紅 い 雨

                                              (03/04/14 up)



 その男は闇に向っていた。崖っぷちに立っていた。
 俺には彼の後ろ姿しか見ることができない。
 ガッチリとした巾の広い肩、太い首。それなのに細身の体に感じられるのは、 筋肉が引き締まっているからなのかもしれない。
 男の青褪めた頬が僅かに見える。遠い月影を食い入るように眺めているのか。 それとも、煌煌と輝く月の光暈を彼の気迫で吹き払おうとしているのか、俺に は分からない。もしかしたら虚無を射竦めているのかもしれない。
 その男の背中を赤い影が圧し掛かっていた。篝火(かがりび)のせいだった。 日中にへし折られた木の枝が堆く積まれ、夜も更けた今、一気に燃やされてい るのだろう。
 何かの祭りなのだろうか。それとも得体の知れない儀式に立ち会ってしまっ たのかもしれない。燃え上がる陽炎が少し離れた木の陰にいる俺をも赤く染め 上げようとする。散り遅れた桜の花びらが風に舞い、そしてひらひらと漂って は落ちていく。
 雨だ。紅い雨だ。それとも、紅い雪なのかもしれない。深紅の牡丹雪が舞っ ているのだ。決して溶けない雪。黒い大地を覆い尽くそうとするかのように激 しく降る血飛沫の雨。
 男の背中にも幾片かの花びらが纏わりついている。
 遠い月は蒼白を極めている。光の暈も冷徹なまでに落ち着き払っている。こ の地上世界に獣どもが這い回っていることなど、まるで頓着しない。
 宿を抜け出してきた俺は、もう、身動きが取れなくなってしまっていた。一 歩でも動けば、男が振り向き、俺を嬲り殺しにするに違いない。俺を邪魔する 奴は許せない、と。
 息をするのも憚られた。いつか篝火の燃え尽きるのを待つか、それとも月が 傾き、山並みの端に沈み込むのを待つしかない。
 あるいは、紅い雨に奴が祟られてこの世から消え果るのを待つ?!
 立ち竦みながらも、息を呑む美しさに俺は酔っていた。澄明な宵闇と、妖艶 で凄絶な蒼白き真珠と、そして篝火に照らされ浮かび上がる紅い雨との醸し出 す絶妙の時空間。遠い昔、赤い襦袢を肌蹴た女たちの館に迷い込んだ時のこと を思い出していた。緞帳と衝立と団扇と帯紐と提灯と、杯盤狼籍の寝屋の奥に は白い脚の乱舞。俺は無数の足に挟まれて窒息して果てた。果てる末期の瞬間、 俺は三途の河原であの子と戯れ、やがて共に桜の木の枝に首を吊られるのを見 た。そうだ、俺はそれだけのために生きたのだった。
 あの男は一体、誰なんだ。何に背を向けているのだ。篝火に? この世に?  それとも俺に?!
 俺は、とうとう我慢がならなくなった。どうしても奴の正体を確かめたくて ならないのだった。せめて俺のほうへ振り向かせたかった。あんなにも平然と、 そして冷然と背を向けていられる奴に嫉妬していた。俺などは、せいぜい宿を 抜け出して、森の杣(そま)道をさ迷い歩くだけなのに、奴は世に超然としてい る。うろつく必要を毫も感じない。屹立している。
 俺は奴を引き倒したくなった。少しはぐらついてみろ、と言いたくなった。 俺みたいに地を這い付くばらせてやりたかった。俺と同じ目に遭わせてやりた かった。
 紅い雨の降り頻る中、俺は奴に近付いて行った。ああ、この俺も、何処かで 誰かが見つめていてくれたなら、血の雨を行燈の油であるかのように舌なめず りする狂った猫ほどには見えるのだろうか。
 脛に張り付いて血を吸う蛭、何故か俺は自分という人間が、そう、感じられ た。奴を押し倒すのだ。地に平伏させるのだ。俺と同じ地平に引き摺り下ろし てやるのだ。その時、きっと、血を啜る猫、それとも血を吸う蛭ほどの快感が 得られるに違いない。無上の悦びに欣喜雀躍するに違いないのだ。
 ついに俺は奴の背後に立った。それでも奴は、崖の淵に立って、遠くを見続 けている。どうして俺の気配を感じないのだ。殺気の切っ先くらいは予感して もよさそうなものではないか。なんて憎たらしい奴だ!
 俺は、奴の背中を思いっきり、ど突いてやった。が、手応えは何もなかった。 俺の手は奴の体を突き抜けて、闇の中に何処までも埋まっていくのだった。
 そこには誰もいなかった。あるのは紅い雨だけだったのである。


                                            03/04/12 01:35


 [タイトルでもある「紅い雨」(紅雨=こうう)というのは、(1)「春、花にそそぐ雨」の意もありますが、(2)「紅い花吹雪の散り舞うことを雨にたとえて」表現する言葉でもあります。
 4月の17日の夜はちょうど満月だったのですが、東京は世田谷にある桜新道をタクシーで通りました。その時、月光と街灯に照らされて、恐らくはソメイヨシノだろうと思いますが、白やピンクの桜並木が実に素晴らしかった。並木の上には卵の黄身のような妖しい月がポッカリ。お客さんが乗っていなかったら、路肩に車を止めて眺め入ったかもしれない…。 (03/04/19記)]