京都大学農学部 巌俊一教授 追悼文集より
吉 田 山
辻 英 明 (1981年当時 三共株式会社・農薬研究所)
「巌さんのお友達ならよろしおす」
おばさんのこの一言で,巌さんの下宿部屋を引きつぐことになった.
吉田山の中腹にある,眺めのよい部屋だった.二年先輩の巌さんが学生結婚,
奈良に移転した時のことである.
その部屋にはまだ荷物の一部が置いてあり,沢山の標本箱の中に美しいカミキリムシが並んでいた.
「ワシも好きやったからナ」
巌さんはそう言って,私と同じ虫好きの仲間であることをさりげなく強調した.
おばさんは,よく巌さんの話をした.
「まじめによう勉強しはりましたでえ」
「ほんでも特殊な結婚をしはったんどす」
お見合いでないのは特殊なのであった.
「ワシのフラウは子供みたいやでえ,ウフフ」
当時の巌さんのおのろけであった.
私も数年後に学生のまま特殊な結婚をしたことになる.
「ええがな,ワシかてそうやったでえ.はじめ苦労しても,それをのりこえれば,
かえって二人の結びつきが強うなるんとちがうか」
昆虫飼育室の中で,その時巌さんがそう言ってくれた.
私は8年間の大学院(学生)生活の後,東京へ就職し,その9年後
関西へ転勤した.さらに5年目からまた京都に住むことになった.
巌さんは,助教授として一時名大で活躍したが,間もなく教授として京大へ戻った.
京都では,しばらく気に入った家が思うにまかせず,単身赴任だった.そんな時,
私の家にも時々泊まってもらった.
私は学会などでもよく会えたが,女房はは久しぶりなので,特に喜んだ様子だった.
「掛見さんも変わらんなア, エへ・・・・・」
などと冷やかされて,
「もうあかんわ」
などと,一同で笑い合ったものである. それがつい先頃のことであった.
そう言えばあの夜も,少しであるが気になる咳をしていた.
巌さんは突然逝ってしまった.
私は,用事もないのに,吉田山付近を通り抜けて歩くことがよくある.
これからも歩くだろう.
その時,巌さんも,見えない姿で歩いて来るにちがいない.
追記:
1981年(昭和56年)8月7日
巌俊一教授は,旅先の北海道知床半島宇登呂にて逝去.
享年51歳