その七
2001.3.31

熊谷駅と熊谷桜堤
 

前回紹介した「札の辻」付近の想像図。
江戸幕府成立以後は、熊谷は中山道の宿駅となり、沿道には多くの商店が並んでいた様子が、諸国道中商人艦という文政年間(1818〜)の広告本などから伺い知れます。

明治16年開業当時の「熊谷駅」 現在の「熊谷駅」

明治になり、日本鉄道株式会社(明治14年創立)は、上野〜高崎間に鉄道を建設することを計画し、明治16年に上野〜熊谷間が開通しました。
当時は、午前1回、午後1回の2往復の運転で、乗車人員の記録は、1日平均610人(明治40年)だったとか。
しかし、大正11年には、1日平均14,130人の記録があるそうですが、それは、熊谷に桜堤があったからだともいわれています。

旧桜堤が残されている「万平公園」と竹井澹如の碑。
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現在の荒川桜堤
熊谷桜堤は約400年前に鉢形城主北条氏那が、荒川の氾濫に備えて築いたのが始まりと言われています。
中山道の宿場町当時には、熊谷の花見として江戸まで聞こえた熊谷桜堤でしたが、明治時代に入り、桜は枯れてしまいました。
明治16年、竹井澹如(たんじょ)、高木弥太郎らが、熊谷桜の再現を考えて東京から450本の桜を購入し、夜を徹して堤に植えました。
この年が、上野〜熊谷間の鉄道開通の年で、当時の日本鉄道(株)は、桜の木の運搬を無料で行ってくれたそうです。
その後、大正14年の熊谷の大火以来衰えを見せ始めましたが、市制20周年記念事業として、昭和27年から荒川沿岸の新熊谷堤に植樹をし、現在の見事な熊谷桜堤に引き継がれています。
雨の中の「千代鶴桜」
 熊谷(くまがい)ざくら

熊谷直実の娘千代鶴姫は、母と姉の玉都留姫の三人で静かに暮らしていました。
ところが十四歳の冬に、風邪をこじらせて寝込んでしまったのです。
もともと体が弱いので、母や姉の必死の看病にもかかわらず、病は重くなるばかりでした。
兄の直家も鎌倉から駆けつけ、妹を力付けましたが、少しも良くなりません。
千代鶴姫は、
「お父様に会いたい」
「桜が見たい」
と、うわごとのように言っていました。
すでに早馬は京に向かっていましたが、会えるまでにはまだ時間がかかります。
また、この時期は今の暦の三月初めで、直家は懸命に探しましたが、咲いている桜などどこにもありません。
そこで直家はやむなく紙で桜を作りました、できるだけにぎやかに、という玉都留姫の意見も取り入れて、花びらが二十五枚もある桜です。
千代鶴姫はとても喜び、それをしっかり抱いて三月半ば過ぎ、その短すぎる生涯を閉じたのです。
父の直実は間に合いませんでした。
館の隅に葬られた千代鶴姫の墓から、だれも植えたわけではないのに桜が芽を出し、二、三年たつと花が咲き出しました。
その花は、花びらが二十五枚あるものでした、そして姫の命日にどの桜よりも早く咲くのです。
人々はそのことを思い、だれとはなしにその桜のことを「熊谷ざくら」と呼ぶようになりました。


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