猶 予
支払猶予、執行猶予などという猶予の語が、インド論理学の困明に由来する語であることをご存知でしょうか。仏教論理学も、もちろんこの困明を継承しているんですね。
玄奘三蔵法師の著した『困明入正理論』に「義の別ち難き疑囚なるが故に、説いて猶予と名く」とあるように、猶予とは本来、疑惑のことをさしました。それがいつのまにか「疑わしいので決定できずためらっている↓ためらいがあるので決めないでおく↓実行を先にのばす」のように変わり、いまの意味に使われる語となったのでしょう。
霧か煙か見定めないうちから「あそこには煙があるから火がある」と決めつけるのを猶予不成過といって、論理学的には気をつけなければならないことですが、でも、いつまでも疑っていて、決定できずにいることは煩悩に通じます。
昔、一頭のロバがおりました。ロバから前方の左右には、二つの乾し草の山があり、ロバはどちらかの乾し草を食べることができました。しかしこのロバは、左へ行くと右の乾し草がおいしそうに見え、右へ行くと左の乾し草がおいしそうに見えて、どちらを食べるか決定できぬまま、餓死してしまいました。この話はフランスの哲学者ビユリダンの作ったものですが、私たちもこれと同じことをしてはいないでしょうか。
人間に特有な煩悩に疑があります。ああではなかろうか、こうではなかろうかと勝手に邪推だけしていて、真実を知ろうとしないばかりか、なかなか決定できずに一生を終えてしまうものも少なくありません。人生には一刻の猶予も許されません。
仏智によって速く真実を見究め、心を安定に決めて、疑うことも惑うこともない生命を、日々生きてゆきたいものと思います。
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