星より孤独……雨 に 想 う


 

雨 に 想 う


 雨が降っている。私は雨が好きだ。
 雨。雨の降る光景が好きなのだろうか。夜の雑踏を哀しげな、あるいは優しげに変 えてしまうから、雨が好きなのだろうか。
 それとも雨の音が好きなのだろうか。雨が屋根や庇や行過ぎる人の傘を叩く、その 弾ける雨音が好きなのだろうか。
 静かな部屋の窓を開けて、雨の音に聴き入っていると、いろんなことを感じる。思 い出してしまう。
 たとえば、遠い日に裸足で遊びまわったことを思い出す。
 雨の日など、何だか無性に嬉しくて、靴が汚れることなどお構いなしに、わざと水 溜りをバシャっと踏んで回ったりした。
 そのうち、靴など脱ぎ捨てて、水をたっぷり含んだ土の上を裸足で走り回ったりも した。
 夏の日だって、ちょっと日陰に入ると、大地はひんやりした感触を恵んでくれた。
 つい、土の上に居座ったりすると、やがてじんわりと湿った感覚がお尻に届く。パ ンツまでもビショビショになったりする。きっと、うちに帰ったらお袋に叱られるか、 そうでなくても面倒をかけているというのに。
 でも、大地と触れることは止められない。
 そうだ、家を一歩出ると、そこは土の香の漂う世界だった。天は青から白へと変幻 し、大地は時に乾いて白っぽくなり、あるいは水を含んで潤って焦げ茶に変わる。塀 や垣根や畦道に沿って名の知れない雑草が生い茂っている。
 そうだ、砂利道をちょっと歩くと、そこには田圃が広がっていた。春先には雪の溶 けきらない田圃にズックのまま踏み込んでいって、蓮華の咲き誇る原をどこまでも走 り回った。畦道をどれほど越えても、田圃が途切れるということはなかった。
 雨上がりの時など、田圃の彼方の山々を覆うように虹がかかってくれた。ガキ仲間 のうちの誰が言うともなく、虹の根っこを探そうと、一斉に走り出す。
 走っても、走っても虹の彼方に辿り着くことはできなかった。虹の根っこに埋まっ ているという大判小判などの財宝を掘り起こす夢は叶わなかった。
 だけど、決して失望落胆することもなかった。
 何故なら、何処までも深く広い土の世界は、ちっぽけなガキに過ぎない今の自分達 には、手に負えない…。けれど、大きくなったら、きっと虹の掛け橋の袂に辿り着け るに違いないと信じられていたのだから。

   さて、幾星霜を経て、どんな遠くをも辿ることが出来る今になって、決して夢は叶 わないのだと知らされた。夢が叶う前に、そもそも夢の地平とは我々は断ち切られて しまっていることを思い知らされたのだ。大人の夢とは、己の性分の愚かしさの裏返 しに過ぎないと分かってしまった。
 憧れたあの子と歩いた砂浜は、すっかり護岸されて見る影もなくなっていた。テト ラポットの上にカラスが所在なげに佇んでいるだけ。
 到底、田圃の果てに辿り着くなどありえないと思っていたのに、今では田圃は工場 やマンションやビルの谷間で肩を窄めている。
 砂利道をたまに通り過ぎる車のせいで家がグラグラ揺れたのに、今、水溜りなど出 来るはずもないアスファルト舗装の道路となっている。畦道は農道となり、リアカー ではなく、ダンプカーやマイカーが我が物顔に走っている。
 胸に押し留め難い思いの募る時には、どこまでも夕暮れの中を歩きつづけた土手さ えも、今では両岸をコンクリートで固められて、遠い日の思い出を消し去ってしまっ ている。
 路上にガキの姿は表に見えず、不意に町角から姿を現すのは老いた人の侘しい影。 ふと見ると、それは鏡に映る自分だったりして、笑うに笑えない。
 気が付いたら我が家の庭さえも車のためにコンクリートの道が出来ている。

   思えば、みんな必要なこと。車だって乗りたいのは、自分も同じ。この歳ともなる と、わざわざ靴を脱ぐ元気もない。アスファルトの上で靴を脱いだら、それはバカだ。
 みんな大地から遠ざかりすぎたんじゃなかろうか。ふと、そんなことを思ってみる。  でも、思ってみるだけ。町が大地から切り離された時から、夢想を追うのは禁忌さ れている。計算された、明日の見える、透明な世界があるだけ。空気さえも脱臭され 滅菌されている。今日というのは昨日の延長に過ぎず、明日というのは、今日の延長 に過ぎず、結局は、今日という日は、滑らか過ぎるほどに磨かれたパイプを通過する だけの幻なのだ。
 けれど、誰もそんなことに気付こうとはしない。気付くわけには行かないのかもし れない。気付いた瞬間、今をあまりに安っぽく売り払ってしまったことを認めること になるから。
 みんなビデオや写真に凝る。それは、今という瞬間の薄っぺらさに心の中では気付 いているからなのだろう。今を、つまり魂を売り渡したからには、今のこの瞬間は、 ただの通過点、ただの陽炎、カメラのフィルムの薄っぺらさにも敵わないペラペラな 虚構に他ならない。そんなペラペラさを生きるしかないと、人は悟るしかなかったの だろう。だから、みんな懸命に写真をビデオを撮る。なんて、滑稽で憐れなことか。

   大地から根っこを断ち切られた人間。自然から黴菌も蛭も毛虫も追い払って、まる で盆栽か生け花のような、そう、造花のように綺麗な、よい安全な自然だけを抽出し てしまった人間。脱臭された脱色された殺菌された、つまりは生気の萎えた人間世界。
 私が今、寂しいのは、きっと、自分が一番、そんな世界に馴れた人間だと気付いて いるからかもしれない。自然を欲すると口では言いながら、実際には、蚊も蝿も蛇も ゲンゴロウもダニも埃もない世界で快適に暮らしたいと思っている、そんな人間だと 分かっているからなのかもしれない。
 存在をかろうじて許されるのは、動物園の檻の中のライオン、籠の中の鳥、毛並み の整ったペット、吼えない犬、心を見失った子ども。
 もう、二度と大地と触れ合うことはないのかもしれない。あの人の熱き血潮に触れ ることは決してないと分かっている…。だから日毎に気力も萎えていくのかもしれな い。だから、人に接することができないのかもしれない。心が涸れ果てているのも、 自然を忌避してしまった当然の結果なのだ。
 そうだと分かっているのに、何故、踏み止まろうとしないのだろう。何故、コンク リートの厚みを増そうとするのだろう。

02/10/27(01/12/15原作)

[本稿は、以前「大地はコンクリートの彼方に」として公表した小文を改稿しました。 ]




雨の夜、公園で


 この世にポツンといるという感覚、何故ともなく放り出されているという感覚こそ が自分には深く馴染んだ感覚である。
 遠い昔、ハイデッガーの『存在と時間』を幾度か読んだ頃、彼の哲学の中に何か似 た感覚を勝手に感じとったものだった。恐らくは(あるいはきっと)似て非なるもの なのだろうけど。
 ある日、物心付いたとき、あるいはこの世とか生きるとかについて思いを巡らし始 めた時、人は、自分がこの世にとにかくあることを知る。無論、理屈の上では親がい て自分がいるわけで、それはそれできっと非常に大きな機縁であることは否定できな い。
 が、ここではそんなことを問題にしているのではない。  親がいるから自分がいる、というのは、問題をすりかえたに過ぎない。では、その 親は…と、どこまでも遡及していくだけ、後退して行くだけで、一向、問題にぶつか ることはない。
 親がいて、社会があり、そして自分がいる。理屈の上ではそうなのだが、それはそ れとして、一個の小宇宙として自分がいることの謎めいた感覚は消えないのだ。
 感覚という時、私は自分の存在感の希薄さを真っ先に思い浮かべる。自分が肉体を 帯び、この社会に生きていることを別段、否定はしないが、にもかかわらず、そんな 理屈とは別次元で、自分の砂のように味気ない、取り留めのない、捉えどころのない 感覚は、どうしようもない。
 ささやかな自分なりの省察の中で思うことは、自分という人間の心の中に、何かと んでもなく臆病というのか、それとも神経質なのか知れない、生きることを忌避する、 あるいは生きることに怯える感覚があることだ。
 きっと、遠い過去のある日、私は世界との出会いにおいて不幸なる食い違いを演じ てしまったのに違いない。思わず知らずの齟齬を世界との間に生じてしまったのだ。
 その結果、私の心は、何処か知らない世界に紛れ込んでしまった。この世に生まれ る目出度さを味わうことができずに、この世で心の根が芽生え生い茂ることが出来ず に、何か固い岩に押し潰されて、心が拗けてしまったのに違いない。
 私の心は、巨大な闇の岩の透き間を懸命に探して、この世の光を求めて這いまわっ たのだろうけれど(そんな記憶が幽かにある…)、とうとう出口を見出しかねて疲れ 果て、何かを諦めてしまったのだ。
 物心付いた時の自分の口癖は「疲れた」だった。それは思わず口をついて出てくる 吐露だった。別に意味などなしに呟いていただけだったのかもしれない。
 でも、私は、白昼の世界に生きているのに、世界が真っ暗闇だと感じた。それとも、 世界が燃え上がっていて、それはまるで立山曼荼羅か何かに描かれる焦熱地獄そのも ののように真っ赤だった。焼けたトタン屋根の上を走り回っているかのように自分を 感じていた。自分に居場所などなかった。
 世界とは違和そのものだった。重く圧し掛かる岩そのものだった。私とは、大地と 岩の狭間の樹液の垂れ零れてやまない雑草に過ぎないのだった。
 でも、愚かな自分は、世界を恋していた。
 きっと、自分を受け入れる余地が、つまりは居場所が世界の何処かにはあるに違い ないと思っていた。未練たっぷりに生きてもいたのだ。
 雨上がりの青空にかかる虹の袂を追いかけるように、私は磨り減ってペラペラの心 のままに、裸足で絶えず退いていく世界を恋い慕った。
 雨が降ると、地が潤い、樹木が息を吹き返す。まるで天と地が雨の雫で繋がってい るかのようだ。
 それとも雨とは、天の恵みだとでもいうのだろうか。
 雨上がり、家の外に飛び出して、水溜りをわざとバチャバチャと踏んで水飛沫を周 囲に撒き散らす。そう、私の足が天の代わりとなり、地に水を改めて恵んでやろうと いうのだ。
 が、私が出来ることは、それだけだった。
 しばらくすると、また、一人ぼっちの私は、静まり返った真昼の空漠たる世界で、 所在なげになってしまう。あまりの沈黙に耐えられない私は、もう一度、何処かの水 溜りを探す。そして同じことを繰り返してみるのだが、結果は変わらない。前にも増 して気の遠くなるような無音の時空が露になるだけのことだった。
 私は、この世界に生きているはずなのに、誰とも出会えないでいた。誰と一緒にい ても、私は、そこにはいないのだった。それとも私と一緒にいても、誰もが遠く離れ ているのだった。
 私の心は、何をどうやっても見つけることが出来なかった。磨り減って、草臥れ果 てて、それが心のなれの果てだとは、到底、思えないほどの希薄なベールだった。そ のベールを身に纏っても、私は居たたまれないままだった。
 私が何かを話す。眼前の誰かが何かを返す。その遣り取りは、遣り、取り、であっ て、交わることはないのだった。
 私の言葉は宙に浮き、やがてあてどなく舞い、いつしか蒼く透明な闇に吸い込まれ ていく。気が付くと、誰かがきっと私に向かって放ったのだろう言葉は、私を覆うベ ールの生地を這い回り、次第にフェイド・アウトしていく。
 私は淋しいと感じる。淋しいなんてものじゃなくて、吐きたいほどに孤独なのだ。 誰かの胸に縋りたいと心底から希う。誰かの肉体を抱きしめたいと思う。もう、女を 抱きたいだなんて贅沢は言わない。
 あの雨に身を竦める桜の幹でもいいのだ、抱きしめさせてくれるなら。
 私は、ただの弱虫なんだ。
 けれど、私の周りに人影はない。誰も私の世界にはいない。真っ白な、透明過ぎる 悲しみのベールがあるだけ。助けて! と叫んでも聞えるはずもない。これが雨の夜 の東京だとは、誰にも信じられないだろう。
 そうだ、雨の公園の片隅にポツンと佇む私だって、ある種の機縁の元でありえると、 理屈では思う。
 私が動けば、バタフライよりはましで、決して無ではない程度の影響を周囲に及ぼ すことが出来ると信じている。
 が、その波及する波の果ては、私には見えた試しがない。まるでブラックホールに 心が吸い込まれていくようだ。雨に呆気なく洗い流されていく頬の涙のようだ。私の 放つオーラは、底なしのブラックホールの周辺の朧なリングに似た輝き。
 地に咲く花や、岩肌にこびり付く苔や、柱の古傷や、天井の染みや、心の傷や、公 衆便所の白壁の悪戯書きや、そうした一切は現象として眼前に広がる。それは幾度と なく通り過ぎたあの人の影のようだ。 
 私が空虚であるように、闇も空虚であることは、今では知っている。だから、その 空無の底を浚って、なけなしの砂金を探している。本当は、人の心にこそ宝が埋まっ ていると分かっているのに、私には人と出会う勇気がないのだ。
 ああ、今日は月も現れてくれない。ただ一人の心の友だったはずの月にさえも見放 された…。
 そして私は、一層の深みへと嵌っていく。
                                      02/10/29(02/01/04原作)

[本作は「世界に出会うということ…初夢は狂想」を改稿したものです。]



雨の夜、路上にて


 私は祈ることの大切さを常々感じてきた。
 その思いは今も変わらない。
 誰か、祈る人がいるなら、その思いの深さを傍にいる小生に知るすべはないとし ても、ただ、見守るしかないとしても、でも、その思いの深甚さの故に、大切に遠く から見守ることだろう。
 さて、では我が事として振り返ってみると、己に祈る心があるのか、あったのか、 ありえるのか、実は疑問なのだ。
 私が、己なりに祈りの大切さを言い募るのも、実は、己の心の中に祈りの気持ちが ないことに気付いているからではなかろうか。
 闇の道を遥かに歩き続け、後戻りの勇気も知恵もなく、気が付いてみると、一体、 自分が何処に居るのかさえ分からないでいる。上も下も分からない。前も後ろも分か らない。見えてはいても何も見てはいない目で、そっちが前だろうという方へ向かっ て、とりあえず歩いているだけなのだ。
 そう、何もしないで、じっとしているのが不安でならない。何かが自分を追いかけ ている、それとも何かが自分を呑み込もうとしている、そんな得体の知れない焦りと 恐怖の念ばかりが渦を巻いている。
 毎日の勤めを果たしている。それはそれでいいのだろう。
 でも、それは何もしないでいると、その無作為が咎められるかもしれない、その怠 惰ぶりが己を一層の惰性へと追いやっていくかもしれない、ただ、その懸念を吹き払 いたい一心で、当面の勤めをこなしているに過ぎないのではないか、ふと、そんな気 がする。
 私が真面目に仕事するのも、他にすることがないからなんだ。沈黙の時の重さに耐 えかねるからだ。
 私は、きっと人並みに周囲の状況を見ることができる。目の前の床に横たわるもの が机だと分かっている。机の上にはボールペンがあり、メモ帳があり、湯呑み茶碗が あり、なみなみと注がれた番茶の湯面からは湯気さえ立ち上っている…。
 窓の外は、冷たい秋の雨。すっかり暮れなずんだ透明な、底知れない闇も、今の時 期だからこそ望める無数の星々の煌きも、晧晧と照るはずの月も、霞みの彼方に深く 沈んでいる。垂れ込める雲。
 みんな、分かる。みんな、見える。きっと、人並みに。
 でも、それだけ。 
 私は、でも、何も見えていないのだという気がしてならない。目は見えても、やっ ぱり実は、本当は盲目なのだ。見たいものが何も見えないのだから。
 しかも、何を見たいのかさえ、自分で分からないでいる。
 ただ、得体の知れない渇望の念が渦を巻いている。ぽっかりと口を開いた場違いな 空隙に、今にも吸い込まれそうだ。
 何ヶ月も、何年も、人と口を交わすことがない。事務的な用件を一言、二言、白け た空間に放つと、あとは、空っぽな時空が漫然と漂うばかり。そうして、一歩、部屋 の外に出ると、一層だだっ広い、のっぺらぼうの世界が待つ。

   きっと、私は祈りたいのかもしれないと、そんな時、ふと、思う。
 が、私には、祈る心がないのだと、そんな時、痛切に感じてしまう。
 せめて祈ることが出来たらと、ふと、思ってみただけだと分かっているのだ。空虚 な心には、己の外の世界を覗き込む気力もないし、己の閉じた心には、豊饒なる世界 に触れる窓もない。
 そうだ、祈りたいのではなく、悲鳴を上げているだけなんだ。
 頭の奥底深くにキーンという通奏音が、常に鳴っている。脳髄の幾重もの襞の層に 覆われた森閑たる宇宙。その世界に触れる唯一の窓であるはずの心さえも、外界に触 れることを忘れて、今は、ただの塊となって不毛な惰眠を貪るだけ。
 肉体とは心の塊だと思う。心なんてモノは、何処か中空を漂っている霊などではな く、この生身の体そのものなのだと感じている。心の揺らぎとは、きっと内臓のシグ ナル、あるいは私への天からの挨拶、それとも合図なのかも。
 肉体の変幻する相貌こそが心なのだ。
 ああ、でも、そんな世迷言が何になろう。
 雨の中、一個の肉の塊が路上を彷徨っている。何かを求めてうろつきまわっている。 きっと、誰が見ても不審者そのものだ。胡散臭げな目で誰もが見、あわてて目を逸ら し、歩をわざと早めて過ぎ去っていく。
 その雨に叩かれて彷徨う中年男が部屋に戻る前の私だった。きっと、ずぶ濡れの私 を見て、あの人が傘を刺しかけてくれると、夢のようなことを夢見ていた私だった。
 思わず、助けてくれ! と、身も世もなく叫びたくなる。絶叫して、俺は、ただ、 触れ合いたいんだ! 熱い血汐に触れたいだけなんだ、それでけで、たとえ一時でも 気の狂いそうな今をやり過ごすことが出来るんだ! 
 そう、叫びたい。悲鳴を上げたい。
 否、現に上げている、いつだって。
 でも、その声にならない声は、闇の海に飲み込まれていく。
 この心、この体は、やっぱり今日も、悪戯に神経を摩り減らしていくだけ。
 奇麗事など、言っている余裕などない。
 祈ることの出来ない私は、せめて、吐きたいほどの孤独を己の肉体から殺ぎ落とし て欲しい、今、望むのは、それだけ。
 そう、祈りではなく、ただの悲鳴ってことなのさ。

02/10/29(01/12/20原作)

[本稿は、以前「祈りというより悲鳴」として公表した小文を改作したものです。]