出入り口が既に水没してしまっていた為に動かす事はできなかった・・・・。
 僕等の目の前で、カエルがピョンピョンと飛び込んで、スイスイと泳いでいる・・・・。 

 こんな状況で外に出てるのは、僕達ぐらいのものだろう。 どこに行っても、車の警告音が鳴っている。
 弟は、「堤防沿いを歩いて家の近くまで行こう。」と言い出した。 よっぽど愛車が心配らしい。
 弟にとっては、4月に中古で買ってから色々といじくりまわして、ようやく満足のいく仕上がりになった
 ご自慢の「MR2」なのだ。 彼は、ほとんど毎晩のように「峠に行く」とか言って出掛けていた。
 「ダメ」と言っても、聞くようなヤツでない事は良く分かっている。 重い体を引き摺って、ついて行く事にする。
 僕と弟は、堤防沿いを歩き始める・・・、 「堤防」はまだ無事だったが、水位はもう限界ギリギリだ。
 堤防の上では、市から委託された業者らしき人達が、住宅地から「ポンプ」で水を汲み出す作業を、
 夕方から延々とやっている・・・、相変わらず何の役にも立っていない。 この水量では仕方ないか・・・。
 堤防の上から我が家を眺める。 つい先刻、家を出た時より10センチ近く水位が上がってるようだ・・・。
 堤防の下では、既に胸の辺りまで水が来るぐらいだ。 僕はなんとか歩けるが、弟は流されそうになっている。
 弟の背中を押して「駐車場」まで行く。 タイヤが半分ぐらい水に浸っているようだ。 雨は全く止む気配が無い。

 僕達が、再び「楠西小学校」へ辿り着いたのは、午前3時ぐらいだった。
 本来、「避難所」であるはずの小学校が、「床上浸水」して「停電」していた・・・。
 これでは、誰も「避難」出来るハズが無い。 まぁ、この時点でも「避難勧告」は出ていなかったが・・・・。
 薄暗い体育館(2階)の中で濡れた服を着替えて、体操マットに毛布を敷いて横たわる。
 どうやら僕以外の家族は、みんな眠ったらしい。 雨音に混じって、四方から車の警告音が聞こえて来る・・・・。
 ラジオからは、まだまだ降り続く雨の情報と、「西春町」に「避難指示」が出されたというニュースが流れて来る。
 結局、僕は朝まで眠れなかった。 朝方、「新川」が決壊した、という知らせを聞く。
 体育館から出て、渡り廊下から下を眺める。 水位は、3時の時点よりさらに増えていた。
 空は薄っすらと白んで来たが、雨は止んでいなかった。 ラジオによると、昼ぐらいまでは降り続くと言う・・・。
 幾分明るくなった為か、少し気分が落ち着いてきた。 目を覚ました母と祖父に、
 ラジオからの情報等を色々と伝えて、僕は眠る事にした・・・・。

 

9月12日、火曜日。

 午前8時、誰かの話し声で目が覚める。 寝たままで、薄目を開けて見てみると、ドコかの議員が来たらしい。
 ビシッとスーツを着ている。 外はまだ水没しているハズなのに、どうやって来たんだろう・・・?
 人が少なかったからか、ちょっとだけ挨拶をして、さっさと帰って行った。
 それにしても、あの短いやりとりの中で、自分の名前を何回言ったら気が済むんだろう・・・。

 正午、再び眠りについていた僕は、ようやく重く気だるい体(普段でも重いが・・・)を引き摺り起こした。
 外に出て見ると、徐々に雨足も弱まりつつあり、朝方に比べて30センチほど水が引いていた様だった。
 僕達の居た「楠西小学校」は、「避難所」でありながらその機能の殆どを失っていた。
 電気も相変わらず止まったまま、電話も受信のみ、水は屋上のタンクから引いたものだけ、
 避難人数が少ない為か、「救援物資」も届く事は無かった。
 小学校の先生が、僕達以外の大部分の人達が避難しており、自衛隊の「救援物資」が届いていた、
 もう一つの避難所である「楠西コミュニティーセンター」へ赴き、「おにぎり」を持って来て下さった。
 先生達も、昨晩からほとんど休み無く動き回っているのに・・・・・。 感謝、感謝・・・。

 僕が寝ている間に一人で家の様子を見に行った弟が、ずぶ濡れになって帰って来た。
 弟の話によると、家の前の道路で、まだ「1メートル50センチ」ほどの水位があり、
 家の中では、冷蔵庫が浮かび、食器棚が横倒しになり、何もかもがメチャクチャになっていたと言う。
 当然、弟の愛車は水没していたに違いない・・・。 見るからに落ち込んだ表情になっていた。
 これは後から知った事だが、家の辺りの地域には、朝になってようやく「避難勧告」が出されたようだ・・・。
 水位が「2メートル」近くになってから、どうやって避難しろと言うのだろう・・・。
 中には、一晩中水の中で待っていた人もいるらしく、やるせない気分だけが沸々と湧き上がってきた。

 弟は、メチャメチャになった家の中に入り込み、「ある物」を持って帰ってきていた。 ”祖母の位牌”である。
 本来、避難する時に持って出るべきものだったのかもしれない。
 だが、我が家から避難する時に、祖父にその事を確認した際、祖父は「置いて行けば良い。」と即答した。
 その時の祖父には「ある考え」があり、また祖父の意見に僕等が反論しなかった事にも、
 祖父と同じ「ある考え」が巡らせられていたのである・・・。 それは、「10年ほど前の水害」に端を発する。
 「10年ほど前の水害」で、我が家の周辺では「床上30センチ」程度の浸水に見舞われている事は
 既に前述したが、その水害の経験を生かして、2度と浸水被害が出ないように、家の前の道路には、
 昨年暮れから今年の春先までかけて、巨大な排水管が埋められ、雨水を集積してポンプ場から
 川に汲み出す大規模な排水システムが完備されていた・・・ハズであった。
 完成したばかりの「排水設備」に、僕等を含む住民(特に、前回の水害を経験した人々)は、
 「これでもう安心だね。」と、胸を撫で下ろしていた矢先・・・、今回の集中豪雨に見舞われたのである。
 結論から言えば、現実にこの「排水設備」はほとんど機能することなく、逆にその存在が住民の危機意識を
 低下させ、被害を拡大してしまう結果を引き起こした・・・。
 おそらく、あの水量からして、浸水の被害自体から免れることは不可能だっただろう・・・。
 だが、あの「排水設備」が充分に機能していれば、何台かの車を避難させる事や、ある程度の生活必需品や
 電化製品などを1階から2階に上げておく事などの出来る限りの措置をとる余裕が生まれたはずである。
 では、何故「排水設備」は機能しなかったのか? その答えは、あまりにも単純な事であった。
 「排水管」で集積された雨水を、一気にポンプで川に汲み出す・・・、そのポンプ(の動力源であるモーター)が、
 大雨で水没して止まってしまった、というのである。 同じような事例が、「天白」の方でもあったと聞くが、
 「集中豪雨」を想定して造られた「排水設備」の、いわば心臓部とも言える「ポンプ」が、
 簡単に水没してしまうような所に作られていたのである。 一体、どういうつもりで設計されていたのだろうか・・・。

 午後3時、雨は止んでいたが、水が完全に引くまで何もできない状況に、僕はとりあえず眠る事にした。
 夕方、弟と共に家の様子を見に行くと、水は全て消え失せており、代わりに「泥」と「ゴミ」に埋め尽くされた
 道路上や家の中の惨状を目の当たりにして、気分はドン底に沈み込んだ・・・・・。

 夜、母の友人のお宅にお邪魔してシャワーを浴び、食事をご馳走になる。
 次の日からの「後片付け」に向けて、沈んだ気分を振り払うかのように、出されたビールを次々と飲み干し、
 小学校に戻ってからは、あっという間に眠りに落ちた(らしい)。

 

9月13日、水曜日。

 朝、久々に熟睡したせいか完全に寝ボケながら起き上がり、足取りも重く家路につく。
 道路の端には窓を曇らせた自動車がズラリと並び、路面には泥に混じって木の枝や葉っぱ、
 家々には浸水の跡が朧気に残り、幾ばくかの人々は復旧作業に取り掛かっている・・・。
 こんな状況でも、陽光が射し込み、空に雲が浮かんでいるのは以前と何ら変わる事はない。
 我が家に辿り着き玄関の扉を開けると、前日の夕闇の中で微かに確認しておいた惨状が、
 さらなるリアリティを伴って僕等の瞼に映り込む・・・。 普段、何気なく使っていた家具や電化製品が、
 あるものは横倒しになり、またあるものはひっくり返り、家の中の様子を一変させている。
 現実と非現実のコントラストを描く眼前の光景が、厳然として我々の前に横たわる『非現実的な現実』を、
 否応無しに認識させる・・・。 一時の絶句の後は、悲しみも驚きも通り越し、いつのまにか笑っていた・・・。

 運ぶ・・・、運ぶ・・・、運ぶ・・・・・・・。
 とにかく、ほとんど「ゴミ」と化した家財道具を外に運び出し、必要な物だけを取り出しながら捨てる。
 水を吸って開けられないタンスの引出しを破壊し、水の滴るテレビを投げ捨てる。
 仏壇の前では、線香が溶解し緑の色素が沈着している。 カーペットや雑誌の束などの重さは尋常では無い。
 家の前は、みるみる「ゴミ置き場」と化していく・・・・。

 昼を少し過ぎた頃、三河地方の親戚が救援物資などを携えて手伝いにやって来てくれる。
 (この日は、それを皮切りに、次々と色んな人達から援助を頂く事となった・・・。)
 冷えた飲み物を飲んだのは何時以来だったのだろう・・・、コンビニの「おにぎり」や「ヤキソバ」を、
 あんなに美味しく感じたのは、おそらく生まれて始めてだっただろう・・・。
 1時間余りの休憩の後、再び、運ぶ・・・、運ぶ・・・、運ぶ・・・・・・・・・・。
 丸一日かけて、ようやく半分ほどの家財道具を運び出した程度。 先は、まだまだ長い・・・・・・。

 実は、我が家の風呂は「そろそろ改装しよう」という話になっていたぐらいで、当然、この水害で
 完全に使用不能になっていたので、前夜に続いて「もらい湯」に行く事になった。
 昼に手伝いや援助に多くの人が来てくれた時にも思ったが、親戚をはじめとする「人と人との繋がり」
 というものの大切さを深く感じる事ができたのは、この災害において僕が得たものの一つなのだろう。

 この日の収穫は、もう一つ。 それは、電話回線が生きていた事である。
 僕のPCが無事なのは分かってたんですが、ウチの電話回線は全て一階に繋がっていることもあって、
 僕は何の音沙汰も無しに当分の間ネット上に姿を現す事ができなくなるものだと思っていたんです・・・。
 でも、試しに繋いで見ると、若干接続に時間は掛かったものの、なんとか繋げる。
 これは、ホントに嬉しかった。 僕のHPに来てくれている人達や、僕が通っているHPの人達に、
 少なくとも何のワケもわからないまま心配を掛け続ける事だけは、避ける事ができたからである。
 もちろん、結果としては、多くの人達に迷惑を掛ける事になったし、僕の置かれた状況について
 ご心配をお掛けした面もあると思うけど、僕自身は「何の音沙汰も無しに、誰かが突然消えてしまう事」ほど
 ツライ事は無いと思っているので、それを自分自身がしてしまうのだけは嫌だったんです・・・。 (^^ゞ

 この日、我々はようやく「避難生活」から脱する事ができた。
 祖父は、体調面も考慮して近くの親戚宅に行く事に決まり、母はひとまず片付けの終わった「自室」に
 ビニールシートを敷き、2階の僕の部屋に上げておいた布団で眠ることができた。
 ただ、依然として自室がゴミに埋もれている弟は、僕の部屋に来る事となった。
 久々に自分のベッドで眠った僕は、翌朝の激しい筋肉痛を警戒して、自らの身体を丹念にマッサージして
 眠りについたのであった・・・。

 

9月14日、木曜日。
9月15日、金曜日。

 この2日間は、ただひたすら片付けに没頭していた。

 浸水した家具や電化製品の運び出しは、予想以上に大変だった・・・。
 「押し入れ」の奥からは、普段まるで使っていなかったようなものが続々と出てくるし、
 弟のベッドの「ベッドマット」は2人掛りでも数メートルずつしか運べない・・・、
 弟が集めてた”競馬ブック”や「コミックス」が水を吸収して膨張し、「本棚」を内側からへし折っていた。
 しかも、若者の少ない地区なので、僕や弟は近所の家での力仕事に駆り出されたりする。
 肉体的な疲労も日に日に蓄積していくし、それ以上に精神的に参り始めていた・・・・。

 夕方、「ゴミ収集車」がやって来る。
 タンス、食器棚、テーブル、ガラス戸、布団、木片、テレビ、ラジカセ、電子レンジ、冷蔵庫、掃除機、
 雑誌、衣類、生ゴミ、ペットボトル、スプレー缶、ベッドマット、カーペット、金庫、ピアノ、・・・・・。
 何でもかんでも、次々と飲み込んで行く様は実に壮観だった。
 ゴミに埋もれて車一台がやっと通れるかどうかの状態だった家の前の道路が、殆ど元通りの姿に戻る・・・。
 何か、スッキリした気分になったような気がした。

 

9月16日、土曜日。

 大まかな片付け作業も一段落していたので、朝から黙々と小物を洗剤で洗う・・・。
 この頃の僕の足には、両足合わせて12枚の”バンソウコウ(カットバン)”が貼られていた。
 これは、「およそ3日で一箱無くなる」ペースだった・・・。 常に水を使い続ける作業をする時には、
 値段の高い「防水タイプ」よりも、むしろ安い普通のヤツの方が剥がれ難いようだ・・・。

 昼過ぎからは、本格的にやる事が無くなる・・・。
 何故なら、我が家は既に大工さんによる床の張り替え作業に入ろうとしていたのだ。
 自分の部屋で横になっていると、自然に眠たくなってくる。
 テレビをつけたまま、僕はいつの間にか眠りについていたのだが、何故か3時半頃にはキッチリ目が覚めて、
 「土曜競馬中継」を見ていた。 たしか、”エリモ”の馬で”武豊”が勝っていた・・・。

 

9月17日、日曜日。

 床下に、「消石灰」を撒く。 運動場に、ラインを引く時の白い粉だ。
 湿気が取れるらしいが、素手に触れると痒くなるようだ・・・。
 この日の作業らしい作業はこれだけ。

 家族は、みんな疲れを取ろうとゴロゴロして過ごす・・・。
 こんな状況でも、ちゃんと「ドリーム競馬」を観る。
 なんという家族だ・・・って、僕もその一員だが・・・・・。

 

9月18日、月曜日。

 あの日から一週間。
 一週間前、何ら変わった事もなく迎えた朝を思い出し、感慨にふける・・・。
 同時に、「たった一週間で、よくぞここまで復旧したものだ」という思いも感じる。
 「とてつもなく長い一週間だった」とも思えるし、「この一週間は早かった」とも思える。
 いずれにせよ、「2度と経験したくない一週間」であったことには変わりは無いが・・・・・。

 

 

「水害のお話。 〜その後のお話〜 

 

約2週間後。

 細かいコトはさておき、この時期になると、外見上はある程度の生活が戻っていました。
 炊事・洗濯・就寝・・・という、最も基本的な生活環境は復旧していましたし、お風呂は壊れたままでしたが、
 お隣(親戚)に「もらい湯」に行かせて頂くことができました。
 ただ、依然として僕の部屋は、弟の避難場所となっていましたし、一階の修復が始まってからは、
 「物置き」としての役割も兼ねており、唯一「無事に生き残った部屋」だったにも拘らず、
 まるで水害に遭った部屋のように、ゴチャゴチャになってしまっていました。(苦笑)

 

約1ヶ月後。

 世の中が徐々に「水害」を忘れつつある頃、我が家の「家」そのものの復旧は、ほぼ完全に終わっていました。
 水に浸かって半分ふやけたような状態だった床や壁は張り替えられ、お風呂のリフォームも完了、
 蛇口から「お湯」が出る・・・、ガス台で魚が焼ける・・・、鍋で「味噌汁」が作れる・・・・・、
 そんな「当たり前のコトが当たり前にできる」幸せをしみじみと感じながら日々を過ごしていましたね。 (^^ゞ
 まだ、若干の家具・電化製品が届いていませんでしたが、弟は自室に戻り、それに伴って何故か
 僕のベッドが弟に引き取られることとなり、僕の部屋は水害に遭ってないにも拘らず、
 家具が減るという不可解なコトになりましたとさ・・・。 (^_^;)

 それと、母の勤務先に停めてあったマイカーですが、周辺の水位の跡と内部の状況から推察されるには、
 車高の約半分の高さまで水没していたらしく、修理には出したものの「最悪、”廃車”もあり得る。」とまで
 言われていました。 ところが、そんな車が、ほとんど無傷で戻って来たのです。 ( ̄□ ̄;)!!
 修理業者によると、「少なくともコンピュータのトコロは、絶対ダメだと思ってたのに、ドコも異常が無い。
 中のクリーニングと脱臭ぐらいで済んじゃいましたよ。 あと、水害とは関係無いブレーキ関係のトコが
 傷んでたんで、そこを直しておきました。 もうほとんど奇跡ですね。」
 結局、修理費は全部で約5万(内ブレーキが3万)・・・・。 う〜ん・・・、奇跡だ。 (^_^;)

 

約1ヶ月半後。

 この時期には、家具も電化製品も殆ど揃い、「完全復旧」と言える生活になっていました。
 というよりも、リフォームされたお風呂、スカパーの導入されたテレビ、ほとんどが新しくなった家具・・・、
 これらを見ると「水害の前よりも良い生活」になったような気さえしてきます。
 ただ、その一方で、長く大切にされてきた家具や、思い出の詰まった品の多くが失われたことも事実です。
 祖父や弟は、未だに少し強い雨が降るだけで怯えていますし、今回の水害の経験は、
 良くも悪くも我々の心に深く刻み付けられたものだと感じます。

 

「自然の驚異」と「我々人間の無力さ」、「災害の恐怖」と「人と人との繋がりの大切さ」、
僕の心に刻まれた幾ばくかの経験を、この場を借りて少しでも伝える事ができたとすれば幸いです。

−完−