命ある限り
                                             PARTT


☆プロローグ

私は3人兄弟だった・・・6歳上の兄、そして3歳上の姉、そう私は末っ子として生まれた。
特に3歳年上の姉知子とは幼い時から仲がいい姉弟だった。
「おねえちゃん・・・」いつも私は姉を慕って、頼りにしていたように思う。
姉は明るく快活で人気者だった。中学までは・・・・・
そんな姉の人生の転機が高校で訪れることになる。
突然の登校拒否、部屋に閉じこもって出てこない、両親への激しい反抗、わめき散らす、煙草も・・・・
本人は心を誰にも開くことなく、ただ、毎日泣いていた。
中学生だった私は隣の部屋でただ、どうしようもない現実に戸惑うばかりだった。
心の教室、心の道場、ヨガ、頼れるものはすべて頼った。でも原因がわからない、本人は毎日泣き、母に強く当たる
そんな日々の繰り返しだった。特に父親とは口をきくことがなかった。
高校をなんとか卒業し、洋裁専門学校へ通った。趣味はタカラズカ歌劇、汀夏子、大浦みずきのファンだった。
姉がプレゼントしたセーターを着た、大浦みずきが雑誌「歌劇」の表紙を飾ったこともあった。
美貌だったこともあり、当時人気歌手の原田○二の兄ともつきあいかけたこともあった。
西城秀樹の大ファンで一緒に撮った写真(合成!?)も姉の部屋には飾ってある。
でも対人恐怖症ともいえる症状はそれ以降も治ることもなく、彼女の一生涯続くことになった。
アルバイトに行っても、人に何か言われるともう対処ができない。すぐに辞めてしまう。
そんな、姉に母はあきらめることなく、愛情を注ぎ続けた。姉に罵倒され、泣きつかれ、時には叩かれても母は耐えた。
私の子供をこよなく愛し、得意の洋裁でベスト、セーターをよく編んでくれた。
独身で両親と暮らし、気ままで、自閉症、被害妄想の毎日は続いていた。
そんな姉にとんでもない病魔がとりついた・・・・・

これは不治の病と闘った、私のたった一人のかけがえのない姉の物語である。


異変・・・

平成10年8月のある日、妻が「お姉さん、便秘で苦しんでいるらしいのよ、お母さんもたいへんみたいだから一度
実家へ寄ってみて」と、会社の帰りに実家へ行った。
「姉ちゃん便秘だって?」母に聞いた。「もう2週間ぐらいらしい、コーラックとか飲ましてるんやけど効かへんねん」
「一度医者へ行っといでーな、素人療法はあかんで」「でもあの子が行かんって言って聞かへんのよ」
「あんたからも言うたって、あんたの言うことは聞くから」「よっしゃわかった」
「どないしたん、便秘か?」「お腹が張って気持ち悪い」
「そらそうや、溜まり腐ってるからや、一度病院行っといで、わかった?」
翌日、町医者へ行って、便秘の診断で薬をもらってきた、少しは出たらしい。
私はまあ、治るだろうと安心していた。

9月に入り、妻が「お姉さんやっぱり便秘治らないみたい、また、寄ってきてね」
もうかれこれ1ヶ月にもなる、そんな馬鹿な便秘があるものか?
実家へ行った、母に「まだ、治らんの?」と言うと、「お腹がパンパンに張ってきて、背中が痛いって言い出したんよ」
「何やて?背中?そら、便秘やないで、明日県立A病院へ連れて行き、わかったね!」
県立A病院は姉が躁鬱病で神経科へ通院している市内では名の知れた大病院である。
「でもまた、行きたくないって、言うし・・・・、あんたから言って」
姉の部屋へ行く「まだあかんのかいな、背中が痛いって?ほっといたらもっとひどくなって辛いぞ!明日、病院へ
行っておいで」「お腹見てくれる?」姉が言うので、下腹部を見た、「何これ!?」私はびっくりした、便秘とはいえ、
すごいお腹である、妊娠しているかのような・・・
「こらあかんで、ほっといたらえらいことになる、明日行くんやで!約束してくれるね!」
小指を出して姉と指をからませる。まるで子供を諭すように。
翌日母と姉は県立A病院へ行き、レントゲン、血液検査を受けた。
結果は3日後とのことだった。


検査結果

検査結果は母が聞きに行った。
「どうだった」
「どうもこうも、お腹にできものみたいのがあるらしいのよ、でも詳しくはなにかわからないらしい、
明日もう一度、CT検査とエコー検査をするらしい、子宮が腫れてる疑いもあるって」
「できもの?なんやそれは?良性か、まさか悪性?」
「でもお通じがあったのよ、よかった」
「それはよかったなあ」
「でも本人はもう治ったと思っていて、病院いってくれるやろか、あんたから行くように言ってね」
「わかった言っておくわ」

そして、姉は再度精密検査を受けることになった。
結果はやはり、お腹に肉腫のようなものがあり、それが動いて成長し続けているとのことだった。
それがどこから発生しているかはわからない、子宮からとの疑いもあるが切開しないとわからない。
ただ、この肉腫が巨大であるので、悪性の可能性もあるとのこと。
結局この肉腫のようなものが、腸を圧迫し、便秘を引き起こしていたのだった。
このまま放っておけば、さらにこの肉腫の成長により、腸閉塞を起こして、危険な状態になるので
できるだけ早く手術して、切除する必要がある。
これが病院の見解だった。

手術しかない、母と私は理解できたが、問題はこれをどう姉に伝えて、手術を受けさせるかだった。
精神が不安定な姉、通じがあってもう治ってると思っている姉、でも現実は手術しないと命にかかわる。
どうしよう、母と悩んだ。
私が姉に話すことになった・・・・・


説得

姉の部屋へ行く
「具合はどおなの?」
「聞いて聞いてお通じあったのよ、これで治ったのかなあ、でもお腹がへっこまないの、なんでやろ」
「・・・・・・・・」
「私ひょっとして妊娠しているのかなあ?」
「何を言うとるんや、そんな訳がないやろ」
姉はよくも悪くも男性経験がないから、妊娠の意味が、信じがたいが、わかってなかった。
「よう聞きや、先生から検査結果が出て、お腹にできものみたいのがあるそうや、それがどこからか
わからんけど・・・・・子宮が腫れてる可能性もあるらしいねん・・・それで・・・たぶん、良性のできもの
やから、手術して切ったら治るそうや・・・ただ、子宮は場合によっては取らなあかんかもしれん・・・」
「手術なんかいやや・・・・、薬で治れへんの」
「薬では治らん、そのお腹見てみいな、苦しいやろ、今やったら手術したら楽になるで・・・なっ・・」
「いやや・・・・・・・・・・」
「いややって、それが大きくなっていったら、もっとしんどくなるだけやで、僕の言うことを信じて手術を
受けるんや、そしたら、必ず治る、明日先生から説明があるから、よく聞いておいで、わかった」
「手術って痛いの?」
「全身麻酔やから、何にもわからんうちに終わるよ」
「わかった、先生に話をきいて決める」
なんとか、明日病院へは行ってくれることになった、ここまで話すと普通の人は悪性腫瘍を疑うのだが
さいわい、姉は知識がなく、素直に聞いてくれた。

翌日、母と病院へ行った姉は医者から同様の説明を受けた。
それでも納得がいかず、「手術しないとどうなりますか」と担当医に聞いた。
担当医はすかさず言った「命を落とすことになるよ、それでもいいの」
さすがの姉も驚いて「手術を受けます」と言った。
手術は1週間後と決まった。


銀行

このころ私の勤務先も大きな変化を迎えることになる。
私は関西の地方銀行の営業課長という役職だった。
銀行の営業であるから、預金を集め、健全な企業に融資をする。これが基本である。
だが、バブル期に不動産、株の購入資金に過剰融資に走った結果、大量の不良債権の処理に
喘いでいた。相次ぐ不良債権の償却のため、銀行の体力は年々低下せざるを得なかった。
その結果、銀行の株価は急落、200円を割り込み、危険水域に入っていた。
相次ぐ同僚他銀行の破綻、次はどこが潰れるの見出しでいつも雑誌に載るようになっていた。
窓口では心配したお客様の定期預金の解約が止まらなかった。
そして、平成10年10月、同じく関西で不振に喘いでいたN銀行と合併した。
合併前後は大変だった。夜は10時、11時はあたりまえ、深夜になることもしばしばであった。
お客様への説明に、土日も出勤、私は心身ともに疲れ果てていた。
合併の甲斐もなく、預金の流出は止まらなかった。
バブル時に投資した、関連会社のゴルフ場の経営が悪化し、営業に対して、ゴルフ会員権の販売ノルマ
まで課せられた、株価も下げが止まらず、買い支えるために、お客様へも売って回らされた。
危ないゴルフ会員権、紙切れになるかもしれない株・・・・・・
これを売れという、至上命令!
いやだといえば、左遷され、銀行には残れない。
資金繰りも悪くなり、どんな手段を講じても預金をかき集めろという命令が出る。
従わざるを得なかった・・・・
当然部下からは、基本を逸脱している、お客様をだますことになる・・・責任は誰がとってくれるのか・・・
紛糾しはじめていた、でも、自分の生活、家族を守るためには、いつか銀行が健全になる、お客様へ恩返しする
時がくる、それを信じるしかなかった・・・・・
そんな毎日の中で、姉の手術日が近づいてきた、私は有休届けを出した。


手術、そして真実・・・

平成10年10月7日手術当日を迎えた
病室で待つ姉は少しこわばっていた。
午後1時、看護婦が呼びにきた。
「知子さん、行きましょうか」
「は・・・はい」
「大丈夫、大丈夫、がんばっておいでね」これ以外に私はかける言葉がなかった。
専用エレベーターまで、母と見送った。
「がんばってね」みな同じ言葉だ。
「じゃあ、がんばってくる」
姉が好きな母の妹、そして兄も駆けつけた。
父はやはり来なかった・・・
5年前の父の大手術の時は姉が来なかった・・・・

手術が始まって、1時間が経過した。
実はこの時間帯が私も母も一番緊張した時間帯であった。
前日に医師から説明を受けていた。
「肉腫の病巣がどこなのかが特定できないでいる、一番疑わしいのが子宮、この場合子宮全摘出を
行います。ただ、お腹を開いてみないとわからないというのが現状です。肉腫が大きいことが予想される
ので、各臓器と癒着している可能性が高い、手の施しようがないと判断すれば、そのまま切除せずに
閉じます。その場合、1時間で手術は終了します。」
その1時間が過ぎていく、母と私は看護婦が呼びに来ないか、家族控え室の電話がかからないことだけ
を考えてた。祈るような思いだった・・・・
時刻は午後4時になろうとしていた、手術開始から3時間が経過していた。
「よかった、先生切り取ってくれてはるんや」母は安堵の表情になった。

午後5時、控え室の電話が鳴った。
「知子さんの手術終了しました」
姉に会うのにそれから1時間待たされた。
ようやく面会OKが出て、ICU(集中治療室)へ、私と母と兄が入った。
姉は寝ていたが、うっすらと意識が戻ってきている様子だった。
「あんた、ようがんばったねえ・・・」母が泣きながら、姉の手を握る。
「寒い・・・、寒い・・・」姉が始めて声を出した、まだ酸素吸入器をつけている。
私は足をさすった。「ようがんばったな、もう大丈夫やで」

担当医の説明は7時からだった。
小部屋へ私と母、兄が入る。
机の上にはビニール袋に入った、大きな臓器!?らしきものが無造作に置かれていた。
「これなんですか?」私は聞いた。
「これが切り取った肉腫です」
「これ、全部がそうですか?」
肉腫は新生児の頭二つ大もの大きさだった。
担当医の説明が始まった。
「開腹したところ、肉腫が腹膜一面に飛び出しており、腸全体を覆いつくしてました。
子宮が病巣ではなかったので、子宮には手をつけてません。発生源は特定できないのです。
ただ、癒着がすすんでおり、小腸は特に癒着がひどいので、小腸の一部は切除しました。
その際、出血がひどくなったので、4000ccの輸血をしています。
取り除けるところはすべて、切除しました。」
「肉腫は良性だったんですか?」母が聞いた。
「残念ながら悪性です、しかもとても進行性の早いスキルス性のがんです、通常がん細胞は分裂を
繰り返して時間をかけて大きくなるのですが、知子さんのがんはがん患者でも2000人に一人といわれる
進行性の早いもので、私も実際、臨床では初めてです、それだけ稀ながんなのです。」
「再発の心配はあるのですか」
「このがんは予後がかなり悪いと言わざるを得ません、切り取れるだけはとりましたが、すでにリンパ節、
血液を通して、転移、再発は避けれない状況です、同じ箇所に必ず再発すると考えてください、現在の医学
ではこのがんを治す治療法は残念ながらないのです」
「娘は助かるのでしょうか」
「・・・・・お話しにくいのですが、・・・3ヶ月だと思ってください、正月が越せるかどうかです、でも6ヶ月、1年と
生き延びられるケースもあります」
「ええーそんな・・・・・・・・」みんな声が出なかった。
「本人への告知はどうされますか、あと今後の治療法ですが、抗がん剤治療で少しでも進行を遅らせる
ことは可能かもしれませんが、本人は苦しまれます、髪は抜け、吐き気等副作用があります。
そうすると、このあと、ずっと病院生活になります。それか、抗がん剤は使用せず、本人のすきなことを
あと3ヶ月させてあげるのもひとつの選択肢です。これはご家族で話し合われてください」
「告知はやめてください、それでなくても、精神的に病んでいる子なんです・・・」
治療法は母と後で決めることにした。

姉はやすらかに寝ていた・・・・何も知らずに・・・・

病院の駐車場の車の中で、私と母は頭の中が真っ白になっていた。
無言が続いた・・・・
「あの子の好きなようにさせてやろう、もうこれ以上あの子が苦しむのは可哀そうや・・・」
「・・・・・うん」
「あの子のすきなところへ連れて行ってあげようねえ、あんた計画してねえ」
母の涙は止まらなかった・・・・
私はようやく、エンジンをかけた。

後日抗がん剤は使わないことを病院側へ伝えた。



PARTT完