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鹿児島・熊本見聞記(早川 育さん)
東京在住のスペイン史研究者、早川 育さんから、2006年9月24日から27日にかけて鹿児島〜熊本を旅行された際の見聞記を投稿していただきました。執筆・掲載を快諾いただいた早川さんには厚く御礼申し上げます。
早川さんは福岡県のご出身で、東京女子大文理学部史学科、学習院大学人文科学研究科をへて、現在まで中世バルセローナ史(13〜14世紀)を専門領域に、スペイン史の研究に取り組んでこられました。また最近では大航海時代の日本とスペインの関係史にも関心をよせておられます(スペイン史研究者の全国的な団体「スペイン史学会」の会員でもいらっしゃいます)。
また、ご両親が鹿児島県のご出身と言うこともあり、鹿児島スペイン協会にも入会され、首都圏在住のお立場から九州とスペインとの交流活動にも協力しておられます。
なお、このページの写真は早川さんご自身が撮影されたものです。
※2008年9月3日追記:神山卓也さんのホームページ「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」中の「鹿児島カテドラル・ザビエル教会訪問記」でこのページをご紹介いただきました。ありがとうございました。
2006年はフランシスコ・ザビエル生誕500年にあたり、ザビエル所縁の地ではコンサートや記念講演会など様々な催事が行われた。とりわけ、ザビエルの日本上陸の第一歩を印した鹿児島市では、鹿児島カテドラル・ザビエル記念聖堂(ザビエル教会)が主催する「ザビエル街道」ウォークが10月1日に行われた。筆者はイベントにこそ参加できなかったが、それに先立つ9月24日〜27日、鹿児島・熊本を訪れた。
1.「ザビエル街道」鹿児島市 2006年9月24〜27日
【フランシスコ・ザビエル】
フランシスコ・ザビエル(1506-52)は、ナバーラ王国のザビエル城に生まれた。バスクの血を引く父母は共に王国の有力貴族で、父は王国の要職を歴任したが、1512年に親フランス政策をとるナバーラの首都パンプローナがカスティーリャ軍に占拠され、ザビエル一家は離散した。父と兄二人はフランスに亡命したが、父は3年後に死亡した。母や姉と故国に留まったザビエルは1525年、19歳でパリ大学に入学し、1530年に哲学修士を獲得、以降は講師として哲学、ラテン語を教える傍ら、アリストテレス哲学の研究に没頭した。ザビエルはパリでイグナシオ・デ・ロヨラ(1491-1556)と出会い、1534年にロヨラを中心として創設されたイエズス会に同志の一人として参加した。1537年6月24日にザビエルは司祭に叙階され、9月30日(聖ミカエルの日)にローマの聖ペテロ聖堂で最初のミサをあげた。1540年9月27日に、イエズス会は教皇により公認され、翌年、東インド布教にイエズス会士の登用を決めたポルトガル国王の要請に応じて、ザビエルは教皇使節の身分でインドに赴いた。1542-48年の間、インドのゴア、コーチンなど沿岸地域からセイロン島、マラッカ、モルッカ諸島に至るまで精力的に布教活動を行い、1547年12月にマラッカで日本人のヤジロウ(アンジロウ)との出会いを契機として日本への布教を決意した。
ザビエルはアンジロウを水先案内人として、1549年8月にコスメ・デ・トーレス(1510-70)やファン(ジョアオ)・フェルナンデス等と来日し、1551年11月までの2年3ヶ月を日本に滞在した。この間に鹿児島、平戸、山口、京都、豊後で布教活動を行い、約千名にも上る信者を獲得したといわれる。日本開教の目的を果たしたザビエルは、滞在中に中国での布教活動の必要性を感じて準備のため一旦ゴアに戻り、1552年に中国へ向ったが、上陸目前にして広東にほど近い上川島で熱病のため1552年12月3日に死去した。東洋布教活動のパイオニアとしてのザビエルの功績は大きく、1622年列聖され、1927年には「カトリック布教の保護聖人」とされた。
【ザビエルの日本での布教活動】
ザビエルは日本への航海に先立ち、1548年、イエズス会士宛ての書簡にその経緯を記している。「ある信用のおけるポルトガル商人から、最近日本と呼ばれる大きい島国が発見された。(中略)その商人によると、日本人は知識欲が旺盛で、そこに行けば国中に布教することが出来るであろう。」ポルトガル商人の情報に加え、マラッカでサツマ出身のヤジロウに出会ったザビエルは二人のイエズス会士を伴い、中国人の船でヤジロウの出生地とされる山川に上陸し、小船に乗換えて、1549年8月15日に鹿児島(鹿児島市稲荷川河口付近)に上陸した。鹿児島で多くの民と奉行に歓迎を受け、領主からも厚遇されたザビエル一行は、2年3ヶ月の日本滞在のおよそ一年間を鹿児島で過ごした。布教活動で多くの場所を訪れたザビエルだが、とりわけ、福昌寺の忍室和尚を始めとする僧侶等と親交を深めているのは興味深い。福昌寺は島津家代々の菩提寺であったが、明治3年の廃仏毀釈により取り壊され、現在では島津家と福昌寺歴代の住職の墓となって取り残されている。また、敷地内には禁教から逃れた53人のキリシタンの墓も現存している。
ザビエルは宣教の許可を得るため、
1549年9月29日に伊集院一宇治城で当時の領主島津第十五代貴久と会見した。貴久は遠路はるばる来日したザビエルの事を聞き、城内、奥の院にて面会を許した。ザビエルはヤジロウを通じてキリストの教えや世界情勢を説いたとされ、貴久は戦乱の中に平和と愛を説くその教えに感銘したといわれている。また、ザビエルの上陸した8月15日は、貴久夫人の5年忌の命日に当たるため、貴久の母君や家臣一同、心穏やかにマリア像を拝したという。会見の地は1949年に島津藩の家門と十字架を組み合わせた記念碑が建てられ、現在では城山公園となっている。
貴久から領内での布教を許可されたザビエルは鹿児島で布教活動に着手したが、ザビエルの終局の願いは日本全土への布教であった。京都へ上るため1550年9月に鹿児島を出発したザビエルは、途中、東市来の鶴丸城主新納伊勢守康久から歓待を受け、布教を許された。康久自身は洗礼を受けたとも、受けなかったとも言われるが、康久の夫人と子の久饒、長住をはじめ、家臣17人はキリストの教えに感動し、洗礼を受けた。ザビエルは鶴丸城に十日間滞在し、既に鹿児島で洗礼を受けたミゲル老人に城内の信仰維持を託し、川内川河口の京泊より平戸へ出港した。京泊は1606年にドミニコ会宣教師モラレス一行が天主堂を建て、布教活動を行った。
ザビエルは平戸から博多、山口を経て天皇の在所京都を目指した。京都ではあまり成果が上がらなかったものの、1551年ザビエルは山口の大内義隆と会見した。ルイス・フロイス(1532-97)の『日本史』によると、「ザビエルは大使のように装い、印度からの贈り物を献上した」といわれる。その年の8月に、ザビエルは豊後で領主大友宗麟と会見し、後に宗麟は二番目の妻ジュリアと娘キンタと共にカトリックへ改宗した。その後、ザビエルはドゥランテ・ダ・ガマの船でマラッカへ向い、途中、日本最後の滞在地となった種子島を訪れている。ザビエルは当時の領主種子島時堯から歓待を受け、約一週間を過ごした。ザビエルはその時、ローマへの留学生であるマテオ(山口出身)、ベルナルド(鹿児島出身)を伴っていたが、ベルナルドはその後、ポルトガルのコインブラ大学やローマで学び、当時の教皇パウロ3世やイグナシオ・デ・ロヨラに謁見し、1557年コインブラで客死した。
【もう一つの「ザビエル街道」】
ザビエルの鹿児島での足跡は、鹿児島の三大行事の一つである「妙円寺詣り」のルートに酷似している。「妙円寺詣り」は鹿児島市の照国神社から伊集院の徳重神社までのおよそ20キロを歩いて参拝する行事で、現在は毎年10月の第3土・日に行われている。道は国道3号線沿いにしばらく進み、南九州自動車道に入るあたりから鹿児島本線沿いの24号線から37号線へと西へ入り、伊集院駅を通過して徳重神社へと至る。「妙円寺詣り」は、関が原の合戦に僅か千名からなる兵力で豊臣側(西軍)に参加した島津義弘が、戦況不利の中、残存する将兵五十余騎を伴い、徳川勢の正面を強行突破して鹿児島に帰り着いた苦難を偲んで始まったといわれる。義弘は豪勇な武将であるのみならず、人徳が優れ、産業を興し民福を計った名君として知られている。とりわけ、義弘の功績は朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592-98)に出陣した際、朝鮮から連れ帰った陶工に薩摩焼の窯を開かせ、それを保護したことであろう。義弘は85歳で没し、当時の妙円寺に祀られた。妙円寺は明治2年(明治3年ともいわれる)の廃仏毀釈により徳重神社となった。「妙円寺詣り」は鹿児島の城下侍が義弘の遺徳を慕い、また関が原の苦闘を偲び、合戦のあった9月14日の夜に鎧兜に身を固めて義弘の菩提寺(妙円寺)までの五里の山道を辿ったもので、若き日の大久保利通、西郷隆盛も「妙円寺詣り」に参加して感激したといわれている。
「妙円寺詣り」の街道はその後、江戸幕府により定められた「参勤交代」の道筋とも合致している。「参勤交代」初期のころは、江戸まで主要街道を辿ったとされるが、所要日数や経費の面から見直され、早期の段階で川内川河口の京泊から畿内までの海上ルートが採用されたといわれる。「ザビエル街道」は布教の道であると同時に「妙円寺詣り」や「参勤交代」の道となり、人的・物的流通の道として整備されて繁栄し、薩摩藩の主要街道となった。
2.熊本市・玉名市「歴史街道」2006年9月26日
【玉名紀行】
2006年のザビエル生誕500年の9月に、椎名浩氏の案内で初めて玉名市を訪れた。熊本県玉名市はザビエルと来日したコメス・デ・トーレスが布教活動に従事した土地であり、キリスト教史とも関連が深いと聞き、興味を覚えた。
9月27日の正午に椎名氏と熊本駅前で落ち合い、レンタカーで玉名市へ向った。両親が鹿児島出身であるにも拘らず、筆者が熊本を訪れたのは高校の修学旅行以来、数十年ぶりであった。玉名市は福岡県に程近い熊本県北西に位置する。玉名市に入ると直ぐに玉名市歴史博物館を訪問した。博物館は近代的な鉄筋コンクリートの建物で、要塞のようであった。平日であったが地元の小学生が十数人見学に来ており、博物館が小学校の郷土史教育の一翼を担い、地域住民にとっても身近な存在であると思われた。博物館の村上晶子氏の案内で館内を見学した。有明海へ注ぎ込む菊池川の恩恵を受けた玉名市は、古代から船による物資運搬を中軸とした港町としての性格を有しており、中世に入ると、菊池氏の保護下で流域の高瀬地区や伊倉地区は海外貿易に参入するようになる。近世には肥後藩の経済基盤を担う港町へと発展を遂げ、物資の集積産地となった。また、日本初に陸揚げされた大砲(「国崩し」と呼ばれる)のレプリカの展示は、大友氏支配の高瀬地区が当時東アジアに植民地を拡大しつつあったスペイン・ポルトガルの海上貿易圏の視野に入っていたことを示唆するものであると思われる。また、ザビエル帰国後、日本に留まり布教活動を引き継いだトーレスやフェルナンデスも高瀬に立ち寄っており、ルイス・デ・アルメイダ(1525-83)やルイス・フロイスも高瀬に滞在している。
菊池川流域は厳しい自然状況を東シナ海から直接に受けることなく、むしろ有明海を一つの防壁として避難所・待機場所としての役割も担っていたと思われる。高瀬地区が交易・布教活動の拠点となった背景には、有明海沿岸に沿っての航行が比較的容易であることに加え、海路と陸路が併用できるという地理的条件を高瀬が有していたことにあるといえよう。
博物館で玉名市出身の岡田正二氏にお目にかかった。齢84歳の御仁はお仕事の傍ら、二科展入選、個展を開くなど画家として精力的に活動されている方である。岡田氏の先導により、歴史の街高瀬地区へと移動した。まず、目を引いたのは菊池川の川幅の広さである。しかし、1607年に書かれた加藤清正の手紙(群馬県立歴史博物館蔵)によると、唐船など大型船の航行は難しく、積荷は横島などの有明海沿岸に着岸して上荷船で高瀬に運搬されたとのことである。清正は海外からの積荷を独占販売し、莫大な利潤を上げたとされるが、高瀬がその拠点の一つであったことを証明するのは、高瀬商人の台頭である。菊池川の本筋から東に平行して流れる裏川に架かる小さな橋十数基は、高瀬商人の私的商品運搬用に造られたものであり、とりわけ高瀬の深江屋(水上家)は、1600年初頭から明治初年にかけて隆盛を極めた高瀬有数の商家であった。また、高瀬には江戸時代に藩米を船積みするための「俵ころがし」の史跡が残っている。藩米は高瀬御蔵に集められ、大阪へと運搬された。高瀬御蔵の起源は定かでないが、高瀬付近は豊臣秀吉の直轄地であったことから、秀吉が米倉庫として造営させたのが始まりではないかといわれている。高瀬御蔵から積み出された「高瀬米」は質量とも優れており、大阪の米相場の基準となっていたそうである。高瀬商人の活躍の場は対外貿易だけでなく、定期的な藩米などの対内貿易にも及んでいたと思われ、当時の繁栄が推測される。
岡田氏とはこの高瀬でお別れする予定であったが、当地に疎い筆者のため、伊倉地区のキリシタン墓石
まで先導していただいた。伊倉地区は高瀬より内陸部に位置し、現在は静かな住宅街になっているが、近世初期には高瀬の「外港」として活況を呈していたそうだ。キリシタン墓石はかつて「唐人町」と呼ばれた一角にある。狭い道を入り、少し傾斜した地にひっそりと佇む墓石を見た時、岡田氏が案内をお引き受けくださらなければ見過ごしてしまっていたであろう、と改めて感謝した。椎名氏の説明によると、この墓石は16末〜17世紀初頭に作られ、明治初年に発見されたものだという。日本の墓石とは異なり、頭をエルサレムに向けた寝棺型の墓石は「かまぼこ形」で、上部に花十字が刻まれている。被葬者の身分、性別などは不明であるが、キリスト教が当地にも浸透していたという事実を改めて思い知らされた。ここで岡田氏と別れ、熊本へ戻った。
【熊本市:グルポ・エスパーニャ】
椎名氏と熊本に戻った筆者は、グルポ・エスパーニャの例会に参加させていただくことになった。電車で熊本市の繁華街へ移動し、メンバーのお一人が経営しているスペイン料理店へ出向いた。開放的な店内は照明も明るく、いかにもスペイン的であり、実際、スペイン各地でよく見かける造りである。経営者は、スペイン料理店の他にも飲食店を経営する敏腕実業家であり、その傍ら様々な市民活動にも参加されているそうである。その方が玉名市でお世話になった岡田正二氏のご子息、岡田信之氏であると教えられてもさほど驚くには当たらなかった。進取の気性に富んだ高瀬商人の活躍を現在に再現したかのように思われた。
グルポ・エスパーニャのメンバーとは初対面であるうえ、時間的制約からほんの短い交流であった。しかし、初対面と感じさせない雰囲気がそこにはあり、筆者は熊本県民というより、九州人独特の柔軟な異文化対応の原点を見たような気がした。九州には数箇所「スペイン協会」があるが、個々独立していながら時には情報交換も必要と考える椎名氏の活動(実際、2007年4月15日の福田農場は大盛況であった)に、筆者も大いに刺激された。
鹿児島スペイン協会に所属している筆者も、次回のイベントには是非、参加したいと思っている。椎名浩氏はじめ、岡田正二氏、岡田信之氏と久美子夫人、グルポ・エスパーニャの皆様には大変お世話になった。この場をお借りし、改めて深謝申し上げる次第である。
本文で紹介された史跡・文化財・施設のうち、
●「城山公園(ザビエル会見記念碑)」、「妙円寺詣り」の詳細については日置市役所ホームページ
●「玉名市立歴史博物館」、「高瀬裏川眼鏡橋」、「俵ころがし」、「伊倉キリシタン墓石」の詳細については玉名市役所ホームページ
をご覧ください。
また、モラレス宣教師が京泊に建てた教会は後に長崎に移されましたが、2005年10月の長崎旅行で訪問した「サント・ドミンゴ教会跡資料館」はこの教会の遺跡を保存・公開したものです。