|
(03/06/21 up)
あの人はそこにいる。湖を見渡す宿の窓辺に腰掛けている。 湯上りなのか、浴衣をしどけなく着て団扇で煽っている。 髪が揺れる。俺の心も揺れる。襟元に零れる白い胸が濡れているような。 はやる俺を擽るように、風鈴の涼やかな音色が聞こえる。窓辺から青白く月 の光が射し込んでいる。あの人の愁いに沈むような青い横顔。窓辺の手摺には 解かれた赤い帯が垂れ下がっている。 やっと今日という日が来た。今日こそ俺はあの人を抱く。 俺は立って、あの人を抱き寄せた。 あの人は恥ずかしいのか顔を伏せたままだ。殺したいほど愛しい奴。 唇を奪った。燃えるような口付け。火照る体。震える心。遠い篝火。紫の夜。 青い月。赤い帯。燃える瞼。蕩ける花芯。 あの人を抱いている…はずなのに、俺は、一体、誰を抱いているのか分から ない。あの人は顔を背けたままなのだ。体は俺に許すし、唇も与えてくれる。 でも、目を覗き込もうとすると、顔が月の影に隠れてしまう。 俺は焦っていた。今、俺のこの腕の中にあの人がいるのに、部屋の隅にあの 人の浴衣が脱ぎ捨てられているのが分かるのに、不安が募ってならない。 だからこそ、俺は一層、あの人を強く抱き締めた。決して放さない覚悟で。 あの日、一人で湖に沈んだあの人だから、今、この手を放したら、二度と抱く ことなどできない。 俺は、手摺にある帯を手に取って、俺達二人の体を巻きつけた。二人の体が 絡み合い求め合えば、それだけ帯が俺達の体に食い込むように。 次第に息が苦しくなってくるのだった。何故か、あの人を抱けば抱くほどに、 俺の首がきつく締められるようだった。 ついには気が遠くなってしまった。 脳裏には燎原の火が燃え広がり、やがて炎の海は真っ赤な焦点へと収斂して いった。 何処とも知れない世界へ渡っていってしまいそうだ。何処へ行くのだ! 何処へ行く?! そんなことはどうでもいい。あの人と一緒なら湖の底に沈 んだって構うものか! 気が付くと、俺は小船に乗っている。俺一人で、何処へとも知らず漕ぎ出し ていた。 ただ、オールの代わりに手にしているのは、だらりの帯なのだった。その赤 い帯が、俺の手を抜け出して、蛇のように俺の首に巻きついてきた。 ああ! 俺は今こそ、あの人に愛されている! その翌朝、帯で首を吊った俺の変わり果てた姿があった。 03/05/22 20:40 [本作品「赤い帯」は、下に参照として示した即興作品「あの人」を若干手直した作品です。比べてみると面白いかもね。(03/06/21 記)] あ の 人白河を夜船で渡る櫂の音 (作者不詳) あの人はそこにいる。湖を見渡す宿の窓辺に腰掛けている。 湯上りなのか、浴衣をしどけなく着て団扇で煽っている。 髪が揺れる。俺の心も揺れる。襟元に零れる白い胸が濡れているような。 逸る俺を擽るように、風鈴の涼やかな音色が聞こえる。 やっと今日という日が来た。今日こそ俺はあの人を抱く。 俺は立って、あの人を抱き寄せた。 あの人は恥ずかしいのか顔を伏せたままだ。殺したいほど愛しい奴。 唇を奪った。燃えるような口付け。火照る体。震える心。遠い篝火。紫の夜。 気が付くと、俺達は小船に乗っている。 何処へ行く?! そんなことはどうでもいい。湖の底に沈んだって構うものか! …なのに、俺は、一体、誰を抱いているのか分からない。 03/01/23 19:33 [本作品「あの人」は白河夜船というハンドルネームからの連想を即興で書き下ろした小品です。(03/06/21 記)] |