「暮らしの中の仏教語」
日常使う私たちの日本語を学んで見ませんか
恋慕・愛



 以前の法話で私が、「お釈迦さまを恋慕する」と表現しましたところ、聴取者より「お釈迦さまに恋慕という言葉を使うのはおかしいというご注意を賜りました。確かに現代の恋慕の語意からするとそうもいえるでしょう。でもこれはお経中にちゃんとそう表現されている「仏教語」なのです。
 法華経には「衆我が滅度を見て広く舎利を供養し成く皆恋慕を懐いて渇仰の心を生ず」とあります。こうしてみると「異性を恋い慕うこと」というのは、どうやら後代の派生的な意味のようですね。仏を恋い慕うほど真剣だということから変化したのでしょう。ところで仏教では愛をあまり良いことに見ておりません。特に異性間の愛は渇愛に落ち入りやすく、気をつけなければならないのです。愛は愛着とか愛執という熟語があるとおり、自分を中心にして相手への執着を貫こうとする心持であり、相手を思いやる心とはほど遠く、相手を傷つけ、自分も傷つけられ、恨みだけが残る結果になるかもしれないからです。
 キリスト教が日本に入ってきた時、神の愛というのを避けて神のご大切としたのは、そんな愛の解釈を知っていたからでしょう。「愛心つねに起りて善心を染汚す」という親鸞聖人の語にある如く、愛は煩悩の一つであることを免れませんが、慈愛にまで高めることができれ
ば本物になりえます。よけいなことを申し上げますが、恋人は作っても愛人は作ってはなりません。恋慕はあこがれる心であり、敬いを内蔵して仏の慈悲に通じますが、愛は人を束縛し自由を奪おうとする自分本位の心です。本当の愛とは何か、若い人達には特に考えてほしい
命題であります。



                


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