「暮らしの中の仏教語」
日常使う私たちの日本語を学んで見ませんか
悲願




 高校の球児であれば、一度は甲子園へ出たいというのが悲願ですが、「悲願」と「願い」はどう違うのでしょうか。
 小学生向きの国語辞典で悲願を引きましたら「どうしてもなしとげたい願い」とありました。一方、仏教辞典には「仏・菩薩が大慈悲によって起こす誓願」とあります。賢明な皆様なら、もうお解りですね。
 悲願とは元々、慈悲によって裏づけられた仏の大悲願力のことで、衆生救済を成(な)し就(と)げたいと有難くもせつないまでの仏の願いをいうのです。
 これが転じて、一般に是非ともなしとげたい願いを悲願というようなりましたが、悲願すべきものの本家は「人を救うこと」だということを覚えておいてください。
 仏様ならどなたでも悲願をもっておられますが、中でもお地蔵様がこの専門家です。お地蔵様は別名を悲願金剛(こんごう)とか願王尊(がんのうそん)とかいい、直(じか)に私達に交ってこの行を実践しておられます。
 声聞形(しょうもんぎょう)《坊さんの形》をして、お寺の中ばかりでなく、山の中や街の中、道の辻に立って私達に救いの手をさしのべてくださっているでしょう。村のはずれのお地蔵さんがいつもニコニコ見てござるのは衆生の姿です。
 これほどまでに私達の生活に溶けこんでいる仏様は他におられませんね。お釈迦様が亡くなられてから弥勒(みろく)さまが生まれてこられるまでの五十六億七千万年という長い無仏(むぶつ)時代を、このお地蔵様が化導(けどう)くださるのだそうです。
 子育てから延命、更に死出(しで)の旅まで、私達の生死の導師として、幅広く御活躍のお地蔵様のことは、改めてここに語ることもないでしょう。
 球児の悲願とお地蔵様の悲願ではちょっと次元が違うようですが、私達も出来るなら、本来の悲願を持ち、世の為、人の為に微力なりともささげてゆきたいものであります。





                


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