仏法をあるじとす
梯實圓(
勧学大乗02/3月号
 蓮如上人の法語に、「仏法をあるじとし、世間を客人(マロウド)とせよ」という言葉があります。仏法とはひたすら生死の惑いを超え、愛と憎しみを超えた浄らかなさとりの領域を目指して生きることであり、世間とは、生にとらわれ、死に怯え、愛欲と憎悪に揺れながら生きている世俗の生活をいいます。真理についての無知と、煩悩が支配している世俗を否定するのが仏法ですから、仏法に生きるためには世間を捨てなければならないといわれていました。それが出家仏教なのです。
 ところが、蓮如上人は、仏法と世間とに主客を立て、「
仏法をあるじとし、世間を客人(マロウド)とせよ」といわれるのです。それは仏法を基準とし世俗を生きるならば、世俗の生活がそのまま仏道になるといわれたものです。煩悩の大地を離れることの出来ない凡俗の身であっても、本願を信じ、念仏する中で営まれる世俗の生活は、喜びにつけ、悲しみにつけ、さまざまな出来事が、そのまま仏法の真実を確かめる道場に転換されていくからです。
 しかしもし「世間を主人とし、仏法を客人とみなす」ならば仏教の堕落でしかありません。それはこの世をうまく生きるための手段として仏法を利用しようとするものです。仏法を主とし、世間を客と見なす生き方は、世間を仏法化していきますが、世間を主とし、仏法を客とするような生き方は仏法を世俗化していきます。世俗化した仏法にはもはや世俗の人を救う力はありません。