雨の夜の出来事


   空しい気持ちで一杯だった。どうしようもない悲しみが胸を締め付けていた。
 何だってあんなことが起きるのか。しかも、よりによってこんな時に。あんな 素晴らしい夢を見た日に。
 朝、出かける時はご機嫌だった。さすがに口には出さないけど、ルンルン気分 だったのだ。
 それが…。
 日中は晴れていた空も、夜が更けるにつれ雲が厚くなって、俺が帰る頃には雨 が降り出していた。
 その変化は俺の心の移ろいを映し出しているようだった。
 コンビニに駆け込んだ。ビニール傘と、何か弁当を買うつもりだったのだ。
 でも、それが間違いだった。いつもの店ではなかったのである。
 俺は醜い。少なくともガキの頃から醜いとよく言われた。この顔は、きっと失 敗した手術のせいなのだろう。虐められもした。でも、自分では分からなかった。 みんながそう言う以上、そうなのかもしれない。
 どうでもいいことだった、俺には。俺自身は鏡を見ない限り、自分の容貌が見 えない。だから、俺の目には周りのすべては透明だった。きっとあるがままに見 えるのだった。周囲の何にも執着する気持ちなどなかった。
 そう、物心付いた時には俺には情が無くなっていたのだ。俺は死んでいること に気が付いた。そう、気が付いた時、俺は生まれ、そしてこの世から消え果てた のだ。俺の心は、何処へ行ったのだろう。悲しいとも思わないけれど、喜びも無 い。俺はただ、とりあえず生きている。物心付いた時から余生だったのだ。死ぬ までの長い、長い退屈な時間。遥かに遥かに果てしない遠い彼方の死の時。
 虐められても悲しいとは思わなかった。人間はそうするのが当たり前だと思っ ていた。自然現象なのだ。醜いものは避ける。避けるだけじゃなく踏みつけにす る。蛇の嫌いな奴は蛇を、蛙の嫌いな奴は蛙を、懸命に生きる奴が嫌いな奴は、 その真摯に生きる奴を徹底して虐げる。殺しても飽き足らないと思う。それは物 理法則より厳然たる人間世界の法則なのだ。
 誰が何と言おうと、俺の現実が、そう、示している。民主主義は俺には永遠に 届かない。
 悲しくはない、というより、何も感じない。小学校に入る頃には、感情は摩滅 していた。ただ、飯を喰らい、ただ、寝て過ごし、ただ、青空を眺めて生きた。 それ以外に何があるというのか。
 俺は小学校の低学年のうちに、いわゆる隠遁の術を学んだ。テレビや映画でや る、ちゃちな奴じゃない。何か煙か黒い布で我が身を隠すなんて、馬鹿げた技な んかじゃない。
 そうではなく、俺がちゃんとここにいるにも関わらず、誰にも俺がここにいる ことが気付かれない、という技だ。中学校になって、何かの本で存在感を消去す るという表現を学んだ。
 ここにいる。だけど、いない。
 何かの集会があって、あとで振り返って、あれ、あいつ、ここにいたっけと、 必ず訝しがられる、それが俺流の生き方なのだ。これを学び習得してからは虐め られることもめったにないようになった。
 何しろ、そこにいることを気付かれないのだから、誰にも虐めようがないって わけだ。
 だけど、あまりに完璧にこの術を体得し過ぎてしまった。時に自分にさえ、自 分の存在に気が付かないことがあったりする。何の情もない以上、生きていると いう存在感の覚えようがないのだ。
 それでも、虐められるよりはましだ。人に、どうしても俺のことを虐めたい、 踏み潰して消し去りたいという彼らにしてもおぞましい感情を起こさせないであ げられることができる。無事が何よりだ。
 ただ、辛いのは店とかに行っても、俺がまるで相手にされないことだ。品物を 籠に入れてレジに立っても、特に女性の店員は決して俺のほうを見向きしない。 それどころか、殊更に棚の整理に没頭し続ける。
 しばし、呆然と立ちつづける。そのうちに、俺の後ろに他の客が立つ。そうす るとやっと店員が俺の存在に気が付く。正確に言うと、俺の後ろの客に目が行く。 それでも、女子店員は、こっちへ来ない。男の店員を探す。で、先頭の俺の相手 を男子店員にさせ、女子店員は後ろに並ぶ客を、「お待ちのお客様、どうぞ」と 呼びかける。
 いつものことだ。いつも通りのことだ。俺は、ここにいる。だけどいないのだ。
 そして、雨の夜の、その間違いとは、思いがけない雨で、いつもの店じゃない コンビニに入る羽目になったことだ。いつもの店は、何故か女子店員がいない。 いつも、男子店員だけ。そいつらは、何とか俺の相手をしてくれる。
 が、あの日、初めて入ったコンビニは女子店員だけだったのだ。入った瞬間、 「しまった」と思った。戻ろうかと思った。また、虐められると予感した。でも、 倉庫に一人くらいは男子店員がいないとも限らない…。この先には、もう、夜半 に開いている店はない…。
 朝は起き掛けに見た夢が最高だった。周りのみんなと仲良くお喋りしている内 容のものだった。それは、俺にとって、正に夢の世界だった。気兼ねなく誰彼と 喋れること語り合えること、それが俺の叶わぬ夢なのだ。せめて、一度だけでい いから、そんな夢見心地の時を過ごせたら…。
 それが、たとえ夢の中にしろ現実になったのだ。これが正夢だったら…。
 会社では、倉庫の中で一日働いても、何もなかった。でも、それがいつも通り のことなのだから、別に気にすることもなかった。
 そして、雨の中、あの店に飛び込んでしまった。

 今、俺はレジの前に立っている。誰でもいい、店員が来てくれることを待って いる。みんながそうするように、目を背けながらでいいから、そっぽを向いたま までいいのだから、早く清算を済ませてほしい。俺の願うのはそれだけなのだ。
 だけど、誰も来ない。俺は待つ。俺はここにいる。だけどいない。
 俺はここにいない、だけど、ここにいる。早くこの場から消え去りたいと希い ながら。

                                               02/07/18