「暮らしの中の仏教語」
日常使う私たちの日本語を学んで見ませんか
無為・無作為
 無為に日送りをしたり、無為無策であってはいけませんが、この場合の無為の意味は「何もしないでブラブラしている」というほどのこ
とですね。しかし本来、無為とは「因果関係によって成立や破壊がくりかえされている『作られたもの』ではない、生滅変化を超越した常住絶対の真実」をさす言葉でありました。この生滅変化もしなければ、とどまったりもしない姿を無為相といいます。
 自然のままにまかせて作為するところがないということこそ、仏教の理想であり、老荘のめざすところでもあります。
 一切のものに対して囚われることをやめる。欲を捨てて、淡々として生きている人には、悩みもなければ怖いものもありません。無為に入るとは仏門に入ることであり、無為法とは自由自在で何ものにも囚われない解脱の境地のことです。ところで、無為の僧とは何も為すところのない無能の僧をいいます。はじめは無能の僧を皮肉って使い出された言葉でしょうが、そんなところから無為→何もしないと変化してきたのでしょう。「誉め殺し」は昔からあり、言葉のもつ意味にさえ変化を与えてきたようです。本来の無為ならいざしらず、無為の僧の無為では困りものですね。
 無作卦もこの無為の同義語でありまして、「作為の無いこと」、つまり「はからい」を離れた自由自在な境地をさします。特に作為しないということから、無作為抽出法などという言葉もできたのでしょう。特に意を用いなければ、起こりうるすべての事柄が、同等の確率で起こるというわけです。
 本当の無為、無作為は、自己のはからいをうち捨ててこそできる仏行です。因縁や自我に囚われて自由を失うことなく、本来の無為無作為に生きて、法悦を楽しみたいものです。



               


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