黒い石の祈り

                                              (03/05/22 up)




 道端で奇妙な石ころを見つけた。
 真っ黒な石である。
 石炭、それとも黒曜石のような輝きを放っていた。
 拾え、と命じていて、そのまま見捨てていけば後悔するぞとでもいうような、 それとも、そう訴えているように思えるのは罠でもあるような、下手に手にす ると怪我をしかねないような、わたしには判断の付きかねる妖しい輝きだった。  迷いに迷った挙げ句、わたしはとうとう拾ってしまった。
 黒いその石は、表面が磨き抜かれたように艶々とした光沢を放っている。色 こそ違うが、瑠璃とも思えるような深い色合いがあった。ちょっと薄暗いとこ ろで見たなら、紫色を帯びすぎた瑠璃かと思ったかもしれない。
 昔、読んだ何かの小説のことを思い浮かべていた。
 その退屈で奇妙な小説は、こういう話だった。

 或る日、突然、主人公の手の平にちょっとした腫れ物が出来る。最初は、足 の裏なら水虫か水脹れかと思えるような小さな膨らみだったが、次第に大きく なって、そのうち握った手の中にやっと隠せるかどうかという大きさになる。
 彼は、その奇妙な瘤に悩まされる。体に不調は感じないのだが、とにかく異 様な瘤なので、人に見られると変に思われるし、人前では常に手を握っていな いといけない。それでも、塊は握った手の角度によっては、どうしても人に見 えてしまうのである。
 下手に手の平を開くと、もう、二度と塊を握りきれなくなりそうで、握りっ 放しになる。そして、段々、握っている手が疲れてならなくなる。そんな或る 日、彼に天からの囁きの声が聞こえてくる。
「お前は祈らなければならない」と。
 彼は戸惑う。確かに神信心などしていない彼だが、だからといって宗教をな いがしろにした覚えもないのだ。ただ、祈ったことがないことも事実だった。
「祈る? 祈るってどういうことなのか?!」
 彼は、天による試練に応えることができない。祈るということが、まるでピ ンと来ないのである。彼に見えるのは、目の前の机であり、壁であり、天井か ら吊り下げられた折鶴であり、窓であり、開け放されたカーテンであり、窓外 の景色であり、陽光を跳ね返す銀杏の葉々であり、街角を行き交う人々の姿だ った。
 あるいは、時折、部屋を訪れる白衣の男や女、そして冷たく光る器具や複雑 に絡み合うチューブや配線の数々だった。誰も彼に語りかける者はいなくなっ ていた。小脳や間脳や延髄のかすかな波動が、大袈裟な機械のモニターに単調 な波の線となって表示されている。今や彼が外界に示しているのは、それだけ だった。
 癌巣が全身に転移して、脳さえ犯され、激烈な痛みを抑えるため鎮痛薬が投 与されていた。その結果、意識が目覚めようがなくなっていた。そう、彼は意 識を失っていると見なされていたのだ。
 けれど、彼の意識は、脳の奥底で息衝いていた。懸命に脳髄の表に這い上が ろうとしていた。眠る意識の底で、彼は夢を見ていたのだ。手に不思議な塊を 握る夢を。祈れという天の命令に従うことさえできれば、手の中の石を解き放 つことができる。一切の柵(しがらみ)から解放される。なのに、彼は頑なに 祈ることを拒んでいた。
 というより、祈ることができないのだ。祈るということが分からない以上、 どうすることもできない。この世にあるものは、目に見えるもの、耳に聞こえ てくるもの、鼻で嗅ぐことができるもの、舌で味わうことができるもの、そし て肌に感じることができるもの、そうした具体の一切合切に他ならない。彼に は、それ以外のものなど、想像さえ叶わない。
 そして或る日、末期の日を彼は迎えた。手に握られていた石は、手の平の肉 に深く食い込んでいた。血肉と石とは不可分な関係になっていた。脳波を示す グラフは、ついに目を凝らしても平坦にしか見えなくなっていた。
 彼は、祈ることもなく、この世を去った、のか。

   ところが、わたしは小説の一番肝心な結末部分のことを忘れてしまっていた。 彼は祈らずに死んだのか。それとも何か救いめいた場面があったのか。それと も作者は敢えて、結末の場面を曖昧にしたままに、読者に考えさせようとした のか。
 わたしは、手の平を広げたまま手の平の上の奇妙な石を眺めていた。深い深 い紫色、それとも夜の底の藍色の海の彼方。もしかしたら脳髄の奥の凝り固ま った血の塊。瞳に映る遠い日の星のない夜の闇。そうした一切が混じり合った ような黒い石。
 わたしも小説の彼と同様、祈ることが出来ない。ただ、初めて星を見つめた 愚か者のように、手の平を台座にした黒い石を呆然と眺めているだけだった。
 わたしには何も見えない。自分の心さえ、無色透明、それとも無味無臭だっ た。フワフワと漂う魂。この世の光を見る前に怯えきってしまった心。四次元 の世界で決して開かれるこのない、巻き込まれたままの生きられることのない 次元。
 やっぱり道端に転がっていた石ころというのは、わたしを絡め取る罠だった のか。

 不意に、小説の最後の場面を思い出した。そうだった、息絶える瞬間、手の 平が開いて、中で固く握られていた塊が転がり出たのだった。あまりに長く握 られていたので、本来なら無様でゴツゴツしていたはずの塊は、汗と握力とで 磨き込まれ削り出されて瑪瑙か瑠璃の玉のように変貌していたのである。その 黒い玉石と見紛うような塊は、病室をポーン、ポーンと跳ね回った挙げ句、何 処かへ姿を消してしまったのである。
 手の平の石が解放されたということは、彼が祈ったという証明なのか、それ とも、石はあくまで祈ることを求め、次の所有者を探しに行ったのか。そうい う問い掛けが小説の語り手によって最後になされていた。
 わたしは、その結末が気に食わなかった。そんな曖昧な、どっちつかずの結 末を与えられるために読ませられたのかと怒り心頭だった。騙された気持ちさ え、わたしにはあったのである。
 全ては、わたし次第なのである。わたしは、今、その黒い石を手にしている。 小説の中の彼が果たしえなかった祈りをわたしがしなければならない。わたし に祈れるだろうか? 何の確信もないままに、わたしは手を固く握った。黒い 石を握りつづける決心を固めたのだ。
 それは、最後の日まで握りつづける、そしていつか祈ることができるか、で なければ、救いを得ることもなくこの世を去るという覚悟を定めたという意志 表示だった。


                                          03/05/21 02:34