1.筍 の 家
2.紫陽花の雨
1.筍 の 家
あれは、保育所に通っていた頃だから、ボクがまだ五つか六つだったと思う。
ボクはお袋に連れられて、お袋の妹の家に行ったことがあった。ボンネット
バスに揺られてだから、随分と昔のことになる。国道でさえ砂利道のところが
残っていて、国道を逸れて脇道に入っても、すぐには分からない。
田舎の道は、巾が細いし、道端には雑草が生い茂っている。道がデコボコし
ていて、前日、相当に降ったらしい雨が水溜りになっていて、バスは避けよう
もなく、勢いよく水を撥ねるのだった。
少しずつ、坂道が急になり始め、両脇の林が道に覆い被さるようになってい
く。まだ、昼までには数時間はあるはずなのに、生い茂る枝葉で周囲が暗くな
ったりする。
ボクはお袋と一緒なのに、段々、心細くなってきた。このまま、何処かの山
の中に置いてきぼりを食らうんじゃないかと思われてきたりした。
さんざん悪戯などして、お袋をてこずらせたし、家の手伝いもろくすっぽ、
しないガキだった。畑で働くお袋にお小遣いをせびって、とうとう怒らせて、
ナスの実などを切るハサミを持つお袋に何度、追いかけられたことか。
とうとうボクはお袋に呆れ果てられてしまったんだ、妹のところだなんて、
言ってるけど、嘘っぱちで、実は、何処かの怖い家に置き去りにされてしまう
んだ…、そんなふうに思って、知らず知らず半ズボンの裾をギュッと握り締め
てしまうのだった。
不意に空が開けてきたと思ったら、バスは無理やり切り開かれたような赤茶
けた場所に止まった。
その頃には、バスの客はお袋とボクの二人だけになっていた。
そうだ、今、思い出したけど、バスには若い女性の車掌さんが乗っていたん
だっけ。ボクはそんなことさえ、忘れ果てている。覚えているのは、運転手の
帽子とか制服の肩だけ。
車掌さんは、スカートだったかパンツだったかもハッキリしない。
降りると、バスは、排気ガスの臭いを残して、さっさと走り去ってしまった。
ボクは、追いかけていきたい気分だったけど、バスは、鬱蒼とした林に飲み
込まれて、あっという間もなく消え去ってしまい、車道も闇への通路に過ぎな
いようで、立ち竦むばかりだった。
お袋に手を引かれて、二人が並んで歩くのがやっとの急峻な細道をドンドン
分け入っていった。曲がり角には古びた小さな祠があって、お地蔵さんがにこ
やかな表情を湛えて立っているのだった。
いざとなったら、ボクはここに逃げてこよう、そんなことを思ったことを覚
えている。
が、そんな思惑など、すぐに吹き飛んだ。道が幾重にも曲がりくねっている
し、脇に逸れる小道が何本もあるので、とてもじゃないけど、一人では元の広
場へ戻れそうにないのだ。
三十分ほども歩いたろうか、お袋が、「ここだよ」とボクを促した。
何十年も隔てての記憶というか印象なのだが、ボクにはそれが家(うち)と
いうより、祠を大きくした、雨露を凌ぐためだけのボロ家にしか見えなかった。
ほんのちょっと風でも吹こうものなら、吹き飛ばされるに違いなかった。
そんなところに、叔母さんと小父さんとの二人きりで暮らしているなんて、
信じられなかった。そろそろ梅雨の季節を迎える頃だったはずだけれど、涼し
いというより寒いくらいで、道端に雪が消え残っていてもおかしくない、そん
な寒さが身に沁みていた。
お袋が家のほうに声をかけるまでもなく、家から二人が出てきて、出迎えて
くれた。二人は、お袋との挨拶もそこそこに、ボクをにこやかに迎えてくれた。
その優しささえ、ボクには怪しいものに映っていた。最初は、暖かく持てなし
ておいて、お袋が去った後、途方に暮れるボクを……。
もう、ボクは疑心暗鬼の塊になっていた。懸命に笑顔を作ろうとしたけれど、
頬が強張っているに違いなかった。
「あれから二年かね。早いもんやね。随分、大きくなって」
叔母さんは、棚から竹篭を持ってきて、テーブルの上に置いた。中にはお菓
子が山盛りになっていた。
お袋との遣り取りを聞いていると、どうやら、ボクを歓待するために、わざ
わざ里まで降りて、ボクのために飲み物やらお菓子やらを買い揃えてくれたら
しいことが分かった。それさえも、ボクにはわざとらしかったけれど、でも、
お菓子はドンドン食べていった。お腹が空いていたし、何か食べないと不安な
気持ちが治まらないのだった。
一頻り、お袋と小父、叔母の三人のお喋りが続いたが、そのうち、小父さん
がボクを連れて家の裏手へ向った。小さな家だと思っていたけれど、裏の庭や
畑が、びっくりするほど広いのだった。
小父さんは、木や竹の切れっ端を小刀で器用に切り出し、何本かの細い棒を
作り出した。ボクには手品みたいな手捌きで、あっという間に竹とんぼを作っ
たり、輪ゴムを飛ばす鉄砲を作ったり、虫篭を作ったりしてみせた。
そう、昆虫採集に行こうというのだ!
ボクは、初めの不安など、どこへやら、小父さんに誘われるままに、竹鉄砲
で輪ゴム飛ばしをしたり、森の中のいろんな昆虫を掴まえたり、森の斜面を下
っていった先の小さな清水の湧き出し口で手で掬って、冷たい、でも、美味し
い水をゴクゴク飲んだりした。何の種類なのかボクには分からない木の実をも
いで食べたりして、時間の経つのを忘れて遊び呆けた。
夢中だった。夢のような世界があった。
お昼には山で折り取ってきた笹の葉を適当に洗って、叔母さんが作ったおに
ぎりを挟んで食べたりした。笹の葉の香りがおにぎりの美味しい米粒と絡んで、
どれだけ食べても、もっと欲しくなるのだった。
そんな日中の時も、過ぎてみれば呆気なくて、夕餉の時になっていた。
囲炉裏の周りでグツグツ煮える鍋料理というわけだった。材料には、事欠く
はずもなかった。ありとあらゆる山の幸がタップリと煮られ、いつの間に採っ
てきたものやら、名の知れない魚の肉も投じられ、御飯を何杯、お代わりして
も、飽き足りないのだった…。
そして、夜。
そう、問題の夜だった。幸い、お袋は残っていた。
ボクの予想では、何かの用事があってお袋はボクを置いて先に買える筈だっ
た。なんだか、肩透かしを喰らった気分だった。そうか、ボクが寝静まってか
ら、お袋はこっそり去っていくのだ。そうに違いない!
ボクは、一晩、決して寝ない覚悟だった。寝たらお終いなのだ。それを潮に、
お袋は姿を消してしまう。そんなことをさせてなるものか!
が、不覚にもボクは、床につくまでもなく、あっさりと寝入ってしまった。
それも、他の三人は、まだ起きてお喋りしていたはずだから、三人がいつ、ど
のようにして寝たのかも、さっぱり分からないまま。昼間、遊び呆けてしまっ
たのだから、無理もないのだけど。
ただ、あまりに早く寝付いたものだからか、それとも、鍋料理の汁をあまり
の美味しさに腹一杯飲みすぎたせいか、尿意で目が覚めた。真っ暗闇の中だっ
た。ボクは、囲炉裏の間で寝入ったはずが、気が付いたら、お袋と並んで寝て
いた。
あんなに小さな家に見えたのに、部屋が幾つもあることに驚いたものだが、
そのうちのどの部屋に泊まっているのかなど、まるで分からない。トイレは、
囲炉裏の間の脇を抜けた、土間の隅にあることは、もう、分かっている。が、
その囲炉裏のある部屋が、真っ暗闇ということもあり、さっぱり分からないの
だ。
お袋の寝息が聞える。さすがにお袋も疲れたのだろう、寝息というより、軽
い鼾だったかもしれない。とても起こすわけにはいかない。
起こしたら、それこそ薮蛇で、お袋が<用件>を思い出してしまうかもしれ
ない。そんなこと、できるはずもない。
ボクは、静かに起き上がった。闇というものが、気の遠くなるほどに奥深く、
濃く、掴み所のないものだと、初めて知った思いだった。虫が入らないよう、
窓もしっかり閉じられているようだった。夕餉の前だったか、トイレに立って、
外を便所の窓から見上げた時、月が出ていたはずだった。外が青白く、透明な
輝きに感動したのだし。
ところが、その頼りの月の影が消え去っていた。あるいは、たまたま目覚め
た時、雲に姿を遮られていただけなのかもしれないが、漆黒の闇、墨を流した
ような、どこまで分け入ってもどす黒い液体が目にも肌にも髪にもしつこく付
き纏うような、性質(たち)の悪い闇があるばかりだった。
手探りだけが、闇の世界を進む術(すべ)だった。足をそろりそろりと畳を
擦るように進めるしかなかった。
一体、どれほど進んだろうか。不意に爪先に奇妙な感触を覚えた。板か棒っ
切れのように突っ立っているようでもあるけれど、どこか撓るようでもある。
乾いているようでもあり、濡れているようでもある。サラサラと滑るようでも
あり、ザラザラとしたささくれ立った表面とも感じられる。
その時だった、急に足元が明るくなった。光の細い帯が幾重にも折れながら、
家の中を伝っているのだった。
月光!
そして、板壁の透き間から洩れ入る月の光に浮かんだものは、筍だった。し
かも、その筍は、囲炉裏のすぐ脇の畳から顔を出しているのだった。
(こんなもの、あったっけ)
どう、記憶を辿ってみても、あるはずがなかった。無論、筍が床に落ちてい
るわけじゃない。畳の変に盛り上がった状態からしても、床下から生え出てき
たに違いなかった。
ボクが寝入った頃にはなかった…。なんとなく、お尻の下がムズムズするよ
うな気がしたけれど、座布団の綿がおかしいからだろう程度に思っていたのだ
が、もしかしたらその頃には、頭の天辺くらいは突き抜けていたのかどうか。
でも、そんな場合じゃなかった。オシッコが洩れそう。ちびりそうだ。月光
が幸いしている間に、便所へ行ってこないと。真っ暗闇の中でオシッコなんて、
怖すぎる。戻るのも難儀のはずだし。
幸いにして、ボクが寝床に戻る間も、お月さんは光の帯を垂らしてくれてい
た。
その後のことは、何も覚えていない。ボクが置き去りにされるなんて心配も、
夢見心地の中に掠れ去っていた。
朝…だった。光が満ち溢れていた。それ以上に、やたらと煩いのだった。お
袋は、隣りの寝床に居ない。あ! もしかしたら…。
ボクは慌てて、みんなの声のするほうへ走っていった。
そこには小父や叔母だけじゃなく、お袋もいた!
みんな、囲炉裏の脇を見詰めて指差したり、笑ったりしている。見ると、そ
れは筍だった。もう、筍とさえ、言えないほどに育っていたから、竹と言うべ
きかもしれない。畳をこれでもかというくらいに引き裂いて、五十センチほど
もの姿を誇っている。畳の下は、一体、どれほどあるのか、ボクには分からな
いが、小父さんの話だと、五十センチはあるはずだという。
ということは、一メートルにもなろうという竹なのだ。
夕べのあの竹の頭が、筍だろうと思っていたのが、立派な竹だったとは。
朝は、もう、その話で持ち切りだった。小父さんたちによると、よくあるこ
とだと言うことで、余裕の笑いを浮かべているのだった。
その日は、お袋が家で用事もあるし、ということで、ボクらは朝食だけ戴い
て、朝のうちに帰った。お土産は、タップリの筍だったことは言うまでもない。
それにしても、ボクが置いてけぼりを食らわなくてよかった?!
04/06/14 作
2.紫陽花の雨
あれはボクが初めて恋をした時のことだ。
雨の降る中、学校から急いで家に帰ろうとした。走れば家まで数分。朝から
雨が降っていたって、傘なんか差さない。傘なんて、邪魔なだけ。濡れたって、
着替えればいいんだし、へいっちゃら。
もっとも、その日は、朝は降っていなかったはずだ。天気予報にもない、不
意の雨だったのかもしれない。
その日は、校庭の隅っこにある用具室の裏でグズグズしていた。そこからは
校門がよく見える。
そう、ボクの好きなあの子が下校するのを待っていたのだ。彼女は、ピアノ
の教室に通っている。だから、学校が終わると、すぐに帰宅することをボクは
知っている。
だから、用具室の陰に隠れて、彼女を見送るのが日課になっていた。ボクだ
けの密かな楽しみだったのだ。
けれど、不思議なことに、その日、彼女、なかなか姿を現さない。今日は、
練習がない? そんなことはないはずだ。その日も練習の日だってことは、知
り抜いている。
ボクは彼女を見逃したのだろうか? このボクが、彼女を。まさか!
彼女が校門以外から帰るところは見たことがない。時間に忠実なあの子なの
だもの。
家での躾が厳しいとかって、彼女、誰かに愚痴ってたことがあったっけ。
雨は、一層、降り募ってきていた。四時を回ったくらいなのに、空が暗い。
灰色の雲どころか、空が雨に煙って見えないほどだった。
ボクは、焦っていた。彼女の姿を見かけたって、それでどうしようというわ
けもなかった。ただ、彼女の帰るのを見送りたいだけなのだ。クラスも違うし、
声を掛けたこともない…。
というのは、半分はウソだ。四年になってクラス替えするまでは一緒のクラ
スだったのだ。一時は席が隣同士だったこともある。ただ、その時は、彼女の
ことをそんなに意識していなかった。
いや、嫌いだったかもしれない。
というのも、体育の授業で駆けっこをしても、彼女にまるで敵わなかったの
だ。勉強のできないボクは、学業じゃ彼女にも誰にも太刀打ちできないし、体
育で頑張るしか、目立つすべがなかった。
そうはいっても、男の子同士の競争では、トップにはなれなかったのだけど。
それでも、女の木には負けるはずがないと思っていたのに、彼女には一度も
勝ったことがない。
悔しい! 勉強では到底、彼女に追いつけないことは分かっている。なのに、
体育でも負けるとなると、ボクって一体、何? となってしまう。
そのボクが、三年の終わりに近づいた頃、授業で初めて彼女との駆けっこに
勝ったのだった。別に二人きりで走ったわけじゃないけれど、ボクは彼女しか
眼中になかった。
ボクは彼女に勝った…。
すると、彼女、ポツリと、負けちゃったね、なんて言って、ボクにニッコリ
と微笑んでくれたのだった。
でも、そう言う彼女の微笑みに、何か寂しいものを感じた。やっぱり女の子
って、男の子には体力的に敵わないという諦めだったのだろうか。今もって、
彼女の淋しい笑顔の秘密が分からないでいる。
そう、その日、ボクは彼女に惚れちゃったのである。それまでは、彼女に敵
愾心があって、口を利く気になれないでいたけれど、それからは、彼女のこと
を意識しすぎて口が利けなくなってしまった。
それこそ、その事件のあった日から一週間もしないうちに終業式を迎え、や
がて四年生になり、クラスも別々になったというわけだった。
彼女の姿は、毎日、学校で追いかけていた。ボクの視線の先には、いつも彼
女がいた。休み時間には彼女の姿を探し求め、下校の時間には、こっそり、用
具室の脇で彼女を見送るのだった。そんな日々が続いていた。
雨は降り続いていた。用具室の庇の下で、ボクは、校門を窺っている。置い
てきぼりを食らったかもしれなくて、悲しい気分で一杯になっていた。雨脚が
強く、水煙が立つほどになっていた。
白っぽい煙が揺れる。と、その煙の先に何か蠢くものがあった。
カタツムリだ!
ボクの怪しい記憶だと、その時、初めて、用具室の脇に咲いている紫陽花に
気が付いたはずだった。それまで、ボクは紫陽花など、眼中になかったのだ。
カタツムリが、ノロノロと紫陽花の花や葉の裏に隠れた茎を伝っている。と
ても小さい。生まれたての赤ちゃんカタツムリなのかもしれない。
ノロノロと…。でも、もしかしたら赤ちゃんカタツムリは、雨に喜び勇んで、
元気にハイハイしているのかもしれない。それとも、お母さんカタツムリには
ぐれて、お母さんを探し回っているのだろうか。一人ぼっちでうろついたりし
たら、天敵か何かに虐められちゃうんじゃなかろうか。
ボクは、何となく、手を差し出して、赤ちゃんカタツムリの上に翳してみた。
傘のつもりだったのだろうか。その子のことを応援したくなったのかもしれな
い。ゆっくりと、でも、懸命に這うカタツムリ。
ボクだって、何も言えない性分だけど、でも、懸命に好きな子のことを追い
かけている。
そして追いかけているだけ。そう、思うと、雨が庇の中にさえ、降っている
ようで、紫陽花の花も赤ちゃんカタツムリも、歪んで見えるのだった。
どれほどの時間、ボクはそうしていたのだろうか。そのうち、ふと、学校の
玄関の辺りに目を遣ると、ピンク色の影が見えた。
彼女だ! 体半分しか見えないけれど、間違いなくあの子だ!
彼女は、校門の辺りを見詰めているようだった。雨の止むのを待っている?
とてもじゃないけど、今日は止みそうにないよ、そう言いたかった。
すると、校門から、誰かがやって来る。お母さん?!
そう、彼女のお母さんだった。蛇の目の傘を差し、手にも目にも鮮やかなピ
ンク色の傘を持っている。蛇の目でお迎えなのだ。二人は、玄関の辺りで何や
ら語り合い、やがて大小の傘が並びながら、雨の中、消えていった。
なんだ、そういうことだったのか。ボクは、そのときほど、傘のないことに
悲しく思ったことはなかった。
傘があったら、彼女に差しかけてあげられたのに…。
ああ、でも、このボクだ、傘があっても、声など掛けられなかったかもしれ
ない…。
ボクは、その日、帰るに帰られなくなってしまった。赤ちゃんカタツムリの
這う姿をいつまでも追いかけながら、雨に揺れる紫陽花の傍でずっと立ち尽く
していた。
04/06/18 作

|