[ 本稿は、一昨年暮れに書き、メルマガに掲載した一文である。「夢見心地なままにオフ会と温泉と(9/10)」の中で、デジタルとアナログが話題になったので、その関連テーマということで、急遽、アップすることにした。 (03/11/11 up) ]
いつだったかラジオで音楽プロデューサーが仕事であるという、斯界ではベテラン
の誰かが昔の音楽製作の苦労やエピソードを語っておられた。
彼が特に活躍したのは、楽曲を聞くといえば(音楽会などの生の場はともかく)L
PあるいはSP盤のレコードをステレオで針を下ろして聞いていた頃のことである。
つまり、70年代から80年代の半ば頃までとしておこうか。
尤も、まあ、80年代の終わり頃までは、大体、そんなものだっただろう。けれど、
80年代の末頃には、音楽シーンは大きく変貌し始めていた。
その典型はアイドル像の変貌振りに見られる。でも、ここではアイドル論などをや
る気はない。
昔の音楽製作は、生のバンド(それも時にはオーケストラほどの規模になることも
ある)を従えて歌手が、マイクや録音装置や大勢のスタッフを前に、一発勝負で歌う
わけである。
少しでも音程を外したり、タイミングが合わなかったり、あるいはバンドの演奏が
いまいちだったりすると、その瑕疵となる部分だけを録り直すというのではなく、全
くの最初から全部をやり直す羽目になる。
歌手もスタッフもバンドも、みんな緊張と集中の極で録音していたわけだ。
そして小生のような聞き手は、LP盤などを、その表面の埃を注意深く払い、なん
とか購入したステレオで、針をそっと下ろし、やがて流れ出す音や曲や歌の世界に聴
き入るのだった。時にはレコードに傷があるのか、それとも、埃のせいなのか、ある
いは針自体に問題があるのか、曲が飛んだり、妙な雑音が入ったりする。
勿論、興が削がれるわけだけれど、それはそれで仕方ないと思っていた。それとも、
いつか、もっと完璧な装置が現れることを夢見たこともあったかもしれない。
さて、時代が変わり、アイドル像も、まるで機器の変化に見合うかのように変化し
ていった。優れたプロデューサーがアイドルを完璧に演出して、私生活までも制約し
て、アイドル像をファンらの前に創出する、そんな時代は遠いものとなった。
どこかに曲の中に描かれる少女や少年像そのままの青春像があるかのような幻想は、
すっかり消え去ってしまった。なるほど、歌に歌われた、あるいは歌い上げた世界は
虚像に過ぎなかったのかもしれない。けれど、その虚像に酔い、虚像に憧れたりもし
たことも事実なのだ。
が、上記のプロデューサーの方も語っていたが、恐らくはおにゃんこクラブが話題
をさらった時から、音楽シーンが大変貌したのである。
アイドル達は素顔をファンの前に次第に平気で曝すようになった。決してプロダク
ションに指示され虚構されたアイドル像ではなく、実像に近い私生活もファンに話題
として提供されるようになった。
このことの意味するものについては、ここでは触れない。
その歌謡曲(や演歌)全盛のシーンの終焉に平行するように、音楽収録もアナログ
からデジタルの時代へと移り変わっていった。
小生はCD(デジタル録音)がいつ登場し始めたのか、正確な年月は知らない。単
純に80年代の終わりか90年代の初め頃と覚えているだけである。
デジタル録音となって、変わった大きな要素は、収録の方法の変化である。編集が
容易になったということ、というより、編集そのものが大きなウエイトを占めるよう
になったといったほうがいいかもしれない。
そこでは必ずしも歌手とバンドがスタジオに一緒にいる必要性も必然性もない。一
緒にいればそれはそれでいいが、いなくてもいい。また、比重が編集に移ったことで、
歌手が昔に比べれば収録ミスのプレッシャーも掛からずに、プロデューサーのオメガ
ネに叶わなければ、幾度でも、その部分だけやり直すことができる。
また、曲を何層にも重ね録りすることも容易である。場合によっては、何十層にも
音を重ねて、音の深みや厚みを聴取者に感じさせることも可能だ。小生の好きなアイ
ルランドの歌手エンヤも一人で録音し編集し、一つの音を百回も重ねることもあると
いう。
いずれにしても、デジタルの時代となって、まだ精々10年が経ったか経たないかだ。
けれど、時代の変化がそう思わせるのか、何か社会の雰囲気そのものが大きく様変
わりしたように感じられる。
デジタルは、収録の編集を容易にし、高度にしてれた。音を様々に加工して、アナ
ログの時代には期待し得なかった音の世界を切り拓いてもくれた。シャカシャカする
例のウオークマンの登場は、音楽を聴くシーンさえも飛躍的に多様にしてくれた。
が、デジタルは、編集や収録が容易ということは、何か、シーンはいつでも編集や
加工が可能であるかのような幻想をも生み出しているように思えてならない。無論、
誰も人生はやり直しがきくとは思っていない。一度やってしまったことは、消え去る
わけもない。
そうはいっても、一度失敗したからといって、やり直しがきかないわけではない。
それはそうだ。挑戦することは極めて結構なことだ。失敗を恐れては何事も始まらな
い。
けれど、人生は、デジタル像(音源でも映像の場面でも)のようには重ね録りも編
集で手直しするなんて手法も効かない。その都度、真剣勝負とまで大袈裟に言うつも
りはないけれど、その日その日は、一度限りのものだ。その人との出会いは、その限
りで終わりかもしれない。その瞬間は、もう二度と訪れないかもしれない。
一度、現実と化した場面は、常に過去へと潜り込んでいくばかりで、決してこの手
に帰らない。過去は消せないのだ。そして、それは今という、この瞬間がいかに貴重
でかけがえのないものであるかを意味している。
ファッションや化粧やライトアップで多少の演出は可能かもしれない。が、化粧の
下の素顔の思いまでが脚光を浴びるわけではないし、一期一会である瞬間の厳粛さま
でを軽くしてくれるわけでもない。
写真やビデオに今という瞬間を録っても、それは過去の虚像を今に亡霊のように蘇
らせているだけかもしれない。今の空虚さを過去の亡霊という、もっと空虚なる幻影
で埋めようとしているだけかもしれない。今をビデオに録って残そうという営みとい
うのは、実は、今という瞬間を肉眼で、裸の心で直面しようとする営みの拒否に他な
らないのかもしれない。
つまり、今をいかに貧困な心で生きているかを糊塗するためにビデオやカメラがあ
るかのようなのだ。別に断言はしないし、干渉はしないけれど、勧奨もしない。
生きている瞬間。今、ここに生きている自分やまわりの誰彼が大事。レールを敷か
れた先のキャリアー人生も大事かもしれないが、レールから外れて道草をし、足元に
生い茂る雑草の強さと可憐さを愛でることは、もっと大事かもしれない。
人の目の解像度というのは、本来優れたものだそうだ。けれども、限界はある。き
っと、感性の解像度にも限界があるはずだ。アバウトな感覚の遊びの中に、アナログ
な雑音と不協和音と沁みと滲みとの混じった感覚の遊びの中に、心のゆとりの余地も
あるに違いない。
かの音楽プロデューサーの話を聞きながら、そんなことを思った。
01/12/19 00:25

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