命ある限り

想い出・・・


手術後約2週間で姉は退院してきた。
本人へ告知は一切行わなかった。
「これで治るなあ、よかった、よかった、がんばったから、退院祝いに温泉旅行へ行こうか」
「行きたい、行きたい、お腹もへこんで元通りになったから、美味しいものをたべたいよう、
小山君計画してくれる?」
姉は私のことを、10年前ぐらいから、小山君と呼んでいた。
私はガイドブックとにらめっこして、どこがいいか、探しまくった。
家族で行く、最期の旅行になるかもしれない・・・・
もう晩秋から初冬へと季節はかわりはじめていた。
暖かいところ・・・・伊勢志摩! 旅行は11月22日と決まった。
担当医に相談してOKをもらった。ただし、風邪を引かさないようにと忠告を受けた。
私は尼崎シティハーフマラソンに出場する予定だったがキャンセルした。

旅行は私の家族5人、兄家族4人、父、母、そして姉の12人となった。
費用は母が株で50万もうけたらしく、甘えることにした。
車2台で伊勢へ向けて出発した。

1日目は伊勢志摩スカイラインから鳥羽水族館、ミキモト真珠島、そこで母は姉に高価な真珠のネックレスを
買ってあげていた。・・・・・何か複雑な気持ちで私は見ていた。。
そしてパールロードを走り、心地よい海岸ドライブ!
鵜方、浜島を抜けて、本日の宿、志摩石亭に到着した。
太平洋に沈む夕日を眺めながらゆっくりと温泉に入って、夕食!
伊勢海老の造りに残酷焼き・・・・
姉は久々の開放感からか、うれしそうだった。
いつまでもこの時が続けばいいのにな・・・・・私はずっとそのことばかり考えていた。

2日目は志摩スペイン村、遊園地でジェットコースターに乗ったり、童心に返って、楽しんだ。
父も母もこのときばかりは、笑顔で姉とのひとときを大切にしていた。
時よ止まれ!
時よ止まれ!!


3ヶ月・・・

伊勢志摩旅行は楽しく、無事に終了した。
その一週間後、私は紅葉が見たくて、比叡山へ行くことにしていた。
もちろん姉を誘った、「紅葉見ごろだから行かないか?」
二つ返事だった。母と姉、三男右京と4人で出かけた。
比叡、奥比叡ドライブウェイと見事な紅葉がつづく・・・
ところどころで、駐車しては写真を撮った。
母が「知子の写真、いっぱい撮ってあげてねえ」と耳打ちしてきた。
「うん、わかってるよ」
ファインダーを通して見る姉はうれしそうだった・・・・
一枚、一枚、心を込めてシャッターを切る・・・
でも確実に人生のラストランをしている姉を見るのは辛かった。
昼食は琵琶湖畔の蕎麦屋へ入ったのだが、この蕎麦がほんとうに美味しかった。
母は今でもあの頃を思い出しては、あの琵琶湖で食べた蕎麦は忘れられないと言う・・・

街角にジングルベルが響きわたり、季節は師走に入っていた。
姉は特に変わった様子もなく、退院後は定期的に通院していた。
今のところ、再発の症状はない、見た目には何もなかった。
実家でのクリスマス会も済ませて、1999年になろうとしていた。
医者に宣告された3ヶ月は何事もなく経過していった。

そして、年が明けて1999年!
家族全員でむかえる正月、父の音頭で乾杯して、おせちをいただく。
今年も無事で暮らせますように、姉の病が治りますように!
誰もが姉の無事を祝った、祈った・・・・

2月・・・・・3月・・・・・・
家族の心配をよそに姉は力強く生き延びた!
4月に入り、定期診断から帰った母が血相を変えて私の家へ来た。
「あかん、再発したらしい・・・・・・・・・・」


がんの家系

再発はやはり同じ箇所だった、お腹の中でまた、がん細胞が増殖をはじめている。
通常のがんではないので、進行がめちゃくちゃ早い・・・
覚悟していたとはいえ、やはりショックだった。
当然のことながら、本人には告知できない。
本人は治ったと思っているし、真実は時として酷なものだと痛感した。

ここで私の父のことについても触れておかねばならない。
父は厳格で、しつけ、行儀、たいへんきびしい人だった。
しかし、そのきびしさが姉にはうまく伝わらなかったみたいであった。
特に思春期に悩んだ姉にとっては父親は敵対すものでしかなかった。
父はそれを押さえつけようとし、姉とは日に日に疎遠になっていった気がする。

そんな父にも異変が起こった。平成5年のことであった。
カラオケで声が出なくなり、かすれるようになってきたのだ。
父はヘビースモーカーで当時ロングピースを吸っていた。
いよいよ、日常会話でも支障が出てきたため、関西労災病院へ行った。
診察結果は喉のポリープだった。
良性か悪性かは患部の組織を一部切除して調べる必要があった。
場所が場所だけに検査も全身麻酔で行われ、入院することになった。

結果は家族に知らせたいと病院から母に連絡が入った。
この時点で悪い予感がした。母と私が行くことになった。
耳鼻科部長より、ビデオを見ながら説明がはじまった。
「喉の中の声帯にポリープが認められ、一部切除して、検査させていただきました。
この部分(モニターを指しながら)ちょっと白く変色しているでしょう、これが腫瘍です。
残念ながら悪性です。ただ、早期発見の部類でステージ1から2へ入りかけています。
治療法としては放射線治療、外科的治療があります。確実に治すのであれば外科的治療
ですが、この場合喉頭を全摘出しないといけません、ただし、声を失います。
本人の負担がかなり大きくなります。今なら放射線が効きますから、これをすすめます。
本人への告知はどうしましょうか?」
母と私は顔を見合わせ、がんと言われて唖然としていた・・・・
父は緻密な性格でとても最後まで騙せるわけにいかない。
ここは酷かもしれないがはっきり伝えたほうがいい、私も母も同感だった。
「本人に先生から言ってやってください」
「じゃあ、今ここで話しますから、呼んできましょう」
父が来た、きょとんとしている。
部長が告知した。
「お父さん、残念ながら悪性でした、喉頭がんで初期の部類です、ご家族とも相談したのですが
放射線治療をさせていただきます、今なら90%治ります」

しかし、その90%ではなく、残りの10%に父はなってしまった。
3ヶ月の放射線治療の甲斐なく、がん細胞は小さくならなかった。
喉頭全摘出手術を受けざるを得なかった。
手術前日、几帳面な父はボール紙に表を作っていた。
たてには「かゆい」「いたい」「さむい」「あつい」ヨコには「頭、喉、お腹、背中」と書いてある。
手術後声が出なくなるので、指差してわかるようにしていたのだった。

手術当日、「がんばって」と見送られた父に母が声をかけた。
「お父さん、最後に何か言ってよ・・・」
「これがお父さんの声の聞き納めやぞ、よう聞いとけ、がんばってくる!」
父の最期に発した声だった。
いまだに父がどんな声だったか、私は思い出せない。
手術は7時間に及ぶ大手術だったが、成功した。
姉は手術当日も見舞いも結局一度も来なかった・・・・・

父はその後再発もなく、元気に暮らしている。
声は失ったが、懸命のリハビリで複式発声法を習得して、声に似た声!?を出す。


挑戦・・・

私はこのころダイエットをするためにスポーツクラブへ毎週土、日と通っていた。
4月のある日、姉が「私も体力をつけたい、入会したい」と言い出した。
私は即答できなかった。そんな体力があるのか、病気の体も心配だ。。
でも姉もほとんど家でのんびり過ごすだけの単調な日々にうんざりしているようだった。
母に相談した、「あの子の好きなようにさせてあげて、あんた入会手続きしてあげて」

姉を連れて行った、ルネッサンス尼崎である。
トレーナーについて、オリエンテーション、体力テストを受けている姉は輝いて見えた。
でも命を縮めないだろうか?私はうれしさ半分、心配でもあった。
「はじめは無理したらあかんで、3日に一度ぐらいにして、日曜は僕が一緒に行くから」

しばらく毎週日曜日は姉と一緒にスポーツクラブへ行くことになった。
エアロバイク、ダンベル体操、ヨガ、エアロビクス・・・・姉の挑戦が始まった。
ある日、スポーツクラブへ行くと姉が一人で来ていた。
平日も来ているらしい。
トレーニング記録を見ると、2〜3日に一度は来ている。
こんな体力がどこにあるんだろう・・・姉の体力に唖然とするばかりだった。
「一緒に帰る?お昼おごってあげる」そういうと姉はロッカールームへ消えていった。
スポーツクラブはホテルニューアルカイックに隣接しているので、ホテルの昼食バイキングを
食べることにした。
「小山君に紹介してもらって、よかったわあ、毎日楽しいの、体力もついてきたし」
姉は生き生きとして楽しそうに話した。でも相変わらず私のことを小山君と呼ぶ。
「そうかあ、よかったなあ、でもほんまに無理はあかんで、しんどいときは休みや」
姉と二人で食事をするなんて、記憶がない、ましておごってもらうなんて人生初めてだ!
「調子はいいの?」
「運動した後は、美味しく食べれるし、夜も熟睡できるの」
「これ右京君に持って帰りよ」とデザートのプチタイヤキを私のかばんに詰め込んだ。
「見つかったら怒られるで」
「大丈夫、大丈夫!」
姉は終始上機嫌だった。

私の心配をよそに、5月、6月と姉はスポーツクラブへ通い続けた。
しかも有酸素運動(エアロバイク、トレッドミル)を1時間以上するのである。
姉のトレーニング記録を見ては、すごいなあと私は感心していた。
でも気になることもあった、体重が減らないことだった。
普通これだけ運動すると体重は落ちてくるが、姉は落ちない。
これはお腹の中でがん細胞が大きくなりつつある証拠だった・・・・


誕生日

6月6日姉の42回目の誕生日を迎えた。
日は前後したが、日曜日に誕生会を実家ですることなった。
実家のガレージで焼肉をすることになった。
おそらくこれが最期の誕生日になることはわかっていた・・・・・
なにかプレゼントしないと・・・ずっと考えてた。
「何が欲しい」
「腕時計がほしいな」
私は時々パチンコへ行くのだが、景品コーナーに黄色の素敵な時計があった。
これだっ、これに決めた。
ちょっとパチンコの景品となると不謹慎かもしれないが、それほど目にとまったのだった。
「これプレゼント!」
「わあ、うれしい、何かなあ・・・可愛い時計!気に入ったわ」
そう言って姉はすぐに腕にはめた。(姉の想い出の写真の中ではめているのがそうです)
焼肉は盛り上がった、子供が何も知らずにはしゃいで、食べまくる、それにしてもめっちゃ食べる。
来年もこうやって、みんなでできたらいいのになあ・・・・
姉は少し疲れた顔をしていた・・・・


暗雲そして・・・・

姉の病気の進行とともに6月に入り、私の銀行の経営に暗雲がたちこめてきた。
5月に不正融資の特別背任罪で元頭取、専務が次々と逮捕されたのである。
新聞雑誌は連日のように書き立てる、ニュースステーションでもとりあげられる。
父母も心配して「銀行大丈夫か?」と電話してきた。
ボーナス預金シーズンなのに、預金の引き出しは止まらなかった。
本部からはどんなことをしても預金を集めろとの指令が出る。
もう正常の銀行ではなかった、生き残りのためなら何でもする。
そして、遂にK支店の支店長、次長が逮捕された。
新聞の一面を飾る、ニュースのトップニュース・・・・・・・
現場の支店長たちが皆震えあがった・・・・次は俺かも・・・・
すべて本部の指示でやったこと、たまたま支店長だっただけである。

ある日、支店長に呼ばれた。
「人事から連絡があって、転勤の打診が来ている、昇進らしい、どこに行くかわからん」
「・・・・今頃の辞令なんて、おかしいですね、しかも昇進!?」
その10日後私の転勤辞令が出た。次長待遇だった。
K支店営業課長を命ず
K支店と言えば支店長、次長が逮捕された店・・・・・なんでこの私が・・・・・
おそらく誰もが一番転勤したくない店だった。
転勤してから1ヶ月は地獄の毎日だった。
当然暗い雰囲気の店、お客様の風当たりも強い、明るい雰囲気作りが得意の私もさすがに戸惑った。
新支店長と協力しながら、預金の流出も最小限に食い止めた。
しかし、逮捕者は続いた、もうだめだ・・・誰もがそう思った・・・
株価も危険水域を超え、幹部行員には買い支え指令が暗黙で出た。
私は金欠だったので、母に頼み込んで買ってもらった。
「紙切れになるかもしれん、ごめん、助けて・・・」
「あんたの言うことなら」母は二つ返事で受けてくれた。

8月6日(金)、その日も顧客に銀行は大丈夫ですと説明しに奔走していた。
4時に帰店すると、みんなの様子がおかしい、元気なくボーっとしている。
「さっき、ニュース速報で銀行破綻が流れた」
「えっ・・・・・・・」
一部上場銀行が倒産した瞬間だった・・・・・・・まして、自分の勤めている会社が・・・・・・
母になんと言えば・・・私もピーク時時価1000万あった持ち株が紙切れになった・・・・
それよりも私を信じてくれたお客様に何と説明すればいいのか・・・・・・
全身の力が抜けていった。


大混乱・・・・

銀行が破綻するのは金曜日と決まっている。
預金の解約で客が殺到するから、その準備、支払い資金の確保が必要だからだ。
その日の夕方に本部から6億円が運び込まれた。
ジュラルミンケースの万冊の束を確認して、業務課長と一緒に大金庫へ格納した。
もう金という感覚は全くない・・・
土日は全員出勤して、顧客へ預金全額保護されてるから、あわてて解約しなくていいと電話
しまくった。励ましの声、罵声・・・・いろいろあった。。苦情係は私だった。
そして、月曜日を迎える、テレビでいつも見てきた光景だ、客が殺到する・・・・
通常3つの窓口を8つに増やして、二階にも待合室を設営した。
午前9時シャッターが開く・・・・
待ちわびた客が窓口に一直線にどっと押し寄せる。
みるみるうちにカウンターが客で膨れ上がる・・・・
「まだかー」「どれだけ待たすんや!」「ええかげんにせいや!」
次々と罵声が飛び交う、「申し訳ございません、精一杯処理させていただいてますので・・・」
頭を下げるしかなかった。
窓口には「絶対に間違えるな、スピードは二の次、確実な処理を」と指示していた。
客はとぎれることなく、最後の客をさばき終わったのは午後4時。
だれも食事にいけなかった。
嵐のような1日が終わった、3億円が1日で解約になった・・・・・・

当然夏休みは飛んでしまった。
週末気分転換もかねて、スポーツクラブへ、姉を見つけた。
「銀行たいへんだったね、ねね、この前エアロビクスもやったよ、先生かっこいいの!」
「えー、エアロも挑戦してるの?すごいなあ、むりしたらあかんよ、そうそう、明日温泉でも
行こうか?僕も気分転換せんとやってられない」
「行こう、行こう!右京君も一緒ね!」

翌日、姉と右京を愛車レガシーに乗せて、淡路島パルシェの湯へ行った。
ハーブ園があり、温泉もハーブ主体で檜の湯とか、こじんまりしているが、露天風呂もあり
けっこう楽しめた。
昼食もハーブソースのステーキとかけっこう女性に人気がある。
姉はジャスミングッズを買っていた。
帰りに淡路サービスエリアで休憩、明石大橋の絶好のビューポイントである。
右京とはしゃぐ姉を見ていて、この光景はもう見れないんだと・・・・
明石大橋をバックに写真を撮る。
そういえば姉と二人でとった写真がない。
「右京、写真撮ってくれる?わかるか?ここ押すんやで」
「うん、わかった」
「パパ、撮るでー、ともちゃんも、ハイ、チーズ」
姉とVサイン!!
これが最後の写真となってしまった・・・・


PART2完