|
ご正忌報恩講(2003)・ご門主法話 大乗03/3月号 index |
|
今年のご正忌報恩講も例年のように皆様とご一緒におつとめをし、本日大逮夜を迎えることが出来ました。 四年前に御影堂の大修復が始まりまして、不便、窮屈、あるいは変則といった事態が生じていますけれども、皆様にはよくご辛抱下さり、今年もようこそお参り下さいました。修復工事は順調に進んでいます。工事関係の方々のご尽力、そして皆様のご支援、誠にありがたく存じます。 申すまでもなく報恩講は、宗祖親鸞聖人のご恩に報い、感謝の気持ちを形で表す、宗門でもっとも大切なご法要であります。親鸞聖人は、凡夫が阿弥陀如来のご本願の力によってさとりを開く道を教えて下さいました。言い換えますと、阿弥陀如来さまのご本願、広大智慧の名号を信じ、よろこぶ身となり、迷いの生存が終わったとき、おさとりの世界であるお浄土で仏になるのです。 ですからこの迷いの世界での人生が、阿弥陀如来さまに支えられ導かれて、新たな意味、深いよろこびを持つようになります。迷いの生存でありながら、迷いを超えたところに依りどころを持つということもできましょう。 皆様は親鸞聖人のみ教えをどのように味わっていらっしゃいますでしょうか。中には時代の隔たりを感じる方、あるいはまた人間をありのままに見つめられた姿勢には共感するけれども、お浄土がわかりにくいという方もあるかもしれません。親鸞聖人が歩まれた道を学び、そのみ跡を慕って歩まれたお同行の方々から学び、聴聞を続けたいものです。 お浄土は南無阿弥陀仏となって私のところに来て下さっている阿弥陀如来さまの国土。そして親鸞聖人をはじめ、お念仏に生きられた先人の方々がお生まれになっていらっしゃるさとりの世界です。 いま思いますことは、私たちの悩みが時代と共に少しずつ形を変えているということです。仕事がうまくいかない、毎日の生活がむなしく感じられる、子育てで心配事が絶えない、治りにくい病気にかかったなど、豊かな社会に見えても不安が続く今日であります。 そしてその根本には生・老・病・死、争い・執着など時代を超えた人間の課題があります。しかしながら現代日本では学校、老人ホーム、病院、裁判所などというように、まず専門家に頼って対処をいたしますから、根本問題と当面の課題との区別が難しくなっています。 私たちがこれら現代の対処方法をよく見極めて、取捨選択した上で専門家任せにせず、あるいは組織や家族の一部だけに負担をかけたり、我慢を強いるのではなくて、自分の人生の課題として取り組み、仏法の縁とすることができれば素晴らしいことだと思います。そのためには僧侶、門徒を問わずお念仏をいただくものが互いに悩みや課題を話し合い、それらが阿弥陀如来さまのおこころに照らして、どのような意味を持つかを考えたいと思います。 この世を超えた如来さまの智慧に照らされて、今まで思いもよらなかった見方ができるかもしれません。 いのちは品物ではありません。地球上の生物の誕生以来、永い繋がりの上に、今の私のいのち、あなたのいのちがあります。そして、このいのちは互いに支え合い、成り立っています。しかしながら人間は限りあるもの、間違いを犯すものです。しばしば一番大事なことを忘れがちでもあります。うわべを取り繕ってみても阿弥陀如来さまには通用いたしません。 「みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず」(注釈版聖典P707)と、親鸞聖人がお述べになっているように、阿弥陀如来さまは私のありのままを受け容れて下さるからこそ本当の救いになるのです。 「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」(注釈版聖典P605)と、親鸞聖人はご和讃にうたわれました。私のいのちは阿弥陀如来さまに照らされ、大切にされているいのちです。他のいのちも阿弥陀如来さまに照らされ、大切にされているいのちです。それぞれのいのちを比べて、価値があるか、ないかを決める必要はありません。 「南無阿弥陀仏」とお念仏申すとき、阿弥陀如来さまに照らされた私のいのちであり、周りのいのちであることが思い起こされます。お念仏とともにいのちに自信を持って生き抜きたいと思います。互いに手を取って歩ませていただきましょう。 |