父も脱走して、咸興で八つ波の御紋を見出し、そこに逃げ込みました。その教会の御用をなしくだされていたのが、金原通文先生、トヨ先生ご夫妻でした。金原通文先生は鎮南浦教会長であられたが、八月に引き払って、咸興教会の御用に当たっておられた。容易ならない中で父をかくまってくださいました。
月例祭のお日柄になると、金原先生が朝鮮の人にお金を渡して、魚を求められた。それを押入れに、密かに隠しておられる。教会のお祭り日で、早くから供えておくと、現地の人に直ぐ踏み込まれて強奪される。日本人に対する今までのうっせきしたものがあったのでしょう。
また、赤ちゃんが泣いていると、女の人がいるということで、ソ連兵が来て女性を連れていったりする中を、かくまってくださったのです。
誰一人として日本人がお参りする状況ではない。それを、金原先生が本当に丁寧に大切にご神前にお供物をなさる。先生は、お供えし拝礼なさると、直ぐ下げられ、八足や三宝等もしまわれる。それで、父が「金原先生、月例祭といっても、誰一人お参りなさる方もないのに、そんなにまでなされるのですか」と言いました。すると金原先生は、「斎藤先生、お祭りというのは、神様にさせてもらうものです。お参りがあるとかないとかは問題ではないと、私は頂かせてもらっている」と仰った。父は後々、「私は、あの時、咸興で金原先生から大切なことを教えて頂いた。有難かった」と申しておりました。
また、父は栄養失調からだと思うが、アメーバー赤痢で大変な熱が出、その上、肺炎も起こした時のこと、医者にかかるわけにもいかず、広前の次の間に休んでおりましたら、金原先生が夜通し御祈念をくださったのであります。御祈念の中で、神様に、「ただ今、奥の部屋で休んでおります氏子は、斎藤松太郎と申しますが、これはいずれ笠岡教会へ帰り、その御用に当たる氏子であります。しかも、その妻であります信子は、自分にとっては師匠と仰ぐ高橋茂久平先生の末の娘さんであります」云々と申し上げられる。高橋茂久平先生は、私の母の父親で、芸備教会の初代、佐藤範雄大先生、照先生に育てられ、大変に可愛がって頂かれた方です。
高橋茂久平先生は、昭和四年に亡くなられましたが、生前、朝鮮布教の管理所長、今でいうセンター所長のお役を頂いた人であります。朝鮮布教については、殊の外願いを立てられ、また、金原先生も芸備教会お広前で共にご修行に励まれ、朝鮮布教に出ることについても関係が深かった。そういうわけで、金原先生は、茂久平先生を篤と仰いでおられた。そういうご縁があって、その時のご祈念によって、父は救われて、命を長らえさせて頂くことができたわけであります。
しかしながら、病気は良くなっても、日ごろ父は何もすることがない。プー太郎といって、日本人の男たちが集まる所があった。そこに立って待っていると、トラックがやってきて、手配師が力の強そうな人を、その日の仕事に応じて、必要な人夫を五人とか十人を呼び込んで車に乗せ、工事現場に連れて行く。どこへ行くか、何をさせられるのかは分かりません。行った先で一日、ツルハシを振ったりモッコウを担いだりすれば、日々が過ぎる。だが、何もない日ほど辛いことはなかったという。
仕事がない日は、一日中、街を歩いて、タバコの吸い殻(シケモクという)を拾って、持って帰る。お広前の横の方で、新聞紙を広げ、金原先生ご夫妻と父とが三人で、シケモクの葉をほぐし出して、タバコを手巻きする簡単な道具で、一本ずつ紙に巻き直す。父は手先が器用で、こよりでも素早くピーンと真っ直ぐに作れる人でした。だから、タバコ作りも、たぶん綺麗に巻けたと思います。反対に奥様のトヨ先生は、当時からお目がご不自由で、大変だったと思う。だから、数十本出来た中で、巻き方を見ただけで、金原先生と奥様と父の誰が作ったものか、すぐ判ったという。
そのタバコを父が街角へ持って出て行き、新聞紙の上に並べて売る。すると、二本三本と買い求めて行く人がある。その時のことについて、父は「東洋男、えらいもんじゃなあ。金原先生が巻かれたタバコから売れていくのじゃ。わしの方のが綺麗にできているのに、その先生の徳というものは不思議だ」と言うております。
戦争に負けて、国が崩壊し、身の保全、安全はもとより、これからどうなっていくか判らない世の中で、こうした端々のことにでも、金原先生から教えられた、神様を大切になさる信心、そのお徳が、信心のない方へも表れていくことを目の当りに見せて頂いた」と申しておりました。