冷蔵庫のない日々へ/コーヒーブレイク  

 
1.冷蔵庫のない日々へ  

2.コーヒーブレイク  





1.冷蔵庫のない日々へ  

 
[ 本稿は、この6月19日の朝、仕事を終えて帰宅し、冷蔵庫(冷凍室)の中からアイスクリームを取り出し、一服しようと思ったら、アイスがプニュプニュ?! なんと、冷蔵庫が故障だ! ということで、急遽、書き下ろしたものである。 (04/06/22 up) ]





 土曜日(6月19日)の朝、徹夜仕事を終え、七時半頃帰宅、シャワーを浴び、冷蔵庫から アイスクリームを取り出す。とりあえず机の上に置いておき、その間にパソコ ンを立ち上げたり、仕事の記録などを(紙の)日記に付ける。
 パソコンが立ち上がったら、小生の行きつけのサイトを一巡りしたり、掲示板に書き込んでくれたメッセージに返事を書いたりする。これが小生の仕事で朝帰りした場合のパターンになっている。
 その日の朝も、そうだった。そのはずだった…。
 が、そこまでやってもまだ、小生、異常に気が付いていない。
 パソコンにキーワードを入力して画面が表示されるまでの間に、さてと、と いうことで、幾分やわらかくなっただろうアイスクリームを口にするつもりで いる。
 タクシーという仕事柄なのか、特に金曜日が忙しかったせいもあるのか、神 経がやや昂ぶっている。こんな時は、帰宅してベッドに潜り込んでも、すぐに 眠れないことは今までの経験で分かっている。
 眠気がないわけじゃない。なんとなく神経がジンジンする感じがあって、眠 気に全身を浸したい体の欲求の波動を乱してしまうらしいのだ。
 以前は、カップラーメンなどを食べていたが、これが禍してか、激太りにな ってしまった。幾ら神経を胃の腑の快適な(さすがに腹七分ほどの)満ち足り た感覚で癒す、それともごまかすのだと言っても、やはりカロリー的に過ぎた るは…ということになってしまうらしい。
 そこで、ヤキソバやラーメンは止めて、ビスケットを少々だったり、牛乳を 温めて飲んだり、あれこれ試行錯誤してきた。冬だと、ココアをホットにして 飲んだりした。今は、三個で二百円のアイスクリーム(ビッグサイズ)を一個 だけ、食べるようにしている。
 幸いにして、二個を一気に食べるような、はしたない真似はしていない。
 アイスだと、舐めながら、齧りながら食べるので、時間的にも長めに楽しめ るというメリットもある。アイスを口にしながら、テレビを横目で眺め、溜ま っている新聞などを斜め読みしたりして、まったり過ごすことで、最初はビリ ビリジンジンしていた神経の鎮まるのをゆっくり待つのである。
 最近は、めったにないが、売り上げが良かったりすると、これが小生の至福 の時間だったりするのである。この後は、眠気の到来を待つだけなのだし。
 ところが…、そのはずだったが、その日の朝は、様子が違った。
 パソコンを立ち上げ、さて、アイスを口にしようと手に持ったら、なんだか 感触がおかしい。プニュプニュしている。柔らかめではなく、明らかに、断然、 柔らかい!!
 そう、完全に溶けているのだ。確かに台風の接近もあって、低気圧だったり 湿気が高かったりして、蒸し暑い感じはあったが、それにしても、こんな僅か な時間で一気に溶けるはずがない。
 小生は、慌てて冷蔵庫の冷凍庫を覗いてみた。すると、案の定というのか、 僅かな期待に反して、冷凍庫の中は、冷気漂うどころか、生温かい!!
 中の冷凍食品の類いは、どれもこれも袋がよれよれで、中身もグッタリして いる。買い置きして冷凍してあった総菜類も、作り置きし冷凍してある御飯も、 すべて、しどけなくなってしまっている。
 下段の冷蔵室のほうは、何故か未だ、やや冷気の名残があるような気がする。
 さては、コンセントが外れたのかと思ったが、冷蔵室の室内灯が灯るってこ とは、電源が入っているという証拠だろう。
 また、冷凍庫が生温かいってことは、モーターか何か電気系統がオンの状態 にあるということだろう。
 となると、故障と考えるしかないわけだ。
 性懲りのない、未練がましい小生も、この期に及んでやっと事態を認めるし かなくなったのだった。
 ああ、アイスクリームが食べられない! 
 いや、問題はそういうことじゃなく、冷蔵庫のない生活を余儀なくされる。 買い替えなど、小生の貧困生活からして、論外である。
 これで、我が部屋の故障は、浴室(トイレ)の換気扇に始まって、台所のヒ ーター(調理ができない。もともと、やる気はないのだけど、出来ないのと、 やらないというのとは雲泥の差だ)、14型テレビ(今は、使い物にならない カーナビのテレビで我慢している。映りが悪い!)、一時はラジカセ(これは、 いつだったか、ぶっ叩いたら、とりあえず動くようになった!)、電気ストー ブ、古いほうの扇風機、電子辞書タイプの広辞苑、ファックス機、コピー機な どと、電化製品のオンパレードだ。
 ここに、電池を買うのが惜しくて作動していない壁時計や携帯テレビなどを 加えると、小生の全財産にほとんど均しくなってしまう。
 その朝は、しかし、近くで缶ジュースを買ってきて、渇きを癒し、お茶を電 子レンジで温めて飲んだりして、適当に誤魔化し、なんとか睡魔も襲ってきて くれたので、とにかく寝ることにした。
 日中、いつものように、寝たり起きたりして(日中だし、近所が煩いので、 まとめて何時間も寝れないのだ)夕方となった。
 事態の深刻さを悟ったのは、夜となってからだった。冷蔵庫のない生活。し かも、これからいよいよ梅雨本番なのだし、その先は、夏が待っている。この 先をどう乗り切ればいいのか。
 もう、買い置きの類いはできない。夜、何か冷たいものが欲しくなっても、 近所の自動販売機まで出向いて買うしかない。買うにしても、当然、選択肢も ない。陳列されている少ない種類しか選ぶしかない。安いジュースを纏め買い するわけにもいかない。生温かいジュースなんて、飲めたもんじゃない。
 これからは、生物(なまもの)を買ったら、とにかくすぐに食べないといけ ないし、冷たいものは、余程、我慢がならなくなったら、買いに行くことにす るしかないし、普段の飲み物と言うと、お茶しかないことになる。
 2リットルのペットボトルのお茶を買い置きし、冬は勿論のこと、夏も温め て飲むのが小生の習慣となっている。四十代の後半になってからは、お茶を冷 やして飲むのは、炎天下などでの外出の際、切羽詰った時に限られている。自 宅では、お茶は温めて飲むようにしている。そのほうが、胃が楽だ! と訴え てくるのである。
 何年か前の夏の終わり、それまでは冷蔵庫の冷たいお茶をがぶ飲みしていた のが、その日は、ちょっと日差しも弱まったので、ふと、お茶を電子レンジで 温めて飲んでみた。
 すると、胃に、大息を吐(つ)いたような、心底からほっとしたという安堵感を覚 えたのだ。そうか、冷たいものがこれほど、胃に負担になっていたのだと、そ の時、つくづく、感じたのである。
 そうはいっても、冷たいものを飲みたいこともある。時に冷たいもの、時に 熱い物とその都度選択できてこそ、食生活は豊かとまではいかないが楽しいわ けである。それが、とにかく暖かいものか生温かいものしか口に出来ないとな ると、悲惨である。惨めである。
 土曜日の夜、喉が渇き、お茶も飲み飽きたので、外の自動販売機までサンダ ルを突っかけて、買いに行った。生暖かな外気の中。ふと、こんな感覚、昔、 よく味わったなと感じた。
 そうだ、昔、今よりも(事によると今のほうが?)貧乏な生活を送っていた 頃、学生時代は勿論だが、冷蔵庫なんて、洒落たものはなくて、夏の夜など、 よく、外へ買いに行ったものだったと思い出された。友人たちと、仲間の誰か のアパートに行くにしても、冷蔵庫など期待できないから、冷たいものと袋入 りの氷などを買って向うのが常識だった。
 一人だと、何本も買っても、どうせ、すぐに温まるし、一本しか買わない。 その貴重な一本も、飲みだすと呆気なく、飲み干されてしまう。となると、あ とは我慢しかないのだった。
 買い置きという発想法が当たり前になったのは、やはり、冷蔵庫があったれ ばこそなのだと、つくづく思ったものだ。
 それにしても、これからの長い夏の季節、遣り過せるのか、小生、自信がな い。となると、ますます創作などに励んで、気持ちを構想を練るほうに無理に でも振り向け、目先を誤魔化す生活を激化させるしかないわけだ。
 請うご期待? でも、その前に体力までが貧相な小生のこと、撃沈ってこと も、十分、ありえるから、怖い。

 
04/06/20 記





2.コーヒーブレイク  

 
[ 本稿は、あるサイトの掲示板でコーヒーの効用が話題になっていたので、急遽、書き下ろしたものである。 (04/03/13 up) ]






 過日、野暮用があって、徒歩と電車とで多摩川の土手近くに足を運んだ。普段 は、移動というと、バイクなのだが、その日は車検のため、バイクは預けてあり、 使えなかった。それに、時間に追われていて、好きな読書も侭ならない。そこで、 移動の手段も可能な限り電車を使うようになっている。
 バイクを日頃使う人間には、徒歩や電車での移動は、かったるい。
 が、電車を選んだ以上は開き直って、これは書斎なのだ、あるいは車内の人間 模様の観察の場なのだ、車窓を流れ行く町の風景、あるいは空の青さや雲の形を 愛でる寛ぎの場でもあるのだ、などと自分に言い聞かせる。
 この言い聞かせるという姿勢自体が、作為的であり、リラックスには程遠く、 で、実際にやっていることといえば、ひたすら読書。回りの光景など、何処吹く 風、壁の落書き…、実に情ない有り様なのである。

 さて、その多摩川の店で用を済ませた後、せっかくなので近所にある喫茶店に 向うことした。その店はあるだろうか。小生のサラリーマン時代、一時、ゴルフ に熱中したことがあり、となると練習もしなくては、ということで、ゴルフのク ラブを数本ピックアップしバイクに縛り付けて、都心から多摩川の土手にある露 天の練習場に通ったものだった。
 青空の下、打ちっ放しということで、ゴルフの玉を打つと、青空を背景に白球 の描く弾道が実に美しい、そして気分爽快なのである。その快感を覚えると、ゴ ルフをするのと同じくらいに打ちっ放しの練習が病み付きとなってしまう。
 それまでは、週末というと、オートバイを駆って、関東近縁の山や湖や河原や 海辺に向い、陽光を灯火に読書する…、小生は、自分でそれを読書ツーリングと 称していた。読書もしたい。でも、オートバイにも乗りたい、で、苦肉の策とし て好きな本を選び、何処か静かで眺めの美しい場所にバイクを止め、本を読み、 あるいは風景を愛でる、というわけだった。

 そのオートバイ狂時代に終止符を打たせたのがゴルフだったのである。
 多摩川にある野天の練習場まではオートバイ、待ち時間には読書、順番が来た ら打ちっ放しと、楽しいことの多重奏なのである。しかも、広い河原であり、目 を遠くへ投げれば、普段の狭っ苦しい風景とはまるで違う世界が我が目を楽しま せてくれる、というわけである。
 さて、待ち時間がたっぷりとある時は、土手の近くの商店街にある喫茶店に入 るのが、これまたこの上ない楽しみだった。音楽喫茶というほどではないけど、 いつも静かな音楽が流れていて、喜寿になろうかというマスターがまた、コーヒ ー好きという雰囲気をプンプンと漂わせていて、コーヒーというより、珈琲と書 いてあげるべきなのかと思ったりする。
 サイフォンなどを駆使し、少々の時間を掛けて、用意してくれる。大概はモー ニングセットなどを注文する。ここが本格的な珈琲好きとは違う、しょぼいとこ ろなのだが、しかし、ハムエッグとトーストと珈琲のセットが楽しみで、日曜日 はいつも以上に朝寝坊の小生が、わざわざ朝早くにこの店に足を運んでいたのだ。
 やがて、コーヒー独特の嗅覚の快感のツボを突くような苦い渋い、でも焦がれ るような香りが漂ってくる。至福の一時。コーヒータイムというのは、飲むのも 楽しいのだけど、香りが漂い始める瞬間こそが愉悦の時なのではないかと思われ たりする。
 ただ、缶入りコーヒーで味を覚えた甘ったれの小生は、せっかくマスターが腕 によりをかけて焙れてくれたコーヒーにシュガーとミルクをタップリ入れてしま うのだ。これでコーヒー独特の苦い香味の大半が吹き飛んでしまうのだ。だから、 尚のこと、香りが漂い始める瞬間が愛しいのだろう、か。
 バターをタップリ塗った厚切りのトーストを食べ、ハムエッグを食べ、コーヒ ーを飲みながら新聞を読む。小生、新聞が好きである。少なくとも、読み始める までは新聞の来るのが待ち遠しい。いざ、読み始めたら、中身についてあれこれ 思ってしまうが、まだ、皺の寄っていない、折られたままで開かれていない新聞 は好きだ。もっと余裕があると店のラックにある漫画の本を読んだりもするのだ が、そこまではゆとりがない。
 耳からはマスターが選んだのか、クラシック音楽が流れてくる。他の客ともマ スターはお喋りするが、静かな雰囲気を壊すまいという意識が店主にも客にもあ るようで、耳障りになることはない。決して広くはない店なのに。
 そんな店に(というか、打ちっ放しに)通っていたのは、80年代の半ば頃だっ たろうか。通うのをやめた、ということはゴルフの打ちっ放しでの練習も止めた のは、そろそろ80年代も残すところ二三年という頃だったと思う。
 会社が傾きかけたり、社内の空気が澱んできたり、いろいろあってゴルフどこ ろの気持にはなれなくなったのだ。

   それから15年以上の時が流れた。あの店はあるだろうか。あの喫茶店での至福 の時の再現は成るだろうか。
 行くと、店はあった。さすがに建物が古びて歳月の経過を感じさせはするが、 外見は変わっていない。さて、中はどうだろう。
 入った瞬間、ガッカリした。店内のカウンターなどの作りは昔と変わらないの だが、テレビがあり、競馬中継が音高く流れている。マスターはいなくて、店の 女主人らしい人が客と競馬の話やら、近所の噂話やらを誰に遠慮する風もなく、 喧しくやっている。
 その日は、食事もとらないで現地に向った。
 時間が遅いこともあり、モーニングセットの時間からは大きく外れており、と りあえず、コーヒーの前に食事をと、肉野菜セットなどを注文した。
 料理は美味しかった。でも、音楽の音は競馬中継の音が喧しく、聞こえるよう な聞えないようなだし、とにかくお喋りが煩い。とても、コーヒーを注文する気 にはなれなかった。
 この上、コーヒーを飲んで、味にガッカリしたら、やりきれない悲しさが募る だけだと思われ、食事を終えたら、そそくさと出てきてしまった。

 さて、小生は、いつ頃からコーヒーを呑み始めたのだろうか。中学や高校の頃 はどうだったろう。自宅にはインスタントのコーヒーもなかったような気がする。 我が家では未だコーヒーを飲む習慣はなかったはずである。せいぜい、銭湯に行 った時、風呂上りに壜入りのコーヒー牛乳を飲むくらいだった。
 我が高校は(というより、我が県下は)、高校生が喫茶店に入ることが禁じら れていた。だから、放課後に町中の喫茶店に入ることもなかった(はずである)。 数が少ないので、入ると目立つこともある。
 ということで、本格的にコーヒーを飲むようになったのは、晴れて酒も飲める 大学生になってからのことだった。細々としたことは書かないが、下宿で学校の キャンパスで、外食での喫茶の形で、煙草とコーヒーという組み合わせが、生活 の一部としてなくてはならないものとしてガッチリ組み込まれてしまった。
 路上でだって、UCCの缶コーヒー、あるいは紙カップのコーヒーを買って、 カップ片手に歩いたりもしたものだった。
 学生時代が終わり、サラリーマンになってからも、自宅でインスタントのコー ヒーは欠かせない風物となっていた。煙草は大学を卒業した記念に止めたが、コ ーヒーは友達のままだった。朝、目覚めに、午前中に、昼食後に、午後に、夕方 食事の後に、夜の一服の時に、寝る前にと、一体、日に何杯呑んだものか。

 が、それが気がついたらまるで呑まなくなってしまった。今、思い出そうとし ても、いつから呑まなくなったのか、また、呑まなくなる明確な切っ掛けがある のかどうか、記憶に定かでない。
 ただ、時期的にあの頃なのかと思うのは、やはり会社が傾き始め、小生自身が 窓際族をヒシヒシと感じ始めた頃なのである。
 その頃は、やたらと忙しかった。というより、仕事が小生一人に集中し、他の 社員は社長も含めて全員、帰ってしまい、一人で夜遅くまで居残って仕事し、帰 宅しても仕事のことが頭からはなれず、夜も眠られず、朝は誰よりも早く出社し て、なんだか先のまるで見えないトンネルを一人、闇雲に走っている、そんな状 態に追い込まれていた。
 精神的に余裕がまるでなかった。孤立している自分を痛いほど、感じていた。 コーヒーを飲むどころか、スーパーに立ち寄る時間も気力も萎えきっていた。自 宅では寝たっきりの生活が続いた。食欲もなく、コーヒーどころか、僅かな寛ぎ の時さえも夢のまた夢という状態だった。
 気がついたら、コーヒーを飲む習慣など、すっかり消えていた。会社でストレ スを抱えるようになったのは、それまでの現場仕事から事務所での書類仕事にな ってからなのだが、食欲はないにも関わらず、それまでの習慣で現場仕事をして いる時と同じ量を食べることは続いていた。しかし、肉体的な労働量は遥かに減 っている。自然、太ることになってしまう。
 書類仕事になった年から、年に2乃至3キロずつ、毎年、体重が増え、アッと 言う間に標準体重を二十キロ超えてしまったのである。ウエストが76から78セン チだったものが、気がついたら100に迫るほどになっていたのだ。
 その間、コーヒーを飲む習慣などあるはずもない。別にコーヒーを飲まなかっ たから太ったのだとは思えない。時期的に符合するのだとしても。

 そういえば、最近、コーヒーの健康への効果が話題になったりしている。高血 圧に効果があるとか、それまでは悪玉だったカフェインが糖尿病に効果があると かなんとか。
 わざわざテレビで嘘の情報を流すとも思わない。そう、熱心に言うのなら、そ れはそうなのだろう。メーカーの差し金かとも思うが、まともに信じるも良し、 軽く聞き流すもまた良し、である。がぶ飲みさえしなければ、体に害もなかろう し。
 情報は、あるいは食べ物の評価は変わるのが常だある。昨日までの悪玉が今日 は友達…。明日また、憎まれものに変わらないと、誰が言えようか。まして栄養 学にも何にも素人の小生、何をどう信じればいいのか、まるで分からない。
 テレビ(やラジオや雑誌や新聞など)で毎週のように、新しい情報が流れてく る。食べ物や飲み物に限っても、溢れるほどの情報が流れてきている。その全て が信頼できる情報だったとしても、洪水の如くに押し寄せる情報を微細に至るま で受け止め的確に理解し、まして実行するわけにもいかない。
 話をコーヒーに限っても、では、コーヒーをこれから呑むようにします、とな るかどうか。

 思うに、コーヒーに健康への効果があるというのなら、それはそうなのだろう。
 でも、我が身を、我が経験を振り返ってみると、なぜにコーヒーを飲む習慣が なくなったかというと、心のゆとりがなくなったからである。精神的に追い詰め られ、コーヒーをインスタントであれ、スーパーで購入するなどして用意しお湯 を沸かし、スプーンで掻き回し、などのもろもろの準備動作が、そのどれもがあ る意味、嘗ては楽しみであったものが、もう、面倒で苦痛でならなくなった。そ んな作業に費やす時間が惜しくなった、そういう自分がいるようになったのであ る。
 要は、コーヒーがいいかどうかではなく、その前に、コーヒーをゆっくり味わ う心のゆとりも何もなくなったことが体調の不具合の原因なのだろうし、となる と、大切なのは、コーヒーを飲むかどうかではなく、まずはコーヒーを飲める精 神的な余裕を作り出すこと、ということになる。

 ところで、これまた余談なのだが、我が田舎の家で、いつしかコーヒーを飲む 習慣が作り上げられていた。それは老いた両親のこと。気がついたら、我が家の 茶の間には脇のテーブルに必ずインスタントのコーヒーが常備されているように なったのである。
 それが、不思議なことに時期的に、小生がコーヒーを飲まなくなった時期と並 行しているのである。お袋は、糖尿病を長く患っているので、恐らくは誰かにイ ンスタントのコーヒーは高血圧にも糖尿病にもいいよ、と聞かされたのだろうか。 お袋は、小生と違って、コーヒーには砂糖もミルクも一切、入れない。アメリカ ン風にして何杯も飲む。父は、砂糖もミルクも少々混ぜるようだが。
 小生が正月やお盆に帰省すると、父らは小生にコーヒーを飲まないかと誘う。 が、皮肉なことにコーヒーを飲む習慣の消え去ってしまった小生は、答えを曖昧 に暈したまま、御茶でその場を濁す。
 せっかくのコーヒータイムをみすみす我が手で流してしまった。あるいは、コ ーヒーが用意してあるのは、両親の太り気味で糖尿病が懸念される小生への気遣 いだったかもしれないのに(間違いなく、そうなのだ!)。
 そのコーヒーも、田舎の我が家では、今は、手があまりつかないようである。 というのも、肝腎のお袋が入院してしまったからだ。
 減る様子のないインスタントのコーヒーの壜。過日、喫茶店へ入ってみような どと思ったのは、遠いお袋の呼び声だったのだろうか。これからは、コーヒーを 飲むことを禁じられているお袋の分も、小生が代わりになって呑んだものだろう か。でも、父と二人で飲むコーヒーは、何か味気ない。

 分からない。先行きのことは、何も分からない。いつの日か、今度は親子三人 でもう一度、コーヒーブレイクと洒落てみたいものである。
 やはりコーヒーは、お袋のように、砂糖もミルクも入れないで飲むのが相応し い、ほろ苦い飲み物なのかなとつくづくと思う。

 
04/03/12記



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