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隣の家の少女
 原題:The Girl Next Door (1989年作品)
ジャック・ケッチャム 著  金子浩 訳
(扶桑社ミステリー・1998年7月30日第1刷・686円)

 これは人を傷つける小説である。物語中の犠牲者はもちろんのこと、読む人間をも傷つけるだけの力をもっている。
 一九四六年生まれのケッチャムは四七年生まれのキングやレイモンとは同世代。キングは、ケッチャムは「カルト的な人気を博している」と言う。
 ケッチャムを読むのは初めてだったが、本書は既訳の二冊よりも前の作品なので、入門編としては丁度よいと思っていた。しかし、この話はそんな甘いものではなかった。この分野に不慣れな人にいきなり読ませたら、二度とホラーには近づかないだろう。それどころか、よくもこんな恐ろしいものを読ませたと激怒するかもしれない。
 この小説の中で起こった出来事だけを見れば、ケッチャムのことを「良心抜きのレイモン」と評してもよいだろう。リチャード・レイモンが何と評されていたか知っている人には判ると思う。
 ストーリーは単純で、交通事故で両親を失い、語り手のデイヴィッドの隣家に引き取られた少女メグが、核シェルターとして作られた地下室に監禁されて虐待されている。それをデイヴィッドは事態の深刻さも理解できず、どうすることもできずにいるというものである。
 隣の家の悪童三兄弟の母親ルースが率先する虐待は、次第にエスカレートするが、十二歳とはいえデイヴィッドの鈍感さは、ほとんど信じがたいほどであり、傍観しているという彼自身の罪悪感もすぐに薄れてしまう。思わず怒りと苛立ちを禁じえないが、傍観者という立場は読者も同じであり、それらの感情も、少年の無力さはすでに大人である自分も実は変わらないのではないかという恐怖の裏返しであることは認めざるをえない。
 虐待のあと、信じられないほどあっさりと日常に帰ってゆくルースと子供たち。メグには逃げられない理由があった。彼女には一緒に引き取られた妹のスーザンがいた。事故の後遺症で不自由な足のスーザンに偽りの罪と罰の観念を吹き込むルースの嫌らしさと、幼い心をズタズタに傷つけた挙げ句の吐き気を催すような虐待の場面は文章でも正視しがたい。
 本書では極悪人は怪物に食い殺されたりすることもなく、悪い奴全部が相応の罰を受けたのかどうかも判らない。子供幻想、勧善懲悪幻想、ヒーロー幻想と次々と幻想を打ち砕く小説でありながら、辛うじて救いを感じさせるのは、終始毅然とした態度の十四歳のメグの強さと涙を誘うようなスーザンのけなげさであり、それは周りの人間の弱さと醜さを一層際立たせている。
 そしてデイヴィッドはついにメグを助けることもできぬまま、事態はあまりにもむごたらしい惨劇をもたらし、彼はすべてを目の当たりにする。そして読者もそれを心の目で見てしまうのだ。のちに成長したデイヴィッド=〈わたし〉の苦悩がどれほど大きかろうとそれは同情に値しない。彼が大人になっても傷が癒えないのは当然であり、苦しみは一生背負わなければならないだろう。そうでなくて一体だれが被害者の痛みと悔しさと恐怖をわかってやれるだろうか?
 原著の刊行は一九八九年。この年日本では女子高生が少年たちによって四十日間に渡って監禁され、暴行の果てに死亡、コンクリート詰めで遺棄されるという、本書と共通点の多い事件が起きている。
 いま、わたしたちは条件さえそろえばこの種の事件がいつ、どこでも起こりうることを知っている。そして残忍な環境の中では人は変わってしまうということも。わたしたちはこの不快な物語を否定することはできても、無視することはできない。なぜならここに描かれているのは現実であり、人は被害者や加害者になる可能性よりも無力なデイヴィッドになる可能性のほうがずっと大きいのだ。
 ケッチャムは読者にこう訊ねている気がする。「愉しんだかい?」そしてもう一つ。「ではどれくらい?」

初出:「ホラーウェイヴ02」(1999年3月20日発行/ぶんか社)

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