根津の会(講話・その1)

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根津の会合同研修会における講話(要旨)

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 西三十三カ国開道の祖 〈笠岡金光大神〉

斎藤重右衛門師の信心の足跡

平成18年10月7日

金光教笠岡教会長 斎藤東洋男先生

はじめに

    只今ご紹介をいただいた、笠岡教会の御用を承っている斉藤でございます。私の自己紹介になるが「東洋男」という名前です。昭和二十年八月十日生まれです。

 その年の四月三日が初代斎藤重右衛門の命日、お日柄であり、五十年祭に当たりました。しかしながら、戦争が大変厳しい状態になっていて、五十年祭という大節の年であったが、先代教会長の斎藤松太朗(私の父)は、かつがつ御用を仕えたそうであります。

 父は明治三十七年生まれで、その時は四十歳を少し過ぎた頃だったと思う。支那事変に一度応召して、中国へ出征し、無事帰国しておりました。

 当時の厚生省から、各宗教教団に対して、「県民修練を国として行いたい。ついては、出征兵士だった者を各教団で講師に推薦してもらいたい」という要請があったようです。金光教では、父の他にどういう方々が御用に当たられたかよく分からないが,昨年亡くなられた大徳道人先生(山口県小野田市教会在籍)も講師として派遣され、その後、ご本部で長年御用に当たることになられたと承っております。

 昭和二十年のころは、笠岡の天理教の大教会所を会場にして、徴兵検査で不合格になった方々を合宿の形態で集め、天理教の先生や、私の父が講師となって指導していたようであります。


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北鮮へ先代斎藤松太郎先生の出征

 そのような中で、四月三日、初代の記念の式年祭を仕え終えて、次の日、ご本部へお礼参りをした。帰ったところへ二度目の召集令状が来た。直ぐに岡山の連隊に入り、六月に広島の宇治港から乗船して北鮮へ出征しました。

 八月十五日に敗戦となり、咸興という所で武装解除になった。直ぐに北からソ連軍が侵入し、日本の軍人は捕虜となり、そこで軍事裁判が開かれた。一人ずつ前に引き出されて、簡単な取り調べと裁判の後に即決、「貴方は死刑」ということで銃殺された人もあったという。父は後に、「一生の内で、その時ぐらい怖かったことはなかった」と話をしておりました。

 その時のソ連兵は、日本兵がはめていた腕時計を全部没収して、自分の両腕に三っも四っもはめて喜んでいたが、やがてねじがきれて動かなくなると、捨ててしまうというようなことで、腕時計も初めて見る兵隊が主だったようです。また、これから日本を攻めるのだと話をしているが、聴いてみると、日本に行くのに日本海があって、海の向こう側の島国だということも知らない様子です。そういう中を、日本兵は脱走した。残った人々はシベリアに抑留されることになったようです。 

 
咸興教会にかくまわれた先代教会長

   父も脱走して、咸興で八つ波の御紋を見出し、そこに逃げ込みました。その教会の御用をなしくだされていたのが、金原通文先生、トヨ先生ご夫妻でした。金原通文先生は鎮南浦教会長であられたが、八月に引き払って、咸興教会の御用に当たっておられた。容易ならない中で父をかくまってくださいました。

 月例祭のお日柄になると、金原先生が朝鮮の人にお金を渡して、魚を求められた。それを押入れに、密かに隠しておられる。教会のお祭り日で、早くから供えておくと、現地の人に直ぐ踏み込まれて強奪される。日本人に対する今までのうっせきしたものがあったのでしょう。

 また、赤ちゃんが泣いていると、女の人がいるということで、ソ連兵が来て女性を連れていったりする中を、かくまってくださったのです。

 誰一人として日本人がお参りする状況ではない。それを、金原先生が本当に丁寧に大切にご神前にお供物をなさる。先生は、お供えし拝礼なさると、直ぐ下げられ、八足や三宝等もしまわれる。それで、父が「金原先生、月例祭といっても、誰一人お参りなさる方もないのに、そんなにまでなされるのですか」と言いました。すると金原先生は、「斎藤先生、お祭りというのは、神様にさせてもらうものです。お参りがあるとかないとかは問題ではないと、私は頂かせてもらっている」と仰った。父は後々、「私は、あの時、咸興で金原先生から大切なことを教えて頂いた。有難かった」と申しておりました。

 また、父は栄養失調からだと思うが、アメーバー赤痢で大変な熱が出、その上、肺炎も起こした時のこと、医者にかかるわけにもいかず、広前の次の間に休んでおりましたら、金原先生が夜通し御祈念をくださったのであります。御祈念の中で、神様に、「ただ今、奥の部屋で休んでおります氏子は、斎藤松太郎と申しますが、これはいずれ笠岡教会へ帰り、その御用に当たる氏子であります。しかも、その妻であります信子は、自分にとっては師匠と仰ぐ高橋茂久平先生の末の娘さんであります」云々と申し上げられる。高橋茂久平先生は、私の母の父親で、芸備教会の初代、佐藤範雄大先生、照先生に育てられ、大変に可愛がって頂かれた方です。

 高橋茂久平先生は、昭和四年に亡くなられましたが、生前、朝鮮布教の管理所長、今でいうセンター所長のお役を頂いた人であります。朝鮮布教については、殊の外願いを立てられ、また、金原先生も芸備教会お広前で共にご修行に励まれ、朝鮮布教に出ることについても関係が深かった。そういうわけで、金原先生は、茂久平先生を篤と仰いでおられた。そういうご縁があって、その時のご祈念によって、父は救われて、命を長らえさせて頂くことができたわけであります。

 しかしながら、病気は良くなっても、日ごろ父は何もすることがない。プー太郎といって、日本人の男たちが集まる所があった。そこに立って待っていると、トラックがやってきて、手配師が力の強そうな人を、その日の仕事に応じて、必要な人夫を五人とか十人を呼び込んで車に乗せ、工事現場に連れて行く。どこへ行くか、何をさせられるのかは分かりません。行った先で一日、ツルハシを振ったりモッコウを担いだりすれば、日々が過ぎる。だが、何もない日ほど辛いことはなかったという。

 仕事がない日は、一日中、街を歩いて、タバコの吸い殻(シケモクという)を拾って、持って帰る。お広前の横の方で、新聞紙を広げ、金原先生ご夫妻と父とが三人で、シケモクの葉をほぐし出して、タバコを手巻きする簡単な道具で、一本ずつ紙に巻き直す。父は手先が器用で、こよりでも素早くピーンと真っ直ぐに作れる人でした。だから、タバコ作りも、たぶん綺麗に巻けたと思います。反対に奥様のトヨ先生は、当時からお目がご不自由で、大変だったと思う。だから、数十本出来た中で、巻き方を見ただけで、金原先生と奥様と父の誰が作ったものか、すぐ判ったという。

 そのタバコを父が街角へ持って出て行き、新聞紙の上に並べて売る。すると、二本三本と買い求めて行く人がある。その時のことについて、父は「東洋男、えらいもんじゃなあ。金原先生が巻かれたタバコから売れていくのじゃ。わしの方のが綺麗にできているのに、その先生の徳というものは不思議だ」と言うております。

 戦争に負けて、国が崩壊し、身の保全、安全はもとより、これからどうなっていくか判らない世の中で、こうした端々のことにでも、金原先生から教えられた、神様を大切になさる信心、そのお徳が、信心のない方へも表れていくことを目の当りに見せて頂いた」と申しておりました。

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金原先生ご夫妻の再布教

金原先生ご夫妻は、日本に引き揚げて帰られて、本部の修徳殿の常在輔導として御用にお当たりくださっておりましたが、七十才を過ぎて、是非布教にださせてもらいたいとの願いから、水島教会設立(昭和三十一年)のおかげを蒙られました。父もわずかな御用であったが、多少のお手伝いをさせて頂いたようです。

 父は、昭和二十一年五月二十五日に、命からがら復員してまいりました。毎年この日になると、子供の私を連れてご本部へお礼参りをする。また、水島教会へもお礼参りに行きました。昭和四十年一月二十二日、金原道文先生がお国替えになりました。それからは、一月二十二日を大切なお日柄と頂いて、私は毎年、水島教会へお参りさせて頂いておりました。

 奥様の金原トヨ先生は、その後も、お目がご不自由な中、お一人で御用されました。お広前にお座りになっておられるので、私が参らせていただくと、玄関の戸を開けて直ぐに、「笠岡の斎藤です。お参りさせて頂きました」と先に声を発するのです。それは、いつも参られる信者さんと足音とか気配が違って、ご不安になられてはいけないと思って、そうしていました。そうしましたら「斎藤先生、よくお参りでしたなあ」と、喜んでお迎えくださったことを、今でも忘れられません。

 昭和五十六年の夏に、トヨ先生はお体の具合いが悪くなられ、水島教会にお見舞に上がらせて頂いた。その時に、お広前の御用は今の教会長である若先生(金原先生のお孫さん)でした。「先生、おばあさんはもうよく判られないようになっておられるから、病院へ行かれなくてもいいですよ」と、お結界で仰った。私もそういう中を病院へ押しかけて行って、かえってお心煩わしたらと思い、僅かながらのお見舞をお結界に託して帰らせて頂きました。

 その次の日に、飯塚東教会長の奥様(トヨ先生の娘さん)が、笠岡教会にお参りくださいました。そして、次のような話をしてくださいました。

 「昨日、私が病院で、母に付き添っておりましたら、『ああ、今、笠岡の斎藤先生が来られたなあ』と言われた。お母さんは、また、うわ言のようなことを言われると思い、『ここにおるのは私だけですよ』と言いましたら、『あんたには分からんのじゃろうなあ』と言う。それで洗濯物を持って教会に帰ったら、甥が『今、笠岡の先生がお見舞に来られたけれども、病院へ行っても、おばあさんは判らんようになっているからとお断わりし、帰ってもらいました』と話してくれて、はっと思いました。母は、先生がお見舞いに来てくださったことを判っておったようです。」

お道のご縁と深い祈りの中で

   話が横へそれていきましたが、今日、熊谷の大久保先生もご参拝くださり、いろんなことでお道のご縁を深く感ずるわけです。

 そうしたご縁の中で、私が生まれた、昭和二十年八月十日というと、父はもう北鮮で生死不明の状況になっていた。その中で母はお産をして、八月十五日が、私の名付け日だったと言います。所謂お七夜です。ところが、それが敗戦という日になりましたから、赤飯やお餅も作れない中で、これからみんなどうなるであろうかと、ひそひそ話をしていた。そこへ岡東教会長の高橋博志先生(母の兄)が来て、「東洋男」と名前を付けてくれました。母が「兄さん、それはあんまりだ。戦争に負けて、どうなろうかという時に、いかにも勇ましい名前だ」と笑って申しましたら、博志先生は「これでなければいけんのじゃ」と言って名付けたと聞かされております。

 そういうご神縁、また、深い祈りの中で、私はこちらの教会の御用を仕えさせて頂いております。けれども、初代の残された遺徳というものを十分に受け、そこからの御用ということにはなっておりません。

 前置きが長くなりましたが、初代斎藤重右衛門のことに触れて、お話をさせていただきたいと思います。

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初代斎藤重右衛門師の入信の機縁

   初代は、文久元年、今から百四十五年前の八月十五日に、教祖様のお広前にお引寄せ頂くことができました。このことについて、この度のご伝記『金光大神』によると、「斎藤重右衛門は、妻の重病が入信の機縁だった。大谷の金神様へ一度だけ参詣してほしいとの妻の最後の頼みを受けて、今まで神仏に手を合わせたことのない重右衛門は、やむなく大谷にやって釆た」と記されてあります。新しい資料が出たのかも知れません。

 実は、前のご伝記に「こころが一粋気である」と記されてあるように、初代はもともと非常に純粋でありました。しかしながら、神仏に手を合わせたことがないとか合わさないということはないのであります。

 むしろ、信心深いというほどの人間でありました。例えば、自分の父親の病気が重くなり、危篤になった時には、この教会から二、三キロ奥にある石鎚山に籠もって、冬の寒い中、水ごりを取りながら、病気平癒の祈願をしたと、初代の伝記には載っております。また、若い時から、四国八十八箇所の霊場へお参りをさせて頂くなど、神様、仏様を手厚く拝ませて頂くことが出来ておったわけである。しかしながら、どういうことで、新しいご伝記の記述になったかは、私もよく分かりません。

 さて、初代が、妻の頼みを受けて大谷へお参りをしたということ。これは、夫人がその年の春から産後の血の道と言われているが、そのころお産をした記録はない。今で申すと、子宮筋腫か、子宮ガンのような病気ではなかったかと思われます。

 笠岡の三人の医者が、「もう、とても自分たちの手におえない、病気が非常に重い。今のうちに会いたいという人があれば、会わせてあげてくれ。本人が欲しいというものは、喉を越すうちに与えてあげてくれ」と言ってさじを投げました。

根津の会合同研修会における講話(要旨)≪次頁に続く≫

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