おだぶつ・念仏
テレビ漫画を見ていましたら、殺し屋の台詞に「覚悟しな、お前はこれではこれでおだぶつだぜ」というのがありました。おだぶつとは南無阿弥陀仏を縮めたものですね。また「念仏でも唱えて待っておれ」などというのもあります。いずれも死期が来たことを言うのに用いられる言葉ですが、どうしてそんな風に使われるようになったのでしょう。
古来、日本人には死に臨んだ時、阿弥陀仏の名を唱える「念仏」が根づいています。どうして阿弥陀さまなのかといいますと、諸仏の中でも阿弥陀仏が未来仏の代表とされ、私たちが死んでからは、西方極楽浄土でこの仏に見えるとされてきたからです。現世にこうして生きる私たちの仏=現在仏の代表はお釈迦さまなのですが、もはや現世に希望の持てなくなった人々には、来世の阿弥陀さまが代わって絶大な魅力になるというわけです。婆婆を卒業したら次は弥陀の浄土へというのですね。
ところで、自分の信仰する仏さまをただ一仏にしぼり、不断に「南無阿弥陀仏」とだけしか唱えない宗旨が出てくるのは、中世以後のことです。「南無妙法蓮華経」と経典の題目だけしか唱えない宗旨も出てまいりました。仏教徒は仏・法・僧の三宝を唱えるのが本来であって、仏のみ、それも阿弥陀さまのみとか、法のみ、それも妙法蓮華経のみというのは、日本にだけある信仰形態ですが(念仏や経題に仏法僧を含ませて念仏や題目を唱える)ことですべての仏法僧を集約していると考えれば、三宝帰依の言葉ともなります。
とにかく私たちの死後は来世で待つ神仏にすがるほかありません。みんな死ぬ時は善人になって、念仏を唱えながらおだぶつすることになりましょう。あの東条英機でさえ「いざさらば有為の奥山今日越えて、弥陀のみもとに行くぞうれしき」と詠んで往ったそうです。
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