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 活動報告&計画

 

【平成13年度活動報告】

 
平成13年は10月10日、御本部「生神金光大神大祭」の団体参拝と共に宿泊先の良寛荘において、天瀬副教会長秋山世根子先生の講話「思し召しを直にいただいて」を頂き、信奉者代表の信心体験話等の研修、共励、懇親が行われました。

 


【平成14年度活動報告】

平成1410月5・6日、御本部「生神金光大神大祭」の団体参拝並びに根津の会が60名の参加を得て実施できました。

10月5日(第一日)

       遠くは前橋、高崎、熊谷から東京駅に集まり東京勢と合流、平塚関係者は新幹線の中で合流し、根津の会による本部団体参拝団が始まる。

       金光に到着後、御本部広前に参拝、お届け、教主金光様のおひけを見送った後、宿舎「良寛荘」へ直行。

       懇親会食は、副会長挨拶(前橋教会長 土居陽佑先生)の挨拶に始まり、各教会代表によるスピーチで信心教励、親交を暖めることが出来ました。

10月6日(第二日)

       自由参加の朝の礼(円通寺公園を早朝散策)、朝食の後、全員揃って金光の研修会場(本部総合庁舎、大会議場)へ。

       研修会 開会の御祈念、「道のために」を斉唱、根津の会会長(平塚教会長 奥川達雄先生)のご挨拶に続き、本題である講話を頂いた。

講題 「日々の生活が信心の稽古」

講師  金光学園高等学校長 佐藤 元信先生

       「生神金光大神大祭」参拝

       御大祭後は自由行動により金光駅に集合し、15:44発の列車で帰路に向かう。大きな比れい、おかげを頂き、無事に御本部団体参拝、根津の会が終了し、来年の奉祝教祖120年祭には今年に倍しての参拝団のおかげを頂くことを約して散会した。

   


 

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 根津の会合同研修会における講話(要旨)
 

 日々の生活が信心の稽古(l)

  
金光学園高等学校長 佐藤 元信


 


 はじめに

皆様、本日は生神金光大神大祭第三目、お元気で、根津の会(本郷教会手続)で団体参拝され、この研修会をなさいますこと、本当におめでとうございます。

私は至りませんし、先ほどの「首途圏布教析願詞」を聞かせでいただいても、まことに厳粛な身の引き締まる思いがしております。また、ただ今の奥川達雄先生のごあいさつの中に、「教祖様のお言葉と思って話を聞くよ うに」と申されて、ますます緊張してしまいます。今日の私の話の中身はそれほど厳粛なものではないのであります。これは困ったなあと思いました。けれども今から変えるわけにはいきません。高崎の佐藤穀正先生からお話があった時にも困ったなと思いましたが、神様の御用だからという気待ちで受けさせていただきました。先生方、また、ご信心を長くしておられるご信者さん方に申し上げる中身はないのですが、しょうがない、自分のことを話させてもらう他はないと腹をくくりました。

 話の内容は、全部で八つの項目に分けております。

(1)本郷教会の思い出、(2)ご縁について、(3)わが家のご神縁、(4)私の信心、(5)三つの大きなおかげ、(6)生涯学習、(7)日々の生活が信心の稽古、(8)現代という時代、についてお話申し上げたいと思います。

 

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 1.本郷教会の思い出

 私が本郷教会に初めてお参りしたのは、昭和十九年六月か七月のころでありました。当時、白金教会の世話になって、予備校に通っておりました。高等学校の同級生で本郷でお世話になっておられた津村親幸先生や谷本忠さんを訪ねた時のことであります。いきなりでしたが、夕飯をご馳走になりました。多勢の学生を家族同様にしてお世話なさっておられた、今は亡き奥様(西村マツ姫)のお姿が強い印象として残っております。

 二度目にお参りしたのは、昭和三十年でした。その日現教会長の西村淑夫先生は、私たち学生を浅草のドジョウ鍋に連れて行ってくださいました。私はドジョウが初めてでしたが、大変おいしくいただきました。その帰りに先生は「君たち、吉原というところを見せてやろう」と言われて、案内をしてくださいました。私は無論初めてなのですが、沢山の店の前をぶらぶらして歩いて、いわゆる冷やかしの客であります。通っているうちに冷やかしだということが分かったのだと思います。女性のひとりが[半鐘どろぼう!」と言った。これはどう考えても西村先生に向かっての言葉です。その時、私にはどういう意味か分からなかったのですが、先生はニコニコして聞いておられるのです。あとで分かったことですが、先生は人より抜きん出て背が高く、高いところに吊してあるあの半鐘もはずして持っていけるというような意味でした。これを聞いて、吉原の女性は何とうまいことを言うものだなあと、大変感心して帰ってまいりました。こんなことを申すのも、あの時の浅草の思い出のために本郷の先生が忘れぬ方となったからであります。

 三度目に参拝しましたのは、長い中断の後、平成十年五月、全国の校長会に出席して、JR御茶の水駅北側の本郷通りに面したガーデンパレスに宿をとっておりました。仕事も終わって、翌朝ふと思い立って、ここは本郷通りだから、本郷教会はこの近くではないかと思い、宿で聞いた上で大体の見当をつけ、朝食前に歩いて参拝しようと、西に向けて歩さました。少し行って東大の赤門があり、キャンパスが途切れた角に交番があり、教会を尋ねたら、直ぐに教えてくれました。「本郷教会は、この界限ではよく知りれている」と、うれしく思いながらなおも歩きましたが、なかなか行きつきません。一時間ぐらいかかって七峙すぎにやっとたどり着きました。西村先生も大変喜んでくださいました。

 「あなたは、ご飯はまだでしょうしょう、奥の間に通されて、紀子若奥様のお給仕で、無遠慮にいただきました。食事の間、先生はいろいろとお話くださいました。特に先生のご病気を通して考えられたことをお話くださいました。一時間ほどで辞去しました。帰りは、これかり東京教会へ奉拝するからと、夏夫先生が車で送ってくださいました。本郷教会には、これまで以上のような三度のお参りだけなのですが、その度にお食事をいただいたことも大変有難いことに思わせていただいております。良きご縁をいただいたとずっと思ってまいりました。

 今日の根津の会合同研修会が長く続いているのも、本郷教会のご信者さんはじめ、書生さん、その友人まで含めて、みんな一家族の雰囲気になれる、そんなところが本郷教会の魅力であり、有難いことではないかと、私は思わせていただきました。

 

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 2.ご縁について

 “本郷”と言えば、直ぐに思い浮かぶのが夏目漱石の名前です。漱石が明治三十九年に『我が輩は猫である』を書いたのが、本郷駒込千駄木町というところでありました。三年ほど前に友人と行きましたが、今では石碑が建っているだけであります。 もう一人、俳人の正岡子規は上野の根岸におりましたが、子規は重い結核性の脊髄カリエスにかかっていました。二人は同級生でありました。東大で仲の良い友人でありました。明治三十三年(1900)、金光教独立の年でありますが、漱石は二年間のイギリス留学に出発しました。その時、二人ははもう会うことはないだろうと思い、果たして、漱石留学中に、子規は三十六才の若さで苦しみながら亡くなります。

 夏目漱石は帰国後、晩年の十年間に大きな仕事をしました。正岡子規も短歌の革新という、日本文学史上の大きな仕事をしたのです。この二人のことを思います時に三十六才(子規)と四十九才(漱石)で亡くなりましたが、もっと長生きをしたかっただろうなあと、いつも思うわけです。

 二人は慶応三年生まれです。これは誰かと一緒だと思っていましたら、初代東京教会長畑徳三郎師でありました。これはあまり意味のないことではありますが、夏目漱石も正岡子規も三十才の時は、畑先生も三十才で、その生涯のほとんどを東京で過ごしております。どこかで、漱石と子規が畑先生との出会い、金光教との出会いがあったら、二人の人生もどんなにか大きく変わっていたのではないか、また、仕事ももっともっと大きなものになっていたのではないかと、思っても仕様がないことをしきりに思いました。しかし、二人はご縁をいただくことなく過ぎました。

 私たちはみな、金光様との深いご緑をいただいているわけであります。ご縁をいただくということは、平生われわれが思っている以上に、木当に深い深い神様の思し召しがあってのことではないか、そのような思いがいたします。私がこれらのことをそれほど思っていなかった時分に何かのことで、四代金光様にお届けをしました時に、金光様は、「お互い、教祖様のご縁をいただいてのことであります」と言われました。金光様は、教祖様のご縁を直接にいただいておられる、そこを「お互い」と言われて、私はびっくりし、改めてご縁ということを考えるようになったわけです。漱石と子規のことを通じて、ご緑のことを思う時、人のご縁の大切さ、有難さを、改めて思います。文字通り”有難い”あることがむつかしい、ご縁をいただくことは大変なことなのだと思っております。

 私は、金光学園で高校三年生に、週一回、各クラスで宗教の時間を担当しておりますが、生徒の皆さんが金光学園にお出でになったこと自体が、深いご縁なのだということを話し、このご縁を大切にしようということを申しております。       

 

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 3.わが家のご神縁

 わが家のご神縁ということについてでありますが、司会の佐藤毅正先生がお話くださいましたように、祖父・佐藤金造の実家がご神縁をいただきした。祖父は明治十二年二月十七目の生まれであります。教祖様の五男・宇之丞様(後の四神様)と日じように、四十二の二つ子であったのであります。

父親の鳩谷古市は、天瀬(岡山市)の広前にお参りしておりました。父親が参拝すると、初代天瀬教会長からなぜか「氏子はけしからんことを考えている。腹の中の子供を下そうとしておろうが」というような意味のことを厳しく言われ、恐れ入って、家内と相談して生む決心をしたのです。それで、祖父はこの世に生を受けることができたのであります。このことがなければ、私はここにおりません。影も形もないものであります。

祖父は、その後、さらに深いご神緑により、佐藤範雄先生の養子となり、金光中学校の御用をいただき、また金光教徒社、金光教青年会の設立に関わり、「神人の栄光」を作詞させていたださました。晩年は、ご依頼を受けて多くの直信先覚の伝記を完成させるなど、まことに金光教人として幸せな生涯を送らせていただきました。私の父は、祖父母の信心を受け継いだと思います。青年時代から、壮年、晩年と、信心についての考え、また情熱は子供の私からみても大変なもの、祖父を越えたのではないかと感じております。

 

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 4.私の信心

私の信心も、そのご縁を受けてのものでありますが、祖父や父の信心を受け継ぐことが容易にできませんでした。特に青年時代の私は、無信心であったと思います。二十五才で結婚し、二十六才で長男を授かり、少し心が神様に向くようになったとは思いますが、それも何か事が起きた時のみの信心でありました。

 三十才の時、金光に戻って、両親と一緒にご霊地に住まわせでもらうようになりました。それ依頼、次第に朝奉りをするようになりましたが、なかなか日常生活の上に信心が現れるということはありませんでした。その当時の私は、岡山県立高等学校に奉職し、四十一才の時に、金光学園に奉職することになりました。それまでの私の信心を振り返ってみて、信心の糸が細く細くつながっていたわけを考えてみました。

 まず第一は、幼児から少年時代にかけて、祖母(金造の妻、さく子)が信心を教えてくれたことが大きかったと思います。子供のころの私は、やや病弱な者でした。夜中にお腹が痛くなったり、体が痒かったりした時に、祖母が御神米をいただかせてくれました。「金光様、金光様」と唱えることを教えてくださいました。

第二に、小学校高学年から高校までは、少年少女会、ボーイスカウト活動の中で、信心を何とか続けさせていたださました。次に大学に入り、一、二回生の時、私は仙台教会にお世話になりました。とかく逃げよう逃げようとする私に、信心の火を掻き立ててくださったのは、仙台教会長御船繁先生とご家族のご信心でありました。本当に優しく包んでくださいました。

 私の両親は、信心のことはほとんど何も言いませんでした。これは、遅まきながら、私が主体的に信心を求めようとするためには、プラスになったように、後から思いました。四十二才で学園に奉職した私が、だんだん意識しだしたのは父の信心でした。父は毎朝の参拝を土台にし、学校での宗教の授業や校長室での教職員、生徒、保護者との話合いを、お取次の場であると申しておりました。

 私が、父の信心を習おうとしたのは、同じ仕事に着くようになって、父との対抗意識のようなものがあり、父親に負けまいとする気持ちからだったと思います。そのうちに、本部広前の寒信行期問中の参拝、朝の教話を聴かせでいただくようになり、次第に私の内に、父への対抗意識よりも自ら求め、また学校勤務という仕事を通して、生徒のことを祈るという気持ちが強くなってきたように思います。そのころから父が亡くなるまでの十年間、信心は専ら願うことが多いものでありました。

 また、教祖様の言われておるように、とかく“自分は信心が進んだ、信心はやっているんだ”という意識ばかり強くて、家内、子供の前に誇示するように、“おまえらも信心をせよ”という感じで、家でご神前に向かう時に、殊更大きな拍手を打つなど、やたらにアピールするようなことでありました。本当の有難さが分かってなくて、四人の子供たちにも、伝えることの少なかった信心だったと思います。

 昭和六十一年に父が亡くなり、私の心の中に父親への御礼の気持ちが次第に強くなってきました。父は信心のことは強く言わなかったけれども、私のことをご祈念くださっていたことが強く伝わってきました。そのように父へのお礼の気持ちが強くなるにつれて、周囲の様々な物事に対するお礼の気持ち、また、現在生かされて生きている喜びを感じ、お礼を言うことができるようになってまいりました。

 私は、お礼、お詫び、お願いと言われる中のお詫びがなかなかできない性格でしたが、最近のことですが、ようやく少しできるようになりました。それはやはり父親に対してお詫び申すということからでした。

 父が脳血栓で入院をしてから五ヶ月後、右半分が不随のまま自宅療養し、再入院するまでの一年十ヶ月、家で私は家内共々世話をさせていただきました。その間、常に優しく接することができない私であったと思われ、そのことをしきりにお詫びするということが、私の中に起こってまいりました。

 改めて、これまでの私の六十六年間の生涯を思います時、本当に有難い、幸せであったと思います。けれどもこれはどう考えでみても、ご緑をいただいて、生神金光大神様、天地今乃神様のご信心をさせていただいてきたからだとしか言いようがありません。私のこれからの信心は改まってまいらねばなりませんけれども、父が三代金光様、四代金光様を無条件にお慕いし、いただいでいたように、私も無条件に五代金光様をお慕いし、お取次をいただいて、父と同じく、学校教育の場をお取次の場と考えて、朝の参拝、木綿崎山の巡拝をさせていただきたいと思っております。

 また、差し迫った現実的な課題もあります。この十二月で八十九才になる母は、“介護度四”であります。痴呆も相当に進んでおります。その母に対して、信心に基づいたお世話を家族共々、どういう風にさせていただいたらよいか、正直申して大変困っていることもたくさんあります。もう一つは、御用をいただく学校において、少子化と不況が続く中で、私立学校の問題、どうしても授業料が高いということ、或いはまた、最近の子供たちの教育そのものが困難な状況になっております。そのような厳しい教育条件の中で、“あいよかけよで立ち行く”学校経営が、いかに実現できるか、それが課題であります。

 更に差し迫った問題として、現在、高校生の中に、大変な病気を抱えて、入退院を繰り返しながら、けなげに学校生活を送っている一人の生徒がおります。その生徒のために、私の祈りをどのように続けさせていただくかということがあります。

 

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 5.三つ大きなおかげ

 私は、今年で二十五年、金光学園で過ごさせていただいております。この間の生活を振り返ってみて、あれもおかげ、これもおかげということを、強く思わせていただいています。その中でも、三つの大きなおかげについて、お話させていただきたいと思います。

@八年前のこと、A君は中学二年生の時に、ある運動部に属しておりました。練習試合で、他の選手とぶつかり、足首を骨折しました。だが、けがをした時は歩けたものだから骨析でなく、大したことはないと考えて、電車に乗って帰宅しました。翌日、近所の医者に行ったのですが、極めてまずい治療のようでした。その上、そのころから小学校時代からの遊び友達ができて、学校が大儀になり、嫌になってくる、いわゆる不登校に近いものになってきました。治療が悪くて足を引きずって歩くような状態になり、学校へも来ない。面倒くさがり屋の性格もあって、医者にもちゃんと行かず、足の状態がだんだん悪くなってきました。一度は大きな病院で手術をしたのですが、その後のリハビリを本気でしなかったこともあって、明らかに左右の足の長さが違ってくるという状態になりました。その後学園の高校へ進学し、途中、休学して北海道に働きに行くという時期もありましたが、それもうまく行かず、失望して帰ってきて、とうとう退学しました。

 その後も、遊び仲間とぶらぶらしているうちに、“こうなったのも、元はと言えば、中学二年生の時の、あの試合で骨折した時に、顧問の先生がすぐに医者に連れて行ってくれなかったからだ」として、親子共々、学校の態度も良くなかったと思うようになり、ある日、本人がお父さんと学校に来ました。お父さんは、それほど激しい口調ではありませんでしたが、「どう責任をとってくれるか」ということでした。本人は、あまり責めると顧問の先生に悪いというような気持ちを持っていた様子でした。私はお詫びをしました。その上で問題は今後の治療がどこまで可能であるかということで、話をしているうちに、私はふと心に浮かぶままに、本人に向かって、「これから金光様にお参りするか」と申しました。すると、以外に[はい]と十七才の本人は言いました。

 父親にはちょっと待っていただいて、二人で本部広前に参拝いたしました。お結界の金光様のところに進みました。本人からはなかなか言えないだろうと思って、私がお届けし、お話申し上げるつもりでいましたら、A君は自分で話をすると言うのです。そして、詳しく自分の症状なり、気持ちをお話申しました。学校に帰ってまいりまして、もう一度、父親と話をし、近いうちにまた是非会う約束をいたしました。

 その夜、近くにおります卒業生の整形外科医に相談しました。すると、「できるだけ早く連れて来てくれ」ということで、次に母親とやって来たときに、その医者に診ていただきました。医者は、「100%とは言いませんが、もう一度手術をすれば、完全に治るかもしれません」という話です。

 本人自信の中にも、やっと本気になって、治したいという思いが沸き起こって来たような思いがしました。最初に手術した大きな病院で再手術をして、リハビリも辛抱してやりました。退院をしてから、お父さんと二人で訪ねてくれました。その時の彼は、もう真っ直ぐ立ってしっかりとした足取りで歩いて見せてくれました。大変なおかげをいただいたわけであります。

 A次に、二年前のことです。教団独立百年の五月の出来事です。この内容はいろいろに解釈ができるのでありますが、私の中では、本当におかげであったなあと思うので、話させでもらいます。

 金光学園プフスバンド部が、福岡のサンパレスホールで行われた金光教北九州教区教団独立百年記念大会に、ゲストバンドとして招待を受けまして演奏奉仕をさせていただきました。私は前日に小倉教会に参拝してお届けをし、「部員八十名全員に御神米をいただかせてください」とお願いして、当日、演奏の直前に楽屋で一人一人に御神米を渡しました。演奏は大成功で、ご信者さんも喜んでくださいました。生徒たちは非常に喜んで、帰り

の新幹線の中で、顧問の佐藤正俊先生(本郷の佐藤秀俊さんの末弟)の指導で、皆で今の気持ちを短歌と俳句にして、お世話いただいた北九州教務センターに八十首余りを送らせていただきました。

 これを小倉教会長桂先生がご覧になって、大変喜んでくださり、すぐに信者さんに「皆さんも短歌を一首ずつ作りなさい」ということで、返歌として送られてまいりました。そういうこともあり、非常に有難かったです。数日後、そのブラスバンド部の三年生の女子生徒が、午前の授業中、急にお腹が痛くなり、トイレに行きたくなったのです。三年生のいる棟にも当然トイレはあるのですが、なぜか保健室のある別棟のトイレに行こうとした。そこで、また気が変わって、もう一つ離れた食堂の外にあるトイレに行さました。そこで用を済ませて出た時に、何かきな臭いと感じたのです。すぐ横には、昭和二十五年に建てた木造の校舎があり、今は部室と倉庫になっております。その生徒はおかしいと思って、裏手に回ってみたら、すでに炎が一メートルも上がっていて、すぐに職員室に知らせてくれ、無事消火できたのです。

 これも、偶然であると思ってもいいのですが、御神米をいただいて演奏させでいただいた生徒の一人に、本当にお知らせをいただいたというように、私には思えました。大変有難いことでありました。

B 三つ目は、私の家族のことです。十年以上も前の、長男のことです。当時、長男は大阪大学の人間科学のドクターコースにおりました。ずっとそこで研究を続けて、博士号を取るのが理想だったようですが、文系で博士号を取ることは容易なことでなく、また、助手、講師から上に進むという見込みも全くありませんでした。そこで、研究室の先輩や同級生は一般企業に就職していました。そんな時、先輩の一人から「大阪府の警察に来ないか」と誘いがありました。鑑識課ですね。長男は心理学の専門だったので、気持ちの半分はそうしようと思っていたようです。これ以上研究を続ける訳にも行かないという思いもあったのでしょう。

 そこで、迷いまして、初めて「金光様にお届けしてほしい」と電話で言ってきました。四代金光様のご晩年でした。私はすぐにお参りをいたしまして、詳しくお届けをさせていただき、「どうさせていただいたらよろしゅうございましょうか」と。

 実は、長男から電話があった時に、私はお届けすると良いと言いながら、まことに不遜な気持ちで、金光様にお届けした後のお言葉を予想していました。今から思えば恥ずかしいことです。どういう予想をしたかと申しますと、「これは大切な間題じゃ、お届け、お願いをして、その上で、家族でよう相談をし、最後はご祈念をして、本人が決めさせてもらいなさい」というようなことです。

 ところが、金光様は、いつものようにしばらくじっと御祈念をされて、一言いきなり、「これまで何のために勉強して来たのですか」と言われました。金光様は時に恐ろしい、怖い口調で仰ることがありまして、私は何度か叱られることもありました。この時は叱られるというのではなく、極めてはっきりとしたお言葉でした。それで私どもは充分に分かるわけです。「分かりました」と申し上げて引き下がりました。息子に、電話で金光様のお言葉を申しました。息子も「分かった」と言って、その後すぐに先輩にお断わりを申しました。

当時、文部省の助成金制度があって、それまで何度申請しても却下されていたのが、それから一ヶ月後、認可されました。年間百万円で、月々二十万円の生活費までくださるものでした。今では考えられない制度です。

 長男は大学院に入ってからは、専ら奨学金とアルバイトで生計を立てており、仕送りはもうよいということでありました。それが、その助成金を頂いたために、アルバイトもする必要がなくなり、研究に没頭させていただきました。その後、次々と文部技官、助手、国立大学の教官公募の制度ができ、群馬大学の公募に受かり、助教授の地位に着くことができました。今は前橋市に住まわせていただき、前橋教会にも参拝させていただいておりますが、高崎教会にご緑をいただいて、家内共々、教会の御用にもお取り立ていただき、今年四月から教会誌の編集を担当しているということであります。

 この三つ目のおかげは、就職できたということだけではなく、結局、彼がご信心をさせていただくご緑をいただいた。そういう大きなおかげをいただいた。それもこれも金光様のあの一言があってのことでありまして、私には忘れられないことであります。

 少し前のことでありますが、教育相談の会で、この話を大学のカウンセリングの先生にいたしました。教主の「これまで何のために勉強してきたのですか」のお言葉について「アイデンティティーを問われた言葉ですね」と言われました。そのころからアイデンティティーということがよく言われるようになっていたが、はっきりした思想、信条を持った生き方、変わらざる生き方、くだいて言えば目的を持ったしっかりした生き方、真実な生き方の追求ということだと思います。考えてみれば、お結界というのは、お礼、お願いの場であると共に、人間の本当の生き方を問われる場であるということを、改めて思わせていただきました。

 

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 6.生涯学習について

 暫く前から、生涯学習ということが言われるようになり、その前には、生涯教育という言葉が使われました。それは現代の教育改革の先瑞を切った中等教育審議会が最初に使ったものです。生涯教育とは、老人大学のことかゲ‐トボール等のことかと思われますが、単に年取ってから身に付ける勉強とか遊びとか趣味ということではない。少年、壮年、老年のいつから始めても、生涯教育ということなのです。学校での勉強とか、趣味という感じではない。その学習なり、趣味なり、スポ‐ツなり、その内容を主体的に自分が受け止める。それを通して具体的な生き方を実現する。それを生涯学習というようであります。主体的な生き方を確立しようとする学習の方法であると思います。

 これは、一九六五年にパリで行われたユネスコの成人教育椎進国際委員会で初めて使われたということです。日本では、一般的になったのが十年後ぐらいと言われております。近ごろはだんだん強く言われておりまして、文部科学省も随分力を入れております。「社会教育課」というのを廃止して、「生涯学習局」という役所を新設いたしました。岡山県の教育委員会の中にも「生涯学習課」を設けております。ヨーロッパにおいては、これが言葉よりも何よりも先に、実態が先行していたのではないかと思います。

 十数年前に、小野清子さん(東京オリンピックに出場の体操選手、現参議院議員」がドイツを視察した時のお話を聞いたことがあります。「ドイツの地方部市にある体育館では、オリンピック級の選手から、一般のおばあさんまでが、スポーツを楽しんでいる。そのような状態が非常にうらやましく、日本でもこうならなければならない」と言われたことを思い出します。今ではだんだん変わってきたと思います。日本でも、本気になって考んられるようになったのは理由があると思います。十年前までの日本の社会機構というか、社会構造というものは、戦後の経済成長と共に進んできたのですが、「学習」というのは、いつやるかというと、子供の時にやるんだということ。幼児、児童生徒、これらが「学習」の時代である。その学習の目的が、高校を卒業して大学に入り、良い就職をするためと思われていた。大学ぱ本来「学習」するところのばずですが、現実は私なども顧みると、大学は遊ぷ時代、人生経験を積む時代、就職運動の時代。そして、二十二才で卒業してから約四十年ぐらいが仕事の時代。六十才から六十五才で定年退職をしてからが、はじめて趣味の時代 あるいは第二、第三の時代と、そういうふうに座布団方式(座布団を績み重ねていくように)で行くという考え方であったようです。

 けれどもパブル崩壊によって、学習の階段もバラバラに崩れてきました。子供時代、高校までは勉強をする。数年すれば誰でも大学に入れるというふうに、子供の数が減ってきました。大学を出たからといって今まで通りには就職もうまくいかないという時代になってまいりました。このような社会背景があって、変わって唱えられてきたのが、「生涯学習」ということであろうかと思います。

 児童、生徒の時代は、当然学習もしますが、勉強だけではない。大いに自分の好きなことも見つけなさいと言われるようになってきました。もちろん、高校、大学時代もそうです。そのために「ゆとり」を考えての新しいカリキュラムも出来てきたわけです。
 仕事に就いてからも、一つの仕事に固定するというより、自分に最も適した仕事を求めてさまよい、いわゆるフリーターが多くなってきています。これについては、私は始めマイナスイメージを持っていました。せっかく大学まで行って、フリータ‐で、一年二年でやめてどうするのだ、ということですね。
 しかし、今はフリーターに対する価値観が変わりました。これは、フラフラしているだけではなく、自分のやりがいを求めて、本当に適した仕事を探している、それがフリーターなのだとの考え方です。何人かの卒業生と話をして、私もそのとおりだと思うようになってきました。決してマイナスイメージではない、ということであります。

 また同時に、三十年、四十年と会社のために尽くしてという生き方ではなくて、自分の生きがいのために仕事を求めるというふうにもなり、あるいは、仕事はしながら、同時に別のこともやる。ボランティアなどの生き方
もクロ‐ズアップされてきています。
 そのような中で、生涯学習が現実のこととして大切になってまいりました。今は過渡期ですから、生涯学習がなかなかやりにくいのですけれども、いち早くこれを取り人れたのは、女性ではないかと思います。女性の方で
生涯続くことをやっていると思っておられる人は多い。男性の方は、何をしていますかと尋ねると、仕事という答しか返ってこない人が多いのです。やはり、女性は神に近いと言われるように、女性は強い。これは、子供を生むからというだけではないように思います。いろんな面で女性は素晴らしいです。
 
 私は、どちらかというと、生涯学習に興味を持っています。後がら考んてみて、自分の生き方の中に生涯学習的な要素があったと思います。なぜかというと、結果論ですが、子供時代に座布団方式で勉強しなかった、遊んでばかりいた、ポ‐イスカウトのころは勉強半分、遊び半分でした。
 また、就職してからも、いろんなことを始めています。私は、少年のころから大変運動神経のにぶい者だったのです。前のめりに倒れても、手をついて体を保護することができず、顔をけがするようなこともあった。それが学習にも影響しています。大学に入ってから学習しました。転んだ時に手がでるようにとの願いから、柔道部に入って受け身を習いました。相手によく投げられましたが、受け身だけは二年間で完全に出来るようになりました。今でもいきなり倒されたら、手で防ぐことはできます。これは、生涯学習の出発点でした。


 

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 7.日々の生活が信心の楕古

 年をとったらスポーツも好きになったりしましたが、だんだん体力が衰えていきます。精神的な面も衰えてさます。性欲ももちろんですね。しかし、一つだけ衰えない生涯学習があります。それは信心だと思います。

 信心は年をとればとるほど良いと思います。年をとってもなぜ信心が衰えないかというと、生きている時だけが信心ではないからです。「生きても死んでも、天と地とはわが住みかである」というわけですから、信心も続くわけです。死んでから神に祀られるように、と拝まれるようにということも、大きな目標でありましょう。「日に日に生きるが信心」であり、「子孫までも残るものは神徳」であります。「生きても神、死んでも神」「死ぬのもおかげ」なのだとも言われます。

 世間一般では、“倒れてのち、病む”とも言いますけど、倒れてのち病まないのが、金光様の信心ではないかと思っております。信心が衰えない生涯学習だと言うのは、金光教独特の「あいよかけよ」の働き合い、神様とのあいよかけよの力があるから、年をとっても神様をいただく心があれば、それだけまた神様も力をくださる。こういうことで、衰えることはないと思います。

 また、いつでも、どこでも信心ができる。「信心はみやすいものである」と教えられております。これがまた非常に有難いと思います。水ごりをとらねばならないという信心ではない。“日々の生活が信心の稽古”というところを、私として信心の課題にしております。

 これまで私は、一心に信心したと言えなくもないのです。ご神前に座って、神様に向かっているときは本気になる。けれども、一歩外へ出たら、ほとんど神様のことは頭からぬけております。よけいなことばかり思うこともあります。

 例えば、生徒の大変な問題を抱えているときに、本気になって対応させていただく。しかし、一応その問題にカタがついてくると、ヤレヤレということになって、神様に向かうことを忘れるということもある。こういう自分を変えていかねばならないと思っております。常に神様を思うということは、何か窮屈な感じに受け取られるかも知れませんが、けっしてそうではないのです。信心はみやすいもので、肩に力が入ったものではありません。

四代金光様は、「風呂に入る時には、他に考えることはない。ゆったりとした気持ちで、風呂を楽しましてもらうがよい」と。これは、神様を忘れているわけではないのです。本当に、「ああ、ありがとうございます」という気持ちで、風呂に入っておられるわけです。

 私は、目々の生活の中に信心をということについて、コツがあるように思います。

 第一のコツは、お礼です。今の私で言えば、一秒後のことは分からぬにしても、この瞬間までは“根津の会”のご用をいただいて、ここまでお話させていただいたというお礼です。一瞬一瞬が真に有難いということです。何かをしていただいたから有難いというのではなく、今ここに私は到達できたということが、有難いことではないかなあと思っております。二つ目のコツは、可愛いと思う心を持ち続けることだと思います。

 この二つが日々の信心ということで、私が課題にする最も大きなことであり、このことを忘れずに行くことで今日の講題が実現すると考えでおります。

 私にとってどちらが難しいかと言いますと、一つ目の有難いとお礼をいう心は大体起きてくるようになりました。時には家内に向かって腹を立てることもあるが、一年前、半年前とは自分が変わってきているように思います。けれども、二つ目の可愛いと思う心を持ち続けることは、今の世の中では大変難しい点があるように思いますね。

例えば、金光学園では、長い間“可愛いと思う心”を基礎に置いて、生徒は退学をしないということで努力して来ました。けれども、最近ついに退学者を一人出しました。その場合、退学した後も生徒のことを私はお願いさせていただくけれども、形から言えば切ったことに違いはありません。英語で言えば退学は“キック了ウト”蹴飛ばして外へ放り出した、ということになります。 

 

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 8. 現代という時代

 現代という時代について、そのように、時代は変わりつつあります。

 二十世紀の終わり頃に、「二十一世紀は、競争の時代が終わって、協調の時代が来る」と言った人もあるし、「心の時代」だと言った人もあります。しかし、二十一世紀になって二年目、世間ではあまり実感として協調の時代、心の時代とは言っていない。むしろ、競争が激化している。例えば、私立学校を考えてみても、なにぶん子供が少ないから、学校間の激しい競争になってくる。従って、それぞれ学校の特徴を強く出すことになります。

 そのことで、びっくりしたのですが、ある学校では、「私のところでは、“ゼロ・トレランス”」というのです。“トレランス”とは“寛容”です。寛容ゼロということで、生徒を厳しく厳しく教育していくと標傍する。そういうことを売りに出す時代になってきています。

 現代は、国家間、企業間の競争もますます激しくなることは明らかでしょう。ただ一方で、そうでないプラスの側面も、身近なところに沢山あると思います。時間がないので具体的なことは申し上げられないが・・・・。

 そういう時代だからこそ、私は思うのです。教祖様の時代も、江戸から明治へと大混乱の時代、二番目の大混乱が我々も体験した終戦の時、そして、第三の大混乱が今の時代ではないかと思います。これだけ激しい競争、心の荒廃が起きた時に、今年が教育の新世紀だという言い方もするが、しかし文部科学省の出した方針が、たちまち又違った指示を出さねばならぬというぐらい、激しい混乱を起たしているのも確かで、大混乱の時代です。

 だからこそ、あの明治時代に、教祖様が「世が開けるというけれども、開けるのではなし。めげるのぞ。そこで、金光が世界を助けに出たのぞ」(市川光五郎)と、教えられた通りのことが、今の大きな混乱の時代にもあてはまるのではないかと思います。

 立教神伝(安政六年)からすでに百四十年が過ぎ、来年(平成十五年)は教祖百二十年のお年柄です。それだけに、教祖様の時代に帰り、我々一人一人が何をなすべきか、私は、一人一人が直信になることが必要ではないか、と痛切に思われます。

 良いこと、心暖まる世界も沢山あります。百四十年前に帰るというのは、時代を逆行するのではないのです。情報化時代が後戻ることは絶対になく、遥かに進んでいくことでしょう。生命の神秘へも人の手が届こうとする生命科学も後戻りすることはできません。

 けれども有難いことに、教祖様は「道理に合う信心をせよ」と言われているのですから、情報も科学も、生命科学も、決して教祖様のお道と矛盾するものではありません。むしろ、それぞれの到達するところは、金光教の布教に大いに活用できるのではないかと思います。

 いずれは情報で、教会同士のネットワークを作っていく。例えば、問題を抱えた信者さんがお参りされた時、「この問題ならば、あの教会の、あの先生のところへお参りしてごらんなさい」と、このようなネットワークはすぐにできるし、信者さんの願いを教会がキャッチし、先取りして、「あなたならば、こういうことができるのではないですか」と返していくことも、情報化では可能ではないかと思います。

 最近の新しい免疫学の考え方でも“ガン細胞と戦う”“ガンを殺す”というのでなく、極端に言えば、“ガン細胞の中にも、あいよかけよの働き合いがある。という考え方があるのだそうです。これは難しくて私には分かりません。けれども最近、自立神経免疫療法ということも聞きまして、それとも関連があるかと思います。

 予定の時間を五分も超過しました。長時間にわたりご静聴いただき、ありがとうございました。どうぞ、今日の大御祭のおかげをいただかれまして、それぞれご無事にお帰りになりますよう、ご祈念させでいただきます。ありがとうございました。                                                                                                                               (おわり)

                   (文責 大久保隆昌先生) 

 

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