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ご正忌報恩講(2001)・ご門主法話 大乗01/3月号 index |
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本山の年間最大の恒例法要で、宗祖親鸞聖人のご遺徳を偲び報恩感謝への思いをあら兄するご正忌報恩講が、一月九日の逮夜法要から十六日の日中法要まで七昼夜にわたり営まれ、全国から五万人の参拝者が集った。八日にはお身拭いやご真影(親鸞聖人像)のご動座が行われ、今年からご正忌報恩講は総御堂の中央(仮御影堂)を中心に営まれた。十五日の逮夜法要(大逮夜)の後にはご門主がご親教を述べられた。その全文を掲載する。 今年も皆さまとご一緒にご正忌報恩講をおつとめし、宗祖親鸞聖人のお徳を偲ばせていただきました。御影堂の修復工事のために、昨年からこの総御堂でご正忌をおつとめするようになりましたが、今年からは、ご正忌などの法要の時だけ、阿弥陀如来さまと親鸞聖人さまに場所を入れ替わっていただきまして、御堂の中央でおつとめすることになりました。皆さまのご感想はいかがだったでしょうか。 さて、一昨年頃から「二十一世紀」という言葉を耳にしたり、口にしたりしております。世界の歴史を百年という単位で、区切って顧みることは、意味がありますし、また、世の中の難しい問題を良い方向へ展開していく、切り替えていきたい、そういうきっかけにしたいという切実な願いも理解できます。 しかし、仏教的に考えてみますと、世紀が新しくなったからというだけで、人間が変わるものではありません。どこまでいっても罪悪生死の凡夫であります。大切なことは、その凡夫が、真実の教えに遇って、日々新たないのちを生きていくことです。世紀の変わり目だけではなく、毎日、時々刻々、新たな気持ちで、本当に大切なことを思いつつ、過ごしていきたいものであります。 なお、私たちの宗門にとりましては、宗祖親鸞聖人の七百五十回大遠忌まで、あと十年ということも大切であります。皆さまのお寺や宗門のあり方、運営につきまして、現状を正確に捉え、み教えが次の世代に正しく伝わるようにと、しっかりとした方針を立てて進める必要があります。皆さま、それぞれの場で対応してくださるよう願っております。 先日、京都で発行されました新聞に、ある心理学者の意見として「現代人は科学技術によって、一週間後の天気が分かったり、遠い外国のことも即座に分かるようになったけれども、隣にいる、身近にいる家族の気持ちが分かっていない」という意味の文章が載っており、「はっ」とさせられました。さらに付け加えますと、周りではなくて、自分自身のことも分かっていないと反省させられることです。文字や映像などの情報は手に入っても、生身の人間のことが分からない、わかりにくいということでありましょう。阿弥陀如来さまの光があたっているのは、生身の人間、この私であり、お隣の人です。ですから、家庭生活、社会生活の中で、阿弥陀如来さまのおこころを味わうところに大切な点があります。お念仏申しつつ、日々の出来事の意味を考え、体験をそのままで終わらせず、お慈悲を味わうご縁にしていきたいものです。 親鸞聖人は、ご和讃に「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を主としたまひて 大悲心をば成就せり」(注釈版聖典P606)とうたわれました。阿弥陀如来さまは、南無阿弥陀仏となって、今ここに来ていて下さいます。苦悩の有情にとっては、物事を正しく見抜くことは易しくありません。いのちに限りがあると知ってはいても、その通り受け入れることは簡単ではありません。正しい努力を積み重ねることも易しくありません。 阿弥陀如来さまは、すでにそこを見抜いて、南無阿弥陀仏となって、おさとりの世界であるお浄土へと呼んでくださるのです。ですから、阿弥陀さまの前では、わが身を取り繕う必要がありません。我がはからいを交えず、素直に南無阿弥陀仏をいただくばかりです。そこでは、私のいのちは、私のもの、私物ではなくて、阿弥陀如来さまの光を受けるいのちであります。そして、阿弥陀さまの分け隔てのない光を仰ぐとき、すべてのいのちあるものが、その光の中にあることを知らされます。 お念仏申しつつ、いのちの大切さを思い、身近なところから行動に移してまいりましょう。 |