光瑞寺の沿革と建造物の歴史
戦国時代の甲斐国(現在の山梨県)の武将武田信玄(1521〜1573)の家臣、高坂弾正昌信(信州海津城主)の長子は川中島の戦で、次子は長篠の戦で相次ぎ戦死したが、三男の四良兵衛昌房は、幼少のために戦免れて西国にのがれた。成人して本願寺第11世顕如上人(1543〜1592)に帰依し、織田信長が全国統一の野望を持って、大坂石山本願寺(現在の大阪城の元跡)を攻略しようとするや、よく顕如上人を助け、その間、中国毛利家にも使いをし、本願寺をして、11年(1570〜1580)に及ぶ、石山合戦の籠城を全うさせるに功績あったと伝わる。信長は攻めあぐね、勅を朝廷に乞い、正親町天皇による和議成立し(1580)、顕如上人が紀州に退かれると、昌房は上人と別れて、亀山本徳寺を経て高長(幸長とも書いた)の里に入り、草庵を開き留守職となり、入道浄と号した。その子(末子6男)が、慶長15年(1610)に12歳で出家得度し、浄念と号し、元和8年(1622)9月、亀山本徳寺順専師より『光瑞寺』の寺号を賜りここに光瑞寺始まる。
本堂
第3代住職浄智、寛文7年(1667)本堂再建、大きさは桁行(間口)六間、梁行(奥行き)六間の萱葺。下って第9代住職艤舟の時、すなわち寛政10年(1798)寺社奉行に願書を出し、従来の萱葺本堂を取り壊して、現在の七間四面の瓦葺の本堂に改築した。棟木の銘の文化2年(1805)以来、屋根葺寛政の文化13年(1816)までを考えただけでも、その間12年を経過しているので、本堂内の荘厳の完成までには数10年に及んでいる。文化6年(1809)、棟礼によると、大建前工数4573人、木挽工数2419人、家建ヤ(トビ職)314人、計7304人の延べ人数が費やされたと記されている。
医王門
山門
明治時代以前、姫路の酒井藩主は領地内には四脚門を禁止した。そのために播州では、四脚門は姫路総社の表門(太平洋戦争で焼失)と、当光瑞寺の山門(表門)との二つだけと聞く。
鐘楼並に梵鐘
依然の鐘楼は境内の堀の東向きにあったと聞く。現在の場所に改築されたのは棟礼によると明治30年、第12代住職智宣の時である。尚、梵鐘は太平洋戦争の時、供出したが、そのときの記録によると、重量は百十貫(約412kg)、享保20年(1735)第7代住職智亮の時に鋳造されている。現在の梵鐘は、戦後昭和25年の蓮如上人450回忌の法要を期して、第13代住職智宏の時再鋳造され、鐘銘も再刻された。重量百二十貫(約450kg)、当時として12万円と記録されている。

                    
春日山 光瑞寺第14代住職 釈香象(昭和59年3月記)