5.三つ大きなおかげ
私は、今年で二十五年、金光学園で過ごさせていただいております。この間の生活を振り返ってみて、あれもおかげ、これもおかげということを、強く思わせていただいています。その中でも、三つの大きなおかげについて、お話させていただきたいと思います。
@八年前のこと、A君は中学二年生の時に、ある運動部に属しておりました。練習試合で、他の選手とぶつかり、足首を骨折しました。だが、けがをした時は歩けたものだから骨析でなく、大したことはないと考えて、電車に乗って帰宅しました。翌日、近所の医者に行ったのですが、極めてまずい治療のようでした。その上、そのころから小学校時代からの遊び友達ができて、学校が大儀になり、嫌になってくる、いわゆる不登校に近いものになってきました。治療が悪くて足を引きずって歩くような状態になり、学校へも来ない。面倒くさがり屋の性格もあって、医者にもちゃんと行かず、足の状態がだんだん悪くなってきました。一度は大きな病院で手術をしたのですが、その後のリハビリを本気でしなかったこともあって、明らかに左右の足の長さが違ってくるという状態になりました。その後学園の高校へ進学し、途中、休学して北海道に働きに行くという時期もありましたが、それもうまく行かず、失望して帰ってきて、とうとう退学しました。
その後も、遊び仲間とぶらぶらしているうちに、“こうなったのも、元はと言えば、中学二年生の時の、あの試合で骨折した時に、顧問の先生がすぐに医者に連れて行ってくれなかったからだ」として、親子共々、学校の態度も良くなかったと思うようになり、ある日、本人がお父さんと学校に来ました。お父さんは、それほど激しい口調ではありませんでしたが、「どう責任をとってくれるか」ということでした。本人は、あまり責めると顧問の先生に悪いというような気持ちを持っていた様子でした。私はお詫びをしました。その上で問題は今後の治療がどこまで可能であるかということで、話をしているうちに、私はふと心に浮かぶままに、本人に向かって、「これから金光様にお参りするか」と申しました。すると、以外に[はい]と十七才の本人は言いました。
父親にはちょっと待っていただいて、二人で本部広前に参拝いたしました。お結界の金光様のところに進みました。本人からはなかなか言えないだろうと思って、私がお届けし、お話申し上げるつもりでいましたら、A君は自分で話をすると言うのです。そして、詳しく自分の症状なり、気持ちをお話申しました。学校に帰ってまいりまして、もう一度、父親と話をし、近いうちにまた是非会う約束をいたしました。
その夜、近くにおります卒業生の整形外科医に相談しました。すると、「できるだけ早く連れて来てくれ」ということで、次に母親とやって来たときに、その医者に診ていただきました。医者は、「100%とは言いませんが、もう一度手術をすれば、完全に治るかもしれません」という話です。
本人自信の中にも、やっと本気になって、治したいという思いが沸き起こって来たような思いがしました。最初に手術した大きな病院で再手術をして、リハビリも辛抱してやりました。退院をしてから、お父さんと二人で訪ねてくれました。その時の彼は、もう真っ直ぐ立ってしっかりとした足取りで歩いて見せてくれました。大変なおかげをいただいたわけであります。
A次に、二年前のことです。教団独立百年の五月の出来事です。この内容はいろいろに解釈ができるのでありますが、私の中では、本当におかげであったなあと思うので、話させでもらいます。
金光学園プフスバンド部が、福岡のサンパレスホールで行われた金光教北九州教区教団独立百年記念大会に、ゲストバンドとして招待を受けまして演奏奉仕をさせていただきました。私は前日に小倉教会に参拝してお届けをし、「部員八十名全員に御神米をいただかせてください」とお願いして、当日、演奏の直前に楽屋で一人一人に御神米を渡しました。演奏は大成功で、ご信者さんも喜んでくださいました。生徒たちは非常に喜んで、帰り
の新幹線の中で、顧問の佐藤正俊先生(本郷の佐藤秀俊さんの末弟)の指導で、皆で今の気持ちを短歌と俳句にして、お世話いただいた北九州教務センターに八十首余りを送らせていただきました。
これを小倉教会長桂先生がご覧になって、大変喜んでくださり、すぐに信者さんに「皆さんも短歌を一首ずつ作りなさい」ということで、返歌として送られてまいりました。そういうこともあり、非常に有難かったです。数日後、そのブラスバンド部の三年生の女子生徒が、午前の授業中、急にお腹が痛くなり、トイレに行きたくなったのです。三年生のいる棟にも当然トイレはあるのですが、なぜか保健室のある別棟のトイレに行こうとした。そこで、また気が変わって、もう一つ離れた食堂の外にあるトイレに行さました。そこで用を済ませて出た時に、何かきな臭いと感じたのです。すぐ横には、昭和二十五年に建てた木造の校舎があり、今は部室と倉庫になっております。その生徒はおかしいと思って、裏手に回ってみたら、すでに炎が一メートルも上がっていて、すぐに職員室に知らせてくれ、無事消火できたのです。
これも、偶然であると思ってもいいのですが、御神米をいただいて演奏させでいただいた生徒の一人に、本当にお知らせをいただいたというように、私には思えました。大変有難いことでありました。
B
三つ目は、私の家族のことです。十年以上も前の、長男のことです。当時、長男は大阪大学の人間科学のドクターコースにおりました。ずっとそこで研究を続けて、博士号を取るのが理想だったようですが、文系で博士号を取ることは容易なことでなく、また、助手、講師から上に進むという見込みも全くありませんでした。そこで、研究室の先輩や同級生は一般企業に就職していました。そんな時、先輩の一人から「大阪府の警察に来ないか」と誘いがありました。鑑識課ですね。長男は心理学の専門だったので、気持ちの半分はそうしようと思っていたようです。これ以上研究を続ける訳にも行かないという思いもあったのでしょう。
そこで、迷いまして、初めて「金光様にお届けしてほしい」と電話で言ってきました。四代金光様のご晩年でした。私はすぐにお参りをいたしまして、詳しくお届けをさせていただき、「どうさせていただいたらよろしゅうございましょうか」と。
実は、長男から電話があった時に、私はお届けすると良いと言いながら、まことに不遜な気持ちで、金光様にお届けした後のお言葉を予想していました。今から思えば恥ずかしいことです。どういう予想をしたかと申しますと、「これは大切な間題じゃ、お届け、お願いをして、その上で、家族でよう相談をし、最後はご祈念をして、本人が決めさせてもらいなさい」というようなことです。
ところが、金光様は、いつものようにしばらくじっと御祈念をされて、一言いきなり、「これまで何のために勉強して来たのですか」と言われました。金光様は時に恐ろしい、怖い口調で仰ることがありまして、私は何度か叱られることもありました。この時は叱られるというのではなく、極めてはっきりとしたお言葉でした。それで私どもは充分に分かるわけです。「分かりました」と申し上げて引き下がりました。息子に、電話で金光様のお言葉を申しました。息子も「分かった」と言って、その後すぐに先輩にお断わりを申しました。
当時、文部省の助成金制度があって、それまで何度申請しても却下されていたのが、それから一ヶ月後、認可されました。年間百万円で、月々二十万円の生活費までくださるものでした。今では考えられない制度です。
長男は大学院に入ってからは、専ら奨学金とアルバイトで生計を立てており、仕送りはもうよいということでありました。それが、その助成金を頂いたために、アルバイトもする必要がなくなり、研究に没頭させていただきました。その後、次々と文部技官、助手、国立大学の教官公募の制度ができ、群馬大学の公募に受かり、助教授の地位に着くことができました。今は前橋市に住まわせていただき、前橋教会にも参拝させていただいておりますが、高崎教会にご緑をいただいて、家内共々、教会の御用にもお取り立ていただき、今年四月から教会誌の編集を担当しているということであります。
この三つ目のおかげは、就職できたということだけではなく、結局、彼がご信心をさせていただくご緑をいただいた。そういう大きなおかげをいただいた。それもこれも金光様のあの一言があってのことでありまして、私には忘れられないことであります。
少し前のことでありますが、教育相談の会で、この話を大学のカウンセリングの先生にいたしました。教主の「これまで何のために勉強してきたのですか」のお言葉について「アイデンティティーを問われた言葉ですね」と言われました。そのころからアイデンティティーということがよく言われるようになっていたが、はっきりした思想、信条を持った生き方、変わらざる生き方、くだいて言えば目的を持ったしっかりした生き方、真実な生き方の追求ということだと思います。考えてみれば、お結界というのは、お礼、お願いの場であると共に、人間の本当の生き方を問われる場であるということを、改めて思わせていただきました。