和光同塵・同事
優れた人が、私達凡人と一緒に物事をしてくれてる時、誉め言葉として「和光同塵の心ですね」などと言います。優れた人は和光同塵の心を持つ事が大切でしょうし、私達凡人はその「深き心」に感謝しつつ、精進する事が必要でしょう。
ところで、和光同塵の元祖は「道」であり、「仏・菩薩(ぶつ・ぼさつ)」です。和光同塵の苦は老子の「道沖而……和其光、同其塵(みちはむなしけれども……そのひかりをやわらげそのちりにおなじくす)」からとられたもので、仏教的には「仏が衆生(しゅじょう)を済度する為、本来の光を和らげて、仮の姿をとってこの世に現れる」事を指します。私達と同じ煩悩の塵にまみれながら、衆生を次第に仏法へ引き入れて救ってくださるというのですね。さも仏さまらしくして衆生を次第に近づいたのでは、かえって恐れられてしまうかもしれません。救う相手と同じになる事で相手に安心を与え仕事を同じくして親しませて、相手を道へ導くわけです。
日本は昔、神仏習合・本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)にこの論理を使いましたが、仏というも、道というも、神というも、人というも皆同じ理屈です。相手を救おうという「和光同塵の深き心」が仏を自在に変化させるのです。仏さまには法身・報身・応身の三身があると説かれ、和光同塵も其の働きの一つと言えましょう。
相手の求めるものに見を変えて相手を救う。これに類するものに同事摂(どうじしょう)という働きがあります。布施・愛語・利行・同時という四摂法(よんしょうほう)の一つで「相手と同じ事をする」事です。
世の先生や親と呼ばれる人達も、是非仏様に習って和光同塵し、同時行を実践してほしいものです。子供の立場になれば子供の気持ちもわかり、障害者の立場になれば障害者の不便がわかり、老人の立場になれば老人の悲哀もわかるというものでしょう。まず相手の身になる。そこからはじめて相手の求めるものがわかり、本当の親切、救済活動ができるのではないでしょうか。
法話目次六へ
サイトトップへ