衆生病むがゆえにわれ病む
梯實圓(
勧学04/7月号宗報
 インドに起こった様々な宗教の中で、仏教の最大の特徴は、慈悲を強調することであったといわれています。慈悲の慈とはマイトリの訳語で、相手の幸せを心から願う純粋な友愛のことであり、悲とはカルナの訳語で、人々の悲しみを共に悲しみ、相手の痛みを共に痛む心であるといわれています。
 この痛みの共感こそ「いのち」の共感なのです。決して対象的に捉えることの出来ない「いのち」は、ただ痛みの共感を通して響きあうものであり、実感されるものなのです。しかし痛みの共感といっても、私どもには、せいぜい親子、夫婦、兄弟といった身近な者に限られた小慈小悲にすぎません。それさえともすれば見失いいがちなのが私どもの悲しい現実です。それにひきかえ偉大な菩薩や仏の慈悲は生きとし生けるものすべてのものにおよび、衆生の悲しみと痛みを自らのこととして引き受けていかれますから、大慈大悲といわれています。
 
『維摩経』問疾品に、維摩居士が自らの病について、「衆生病むをもつて、このゆえに我も病む。たとえば長者に一子ありて、その子病を得ば、父母もまた病み、その子の病癒ゆれば父母また癒ゆるがごとし」といわれた言葉こそ、仏教の真髄を言い表していました。まさに「仏心とは大慈悲これなり」と説かれたとおりです。仏道とは人間の痛みのわかるものになろうと勉め、痛みを分かちあいながら生きようと努める道だったのです。